みがわりノート

記事タイトルの意味がわからない?二重引用符でくくってググってみてください。

代わりの男はまだ来ないから

潰レポ。

 

発達障害者が仕事にやられてダメになるまでのレポート、である。つくれぽみたいに言うのをやめろ。

 

今回は珍しくタイトルに引用している歌詞の解説をしておこうと思う。今回も相変わらず筋少だ。
「代わりの男」というめちゃくちゃゆったりした、割と短い曲がある。
ゆったりした曲は基本私の好みではないのだが、オーケンの歌詞が載っているとなると話は別だ。

 

夜が明けたら 僕の代わりが 待ち合わせの この駅に やってくるはず
ねえ君 うまくやりなさい 悲劇的な詩を歌って おどけていれば だれも気づかない
昔えらい人が 娘を刺した この駅で
僕は 待ってるから 夜がもうすぐ明けるよ
ねえ君 代わりの男 僕を早く休ませてよ
星も帰り始めて 代わりの男は まだ来ないから

 

こんな歌詞だ。これで全部。
どうにも自分の人生に疲れたとき、誰か代わってくれよとつい思ってしまう心情、だけどそんな「代わり」が現れるはずもなく、という曲なんだと思う。本来は。
でも私には確かにずっと「代わり」がいた。幼児のような私に代わって、社会生活をそれなりにうまくこなしてくれるほうの私。少し二重人格的かもしれない。
「代わり」はいつもいてくれるわけじゃない。家に帰ると消えてしまう。でも仕事の場面や他人の前になると、どこからともなく急に現れて、全部うまくやってくれる。
うまく、と言っても「代わり」もせいぜい高校生くらいの歳だ(と感覚的に思ったのだが、確かに実年齢に2/3を掛けると17歳だった)(発達障害者の精神年齢は実年齢の2/3程度だという噂がある)。それなりに失敗もする。
一人親家庭で、働きに出ている親の代わりに子守りをしなければならない苦労人の女子高生みたいな絵面だ。
そんな「代わり」に負担をかけすぎたのかもしれないな、と今なら思う。壊れてしまった「代わり」だったものの残骸は、倒した敵キャラのように薄れて消えてしまった。また発生するのだろうか?

 

思えば、夜が明けて仕事の時間が近づいてくるのに「代わり」の気配がしないことが、ちょうど1年前ぐらいから少しずつ少しずつ増えていった気がする。
それはちょうど職場が大きな方向転換をし始めた時期と一致する。この方向転換はあくまで計画的なものだったが、途中でコロナの邪魔が入り、全世界が大きな方向転換を余儀なくされた。
当然、職場もいろいろとそのとばっちりを食った。元々手探りで事を進めていかないといけないだろうとは言われていたが、その手に野球のグローブでもはめられてしまったかのようだった。
それでもこの秋までは、まだ「代わり」はそれまでと同じように持ちこたえていた。

 

職場がひとつのターニングポイントを迎えたころから、仕事をしていてわけがわからなくなることが増えた。
初めてやる種類の仕事だというのも大きかったが、いつもの「代わり」ならもうちょっと状況を読み解けるはずだった。
子守り役のいなくなった私には、忙しなく動き回る同僚と目まぐるしく変化する状況がまるで魚の群れのように見えた。
私と世界の間には、水族館ご自慢の分厚いアクリル板でできた水槽があった。わずかに不自然な屈折率。歪みをなるべく抑えてあるんですよ。
私も魚の一匹となって来館者を出迎えなければいけないはずなのに、透明な壁に隔てられ、人工の海はあまりに遠かった。

 

ただ仕事場に来るだけでは「代わり」は現れなくなった。仕方がないので幼児のほうが仕事の真似事のようなことをする。
人に話しかけられると「代わり」が急にやってきてそれなりの受け答えをしてしまうのだけれど、やはりそのうち社内の人相手には現れないことも出てきた。
年末が近づいてくると、もうお客様の前でしか「代わり」は出てこなくなった。その代わり、出てきたときはほぼ完璧に仕事をやり切った。
なんやかんやでどこで一番粗相をしてはいけないかはわかっているらしい。

 

だんだんとミスが増えて、というような潰れ方がきっと人間典型的なのだろうが、残念ながら私は非典型的人間だ。潰れ方すら非典型的な経過を辿るとは知らなかった。
思い返せばたしかに多少のやらかしもあったが、周囲が心配になるほどの壊滅的な感じにはなっていなかった。
結局、年明け少ししてある日、身支度の仕方がよくわからなくなって出社できず、しばらく休ませてもらうことになったのだった。我ながらすごい理由だ。
その当日が一番状態としてはヤバく、普段の口下手に輪をかけて喋れないというか、話そうと思っても全然文章が組み立てられないというような症状もあった。
PCやスマホで文章を打つことだけはできた。さすがに言語活動の中で一番得意なだけある。ちなみに文章を手書きで書こうとしたらそれも潰れた直後はできなかった。

 

前回潰れたときは鬱がひどかったものだが、今回気分はどこまでも平坦だ。

 

数日積極的にダラダラさせてもらい、とりあえず服の着方も思い出し、書いたり話したりも一応できるようにはなった。
途中で、今ものすごく職場が忙しいはずだというのを思い出した。前から極限状態だったのに。大戦犯だなあと思った。でも何人かがもったいなくも優しい言葉を掛けてくれた。

 

もうとっくに働けるまでに治っていてサボっているだけのような気もするが、試しに買い物しようと思うとわけがわからなくなって何も買えない。
ご飯の注文とか、おやつを買う位のことならまだできるが、服や雑貨を見たときにいつも動いていた頭の部位が黙ったままのような感じがする。
分厚いアクリル板は私を繭のように取り巻き、相変わらず世界は遠い。
またこれは外出に連れ出してくれた人がいたおかげでわかったことだが、私は他人と一緒に行動しているとき、率先して例えばエレベーターのボタンを押したりするよう心掛けていた。普通なら。
そういう気を回す行動全般ができなくなっていた。これも「代わり」がやってくれていたのだろう。
他にも歩き慣れた道でどっちに行くべきか一瞬迷うことも増えたし、これで接客業に戻るのは割とまだ危ないような気もする。

 

潰れた引き金が何だったのだろうと考えると、ふっと気が緩んだことだったのかもしれなかった。
潰れる少し前、職場内でとてもえらい位置の人に話の流れで発達障害をカミングアウトしたら、予想外にものすごく理解があったという出来事があった。ありがたいことだ。
こちらの苦しみを想像しようとしてもらえた。環境調整をしていこうと話してくれた。それは心強いことだったけれど、もう「代わり」の足元には踏み出すべき地面がなかった。
崖を走り抜けてから間を置いて急に重力の存在を思い出したトム・キャットのように、いつの間にか限界を超えていた「代わり」は落ちて、壊れた。コミカルな効果音は鳴らなかった。

 

誕生日が来ても、年が明けても、世紀が変わっても、別に効果音が鳴ったりはしない。そんなこと小学校に上がる前くらいにはとうにわかっていた。
なのに、限界になっても音とか鳴らないんだ、と思ってしまった。この世界は人が壊れたくらいでは別に何の音も鳴らしてくれやしないのだな。

 

何が壊れたら世界はブーと鳴るんだろうな。

僕らの生きてた地獄を

クールスカルプティングをやった話。やっとこさ本編。

 

予約時間にクリニックに着くと、今回もやっぱりものすごくプライバシーに配慮した形で、施術内容の確認がなされ、そして料金を支払った。
前にも書いたように、知らない人と顔を合わせる待合室で名前を口頭で呼ばれることのないよう番号を振ってくれるし、
内容確認の際は、いろんなメニューや身体のパーツが予め印刷された表を使い、「こちら(手で指し示す)の内容」「○○番の部位」というような具合で、他人に内容がわからないように最大限配慮して行ってくれる。
もちろんコロナとか関係なくカウンターには衝立があり、隣の人が受付と何を話しているかは見えないようになっている。
これならVIOの脱毛(それにしても、初めてこの名称の意味を知ったときにはいいネーミングだなと感動したものだ)とかのちょっとデリケートな施術のときでも気にならなくていいと思う。
料金の支払いはあっけないものだった。さよなら私の月収ピーか月分。でも脚の脂肪がこれでいくらか消せるんだもんな。
物質と反物質はぶつかると対消滅するが、マネーと脂肪もぶつけると対消滅するのだなあ。そんなアホなことを考えた。

 

検討初期段階では全然気づいておらず、契約直前ぐらいにさらっとスタッフさんから言われてアッたしかに!と思ったのだが、1日に8エリアもこの施術を行うということはわりとなかなかの時間を要する。
40分×8か所で単純計算で320分。実際は他にもやることがあるのだから、ほとんど半日仕事だ。
施術は複数日に分けてもよいし1日で済ませてもよいし、どちらでも都合の良い方でと言ってもらったので、迷わず1日に詰めこんだ。身支度困難勢にとって外出回数は少ない方がいい。

 

いざ施術本番、の前に、どういう風に施術を行うかの最終打ち合わせおよび確定作業と、あとモニター割引の対価としての写真撮影・身体計測が必要だ。
自分の下着を脱ぎ(写真に写り込んでしまうと身バレに繋がるため)、用意されていた使い捨ての下着を履き、その上からシンプルなブルマのような、究極に没個性的な黒い水着を重ねて履く。
おお、よく広告に載っている写真の人みたいだ。いやそのための写真を提供するのがモニターなのだから当たり前だが。ちなみに今回は顔は出さず、施術部位だけの写真を提供するという条件だ。
よく、あやしい業者の広告とかだと、ビフォーとアフターで化粧の気合の入り方が違うやんけとかライティングの加減やんけみたいなことがあるが、
そういうことにならないように、つまり誰がいつ撮影しても一定のアングルになるように、ここに沿って立ってくださいねみたいな板が用意されていた。
そして写真だけでなく、採寸もある。スタッフさんがメジャーで決まった場所のサイズを計測してくれる。もちろん記録される。前後で比較するのだろう。
当然だけど結構太くて心のなかで凹む。でもそのダメージは純粋に数字に起因するものだ。
スタッフさんの視線とか態度によって傷つけられるようなことはなかった。他人にコンプレックスをバーンと晒しているにもかかわらず、なぜだか安心して信頼できた。
それはたぶん、(おそらく)同性であることに胡坐をかくことなく、私の身体に敬意を持って接してくれていたからかもしれない。
敬意といってもそんな難しいことではない。お世辞とかでもない。触れる前にちょっと失礼しますと添えてくれるとか、その程度のことだ。
普通の病院のお医者さんだと、時々いる。あっ医療行為なんで。触らないとわかんないんで。そんなノリで、触診にまったく遠慮を見せないタイプの人。
女医と女性患者の組み合わせのときのほうが、却ってずけずけという言葉がちょうどいいような勢いで触られる場合も多いような気がする。
医師にとっては日常の流れ作業的なしょうもない仕事の一つだし、たしかに遠慮なんてしているだけ時間の無駄かもしれない。だからガシガシ行く人がいるのも理解できる。
でもたいていの場合、医師の診察を受けるということは、受ける側としてはそれなりに非日常だし、やっぱり自分の身体を他人に見せるというのは、いくら必要に迫られてであってもそれなりにはストレスだと思う。
とか語っているが、私自身は診察という明確な目的のもとで医師に身体を見せたり触らせたりすることには、実はそんなに抵抗がない。気にならないほうだ。
それでも、敬意を持って身体を扱ってもらうことは明らかによい体験だった。ある種の癒しや救いとさえ言ってもいいかもしれない。
自分の身体を大切にするということが全然ピンと来ない人生を送っていたが、ああ自分の身体も尊重されるべきものなのかもしれないな、とその時初めて思ったのだ。
ただの身体計測に対して思いつくことがいちいち重すぎである。こんなことを考えていたなんて当のスタッフさんが知ったらドン引きだろう。

 

今日施術に当たってくれるスタッフさんは、前回説明や部位の選定をしてくれた人とはまた別の人だったが、この人がまあめちゃくちゃ有能だった。
前回の打ち合わせ内容で既に私は十分納得していたし、もちろんその内容がスタッフ間でもきちんと引き継がれていたのだが、それを踏まえたうえで今日の方はさらに新しい提案をしてくださった。
元々、(内腿3か所+膝上1か所)×両脚、で8か所の設定であった。しかし、そのスタッフさんの見立てによると、膝の直上よりもう少し内腿に寄った、斜め上ぐらいの微妙な位置のほうが、私の希望に合い、かつより高い効果が見込めるという。
そうすると、内腿に3か所も使わなくてよくなる。2か所で十分だろうと。では余った1か所はというと、次点の優先度であった太腿の付け根(バナナロールというらしい)に回してはどうか?という提案だった。
秒で乗った。

 

ちなみに、この信頼できそうなスタッフさんいわく、私のふくらはぎはあまりクールスカルプティング向きではないようだった。自分で思っていたより筋肉率が高いっぽい。私に筋肉があったとは知らなかった。
クールスカルプティングを重ね掛けしまくって棒きれレッグになる夢は儚く散ってしまった。

 

とりあえず、今回どういう風に施術を行うかこれで決まったので、それを今度はペンで身体にマーキングしていく。印を付けておかないと確かにどこに器具をつけていいかわかんなくなりそうだものなあ。
どうやらホワイトボードマーカー的なものを使っているようだった。書き直すとき(毎回これでいいかどうかこちらに確認しながら進めてくれる、気に入らなければ微調整も頼める)はアルコールで拭く。
しかしこれ、薄くなるが、綺麗さっぱり取れるという感じではない。今が夏で、半袖とミニスカートで来て脚や腕をやってもらっていたとしたら終わっていた。教訓:クールスカルプティングをやるなら秋冬に限る。
ひとしきり身体に印を書きこまれ終わったら、いよいよ施術室へ。殺戮の宴が始まる。

 

角度調節できるベッドの上で、座ると寝るの間ぐらいの体勢になる。プールサイドで雑誌を眺めて寛ぐセレブか、毎日テレビを楽しみに過ごしているお年寄りみたいな角度だ。
凍傷防止などのため、施術部位にはべちょべちょのジェルパッドが貼り付けられ、その上から器具が装着される。
寒くないようにブランケットがかけられ、痛くないようにクッションが詰められる。ベッドサイドには持参を勧められた各種暇つぶし。飲み物まで出してもらえて、何もかも至れり尽くせり。介護されているかのようだ。
装着箇所はベルトでぐるぐる巻きに固定され、まず減圧だけがかかる。吸われる肉。痛くはない。
そしてスタートボタンが押されると、いよいよ冷却が始まる。万一の時のためにナースコールが手渡され、スタッフさんは一旦退室する。
ひんやりしてきたなあと思ったらすぐにキンキンになった。保冷剤を当てているような感覚。そして、もう少し温度が下がったら痛いのだろうなという手前で止まる。それが40分ほど続く。
痛くはない。ただとにかく冷たい。飽きるほどに。飽きてもタイマーが止まるまではやめられない。
事前の説明やネット上の口コミでは、そのうち感覚がなくなるから大丈夫とのことだったが、感覚が完全になくなるまではいかなかった。冷たさが背景化するというか、冷たいことはしっかりと冷たいのだけれど、なんとなく気にならなくなってくる。
体勢を変えられないのが少ししんどいが、持ち込んだ本やスマホを見ていると時間はどんどん経つので、長すぎて苦痛というほどでもなかった。
タイマーが気の抜けた音を立てると、遠隔で見れるのだろう、スタッフさんが駆けつけ、器具とジェルパッドを取り外しつらいと噂のマッサージをしてくれる。
マッサージは思っていたほどはつらくなかった。種類としては、痛いような痒いような、霜焼けのような不快感。凍った脂肪がシャリシャリと音を立てるのが結構ホラーだ。
私は身体を揉まれることに対する触覚過敏が少しあるから、そこ由来かもというつらさも多少あった。肩やお腹は揉まれると完全に無理になってしまうくらい過敏が強いので、たぶん耐えられないと思うが脚ならまあなんとかだ。
ジェルパッドを取った後は拭き取ってくれるが、このべちょべちょも容易には取りきれないもののようだったので、多少ベタベタが残っていても大丈夫なように着てくる服とかその後の予定とか考えたほうがよさそうだ。
これを8か所やる。なかなかの長丁場だ。スタッフさんたちがめっちゃ気遣ってくれるがぶっちゃけこっちは寛いでるだけだ。まあ、しばらく動けないしんどさは多少あるけれど。
お手洗いはマッサージの後、次の部位に移る前のタイミングで申し出れば問題ない。

 

途中から、まだ経験が浅そうなスタッフさんがもう一人加わり、二人がかりで私の脂肪を殺してくれる感じになった。
というか、たぶんその新米さんの練習の機会なのだろう。やりやすい客だと思ってもらえたみたいでうれしくなる。
最初からいたほうのスタッフさんがサポートしながら、後から来たほうのスタッフさんが器具の装着を進めていく。明日の美の作り手が目の前で育成されている。寝ながらできる社会貢献活動である。
そのうち新米さんが一人でやる回も出てくるようになる。全部お任せしている立場でなんだが、心の中で応援する。
あと、後から振り返って気づいたけど、私が打ち合わせに時間かけすぎてベテランさんが休憩取れてなかったりしたんだと思う。すみません…。

 

おそらく外ではもう日が暮れているころ、最後の部位をやっていると、なんだかポコポコと隙間ができているような変な音や感触がする。
気のせいかな?と思ったがやはりポコポコいうので、ついにナースコールを使ってみた。そしたらスタッフさんが飛んできてくれて、状態を確認してくれた。
泡が入ってしまってそれが動いているようだが、器具は密着しているので問題ないとのこと。たしかにしっかり吸われている感触はちゃんとしている。
そういう感じで安心して最後まで施術を受けることができた。

 

終わったらさすがにちょっと疲れていた。
私は何もやっていないけど達成感があった。頑張ったのはスタッフさんたちなのだが。

 

帰って身体の状態を確かめてみると、脂肪が死んだあたりは微妙に痺れたような不思議な感触だ。
皮膚や筋肉はちゃんと生きているので触覚があるのだが、脂肪は死んでしまったので感覚がない。なのでとても奇妙な痺れ方をする。
術後2~3日は筋肉痛のような我慢できる程度の軽い痛みが続いたが、すぐに治った。
だがそれが治った頃に、内腿にだけ内出血がわっと出た。なかなかグロい。時間差で出る場合もあるのか。
これがフェイスラインや夏場の腕とかだったらと考えると結構大変だ。やはり大抵の部位を衣服で隠せる秋冬がいい。
内出血は10日程度で跡形もなく引いていった。そして内腿以外は内出血にならなかった。
まあ、経過はかなり個人差が大きいっぽいので、あくまで一例として。

 

そして気になる効果のほどであるが、3週間経った今、ぶっちゃけまだ全然わからない。
体重が減るわけでもないし(もともとそういう性質の施術だ)、少しずつ変化する見た目って実感できるのだろうかという不安は少しあるが、
モニター割引条件である写真撮影が2か月経ったころに設定されているので、その頃にはかなり効果が出ているのだろう。
今の時点で唯一感じられた変化といえば、食生活などは一切変えていないのに、お通じが増えたような気がすることだ。気がするレベルだが。
まあでも、「死んだ脂肪は少しずつ体外に排出される」という話だったのだから、そんなに変な話ではない。

 

なんにしても、放っておいても時間は経つ。春が来たら、前に買った花柄のワンピースをまた着るのだ。
その時に、鏡のなかの自分をもう少し好きになれたらいい。

私の代わりに生まれてくる人間は

私は脚が太い。

 

いや脚以外もなかなかのものだが、とりわけ脚が太い。というか形が悪い。
太いにしてももうちょっと均整のとれた太い脚だったらいいのにと思う。アンバランスなのだ。
正直他人から見たらどうでもいい程度の歪みかもなとは思う。とはいえこっちは24時間365日その脚と苦楽を共にしなければならない。
それならやっぱり自分の身体が自分にとって心地よい形をしているというのは結構大切なことなのではないかと思う。

 

私は人形のような見た目への憧れが強い。
理想的には「まるで生命が宿っているかのようと評される人工物」くらいの希薄な生命感で生きていたい。
健康的という言葉からは対極にある、血色のない白い肌、ほとんど棒きれのような手足、みたいなのが好きだ。それを無理に目指すことがよいことなのかはさておき。
もうちょっと現実に寄せていくとすれば、いわゆる量産型とか地雷とかと呼ばれる系統の見た目は結構好きだ。自分をああいう風にできる技術も素地もないのでやらないが…。
ゴスロリとかもいいなーと思うほうではあるがそこのカルチャーに飛びこんでがっつり実践したいとまでは思わない。私の理想とは何かちょっとまた違うので。
もっとこう、そこらへんのアパレルではちょっと見ないくらいの布量をつぎ込んだ仰々しいフレア型をしていながら、潔い無地、どシンプル、みたいなスカートが欲しいのだ。もちろん丈は長めだ。
そこから折れそうな脚が伸びているのがかわいいのイデアだと私は思う。私は脚フェチなのかもしれなかった。

 

だが翻って我が身に目を落とすと、今回の生で折れそうな手足になることはちょっと無理そうだった(ヲ格を項とする他動詞の可能形として解釈することはめっちゃ鍛えれば可能かもしれないが)。
肌のほうは幸いそれなりの白さに生まれついたが、二物はなかなかもらえないものである。

 

そういうわけで、ちょっと生命感が薄くなるくらい細くなりたい、特に脚、という願望は昔からあった。
けれども体を動かすのは嫌いだし、食い意地は張っているし、体質的にもハンデは大きいような気がしなくもないし、願望が実現できることはなかった。
一回そこそこ頑張ったことがあったが全然痩せなかったし、拒食症になりかけたのでやめた。

 

だから、いわゆる普通のダイエット以外にも痩せる手段があるというのは、福音だった。
しかも手術みたいなことはしなくていい。高いけど。でも高いだけの価値があると思った。

 

そして予約していた日、無事早すぎるくらいの到着を決め、問診票に記入し、施術についての説明を一通りしてもらった。
今回も当然前からお世話になっていた湘南美容外科さんである。
カラオケボックスばりの個室に案内され、スタッフさんが丁寧にレクチャーしてくださった。この方も同じ施術を受けたことがあるそうだ。脚ほっそ。
専用の装置から、いわばトイレ掃除のラバーカップのような吸い込み口の付いたホースが伸びており、その吸い込み口を脂肪を減らしたい部位にあてがい固定する。
吸い込み口には、人体のさまざまな箇所に適合するよう設計された何種類かの形状・サイズがあり、大きい物を1回使っても、小さい物を1回使っても、料金は同じだ。
サイトには1エリアいくらというような表記がしてあるが、要は吸い込み口にかかわらず1吸引いくらということなのだ。
そうしたら大きければ大きいほど得なのかという気がするがそうではない。形状が合わず隙間ができてしまうと施術は失敗してしまう。小さい物のほうがよい場合もあるのだ。
どうすれば最小の吸引数で最大の効果が得られるか、こちらの希望を聞きながら最適なものをスタッフさんがめちゃくちゃ丁寧に考えてくれる。
実際必要に応じてお肉をつまみながら、ここは効きそうとかここは効かなさそうとか教えてもらえる。私は体のあらゆる箇所がつまめる女なので、結構凍らせ甲斐がありそうだった。
しかしお腹だけは検討のために触れられるだけで無理寸前だったので(触覚過敏)、お腹にはこれ使えないな…と思った。

 

装置はスイッチひとつで動き出し、約40分の間、贅肉を吸引しつつ絶妙な温度に冷却し続ける。
凍傷になるほど冷たくはない(というか防止処置をしてもらえる)が、冷蔵庫並みには冷たいので、次第に感覚がなくなり、痛みは結局ほとんど感じないという。
それが終わると今度は、スタッフさんが2分間マッサージをしてくれる。冷やした箇所をもみほぐすように。これが結構つらいらしい。
しかしこれをやるのとやらないのとでは最終的な効果が大きく違ったというデータがあるそうで、ここだけ頑張ってください、と言われた。
そして、複数箇所に施術する場合は、また吸い込み口をあてがうところから初めて、マッサージまでを繰り返す。
だいたい2~3カ月もすれば、凍って死んだ脂肪細胞は、体内の老廃物が排泄物となって出て行く普通のサイクルに乗って、体外に排出されてしまう。
1回の施術で脂肪の約20%減が見込め、同一箇所を2回(もしくは少し重なりができるように配置して1回ずつ)施術するとかなりはっきりと効果が実感できるという。
終わった後はすぐに普通の生活に復帰できる。人によっては吸引した箇所に内出血が出ることもあるが、単なる内出血なのでそのうち治る。
かがくのちからってすげー!という感想しかない。

 

一通り説明を受けた後は、医師と話せる時間がもらえる。説明してくれるスタッフさんは別に医師ではないので、一応言えること言えないことがあるのだろう。
相変わらずリスク面の質問をしてしまうが、非常にリスクの低い施術だと聞き(細かい数字は忘れたので言及しない)安心する。
また、施術箇所だけやたらと痩せてしまい、未施術箇所と比べてアンバランスになることはないか?というのも気になっていた点であったが、
わりとマイルドに効果が出るものだそうなので、それも心配するほどではないようだった。
これはスタッフさんからも聞いていたが、吸い込み口の中心が一番効果が高い。中心から離れれば離れるほど効果はゆるやかになり、周辺部が一番弱い。
そんなグラデーション的な効き方をする施術であるため、不自然にえぐれるような痩せ方にはならないのだという。

 

そして最後に、予算とのすり合わせに入る。見積もりだ。
私はとにかく脚が一番気になるんだよーということで話を進めていたので、結局脚だけに集中して施術することにした。まあ、元々の計画通りだ。
スタッフさんが部位ごとに優先順位をつけて整理してくれるので、考えやすかった。
結局、全体的に棒きれに近づけたいということで、8エリア(片脚4エリア)つぎ込むことにした。それで約40万。
もっと節約する方法として、モニターとして1回で複数エリアを契約しつつ、ビフォーアフター写真を提供するという技もある。それで約35万。
あんまりちまちま追加するとモニター適用がしにくくなるので、もし今回やってみてもっと攻めたいと思ったら同じ8エリアをもう一回さらうつもりでこう決めた。
あと手足の脱毛についても簡単に説明を聞き、全身コースにしてしまうのもありだし、背中とかが要らなければ手足だけのままでも、などと提案してもらう。結局約20万の手足のみにした。
どうせ背中の空いたドレスを着る機会も海に行く予定も当面ないのだ。

 

加えて、会員ポイントと有料会員システムをうまいこと組み合わせて、もう少し料金を削り取る技をスタッフさんに教えてもらう。
たぶんそうしたら幾許かのインセンティブでもあるんだろう(下衆勘)。でも優しくしてもらったし、どうぞどうぞと思う。
私は世の中の様々なサービスを利用するにあたり、ボーナスステージ的な客でありたいのだ。クソ客も多いこの世界で、私に当たったときくらい今日はいいことがあったなあと思ってもらえたらうれしい。
それに普通に条件的にもまあ自分にとっても得かなという内容だったので、有料会員になることにした。

 

それにしても、こんなデカい買い物をしたことがないのでどうやって支払ったものかと困っていたが、そこのところもスタッフさんは慣れていて丁寧に親身に説明してくれた。
分割払いもできるし、現金一括でもいいし、現金とクレカの組み合わせということも可能だ。支払いも後日(施術日当日の施術前)でかまわないと言ってもらえた。
クレカ会社のポイントが貯まるかなーということで、限度額内に収まる程度のまとまった額をクレカで払い、残りはATMから下ろしてきたりした。

 

一通り契約やらなんやらが終わって部屋を出ると、なかなか時間が経っていた。
めっちゃあのスタッフさんを拘束しちゃったなと思ったけど、私は今回この支店にとってそれなりのエモノだったわけで。
数十万の契約が取れるかどうかが私への対応にかかっている、とスタッフさんたちの側からは思えることだろう。緊張するよなあ。
この心理を理解したままダークサイドに堕ちると、高い買い物をしてやっているんだと調子に乗る人間ができるのだろう。
いや、それともこの程度の話なんて日常茶飯事だったりするのだろうか。
そんなことを考えながら帰途についた。

 

いつまでも当日のレポートに辿りつけない。(つづく)

いまそれでも生きると決めたなら

こないだ、割とがっつり美容外科のお世話になった。

 

学生の頃からほんのりお世話にはなっていた。
たぶん数ある施術の中でも一番敷居が低いワキの脱毛にだけたまに通うような、ライトユーザー中のライトユーザーだった。
ワキだけとかそういう特定の部位に限れば、たいていどの美容外科でもお試し価格的な位置づけで格安で契約できるようになっている。たぶん。
だから、そんなにバイトをガチでやっていなかった私でも、全然普通に支払えた。
確か無制限コースで1万円もしなかったはずだ。というか5000円前後くらいだったような気がする。

 

私は別に、昔から毛深いことに悩んでました、みたいなタイプではない。まあそこは人並みかなあと思う。
むしろどっちかというと悩みの本体は処理の面倒さにあった。
成長スピードに関しては人より少し早いような気もする。夏場は特に毎日剃っておかないとみっともないことになる。2~3日スパンでも大丈夫な人が羨ましい。
毎日最低でも腕と脚と顔をどうにかしなければならないということは、ただでさえ高い私の入浴難易度をグイ~ンと引き上げていた。
加えて、達は不器用だ。私は手先なら割と器用なほうの達だが、ちょっと規模がデカくなると途端にえっていう位不器用になる。
アクセサリーは作れてもボールは投げられないし、図画工作は得意でも段ボールにガムテープが貼れない。
剃刀を自分の手足に滑らせることはどうやら後者に属するようで、毎回最低1か所は意図せず自傷行為をやってしまう。特に関節周りの立体的な部位は難しい。
だから、割と人生初期から脱毛に興味はあった。

 

もうどの媒体で見たのか忘れたけれど、「成人(入学だったかも)祝いに全身の脱毛をプレゼント」という話があった。
ある母親が自分の娘に贈ろうと思っているという話だったのか、ある娘が自分の母親から贈られたという話だったのか、
はたまた将来子供が大きくなったらそういうことをしてあげたいという話だったのか、その辺りは何も覚えていないのだけれど、
それを見て猛烈にいいなあと思ったことは覚えている。
うちの母親からは、たとえ逆さに向けて100万回振ったとしても、絶対にそういう種類のプレゼントは出てこない。
他の候補に負けて出てこないのではなく、そもそも俎上に載ることすらない。そんな感じがする。
誰もが持っているごくごく一般的なレベルの美の概念が、母親の頭からはまるっきり欠落しているのだった。

 

大学生になってしばらくしたある日、脱毛について少し調べてみた。すぐに、エステが行うものと病院が行うものとがあるのだとわかった。
病院は医療用として認められた機器を使うので、比較的少ない回数ではっきりと効果が出る。ちょっと痛い。医師や看護師がスタッフとして居て、万一の場合も診てもらえる。ただし、費用は割とものすごく高い。
エステはあくまでエステであって、医療行為にならない範囲でしか施術できないため、費用は比較的安いが、ずーっと生えてこない状態にはなかなか辿りつけないという。痛みは少なめ。
ざっくりいうとこんな感じっぽい。どちらもやはりメリットデメリットというところだろうか。
私はムダ毛の処理をもうしとうないんや!という強い気持ちがあるので迷わず医療脱毛を選んだが、
痛いのは無理とか、肌に負担をとにかくかけたくないとか、結婚式のときだけ安くでツルツルにしたいとか、そういう場合はエステのがもしかしたら合っているのかもしれない。知らんけど。
現状、病院もエステも両方世の中で生き残っているということは、どっちにもそれなりのよさとか需要とかがあるということなんだと思う。

 

もう少し調べてみると、冒頭にも書いたお試し価格システムを大抵の病院が採っているということがわかってきた。
それで、とりあえず最初は近所の個人経営みたいな皮膚科でワキと、あと腕もやってみることにした。
それで数万円ぐらいだっただろうか。大学生にはかなりつらい。
ベッドに寝た状態で目隠しをされ(毛を焼くレーザー光が目に入るとよくないので)施術スタート。機械がなんかバシュバシュ言ってる。照射!照射!
ワキは割と痛い。「耐えれる範囲の痛さとしては割と痛いほう」っていうくらいの痛さ。腕は大したことなかった気がする。
終わって数日でツルツルになった(タイムラグがある)。が、しばらくするとまた生えてきた。
人体の仕組み的にそういうものであるということは事前に調べて知っていたのだけど、実際に目の当たりにして悟った。あ、これ破産する。
そうして今度はもっと安い病院がないか調べることにした。

 

そのうち、「大手クリニックのほうがいろんな面で得」とか「自分に合ったコースを選ぶとよい」とかの情報にも辿りついた。
大手クリニックだといろんなところに支店があって通いやすかったり、脱毛で貯まったポイントを別の美容術に充てるようなこともできる。
コースはまあいろいろあるけれど、当然部位や施術回数を一回で多く契約するほど割安になる。1個で100円、3個で250円みたいなことだ。

 

結局私はいろいろ検討して、湘南美容外科に行った。
当初ネットで見つけた「ワキ脱毛が何回でいくら」みたいな有限回のコース(正確な値段は忘れたけど異様に安かった)をやるつもりで行ったのだけど、結局、もう少し課金して無制限にした。
押し売りみたいなことは全然なくて、あくまで選択肢の一つとして提示され、自分自身納得したので課金することにした。
腕や脚のムダ毛も早く死滅させたかったけど、さすがにそっちのコースはバイト戦士(ウォーリアー)にクラスチェンジしないと到底手が届きそうになかったので今回はパス。ちなみに6回コースで約20万ほどだったか。
私は死ぬほどビビりなのでリスクとかちゃんと聞いておきたいほうなのだけど、そういうことの説明もしっかりあったし、疑問があっても質問しやすい雰囲気。
あと、私は気にしないけど、プライバシーへの配慮も行き届いてて(名前じゃなくて番号で呼んでもらえる)、まあ…人によったらいろいろあるんだろうなという感じ。

 

実際の施術は、近所でやったときとほとんど変わらない内容だった。バシュバシュ言う。
でも施術室の雰囲気がもう少し清潔感があって居心地が良く個室的で、あとスタッフさんがみんなかわいくてやさしい。
ほんとに(病院ではなく)エステとしてやっている所とかだと、もっともっと雰囲気が良くてゴージャスな気分になれたりするのかもしれない。知らんけど。
スタッフさんはたぶん皆それなりに「いじって」いるのかもしれない。でもスタッフさんたちを見てたらそんなことはどうでもよくなってくる。実際かわいいんだからいいじゃん、という感じ。
まあ私は顔認識が下手なのか整形美人と天然美人の区別ができないんだけど…。だから気にならないだけなのかなあ。

 

それと、やっぱり自分で体験してみないと、説得力のある話ってできない。相談に乗るにしても、何か勧めるにしても。
私が今まで当たったことのあるスタッフさんは皆、なんというか心遣いに説得力があった。
ここでこういう配慮があったらうれしいだろうな~とか、こういうことされたら逆にいやだろうな~ということがみんなちゃんとわかっている。
やっぱり、みんな一通り互いを練習台とかにしてるのかもな、という下衆の勘繰りをしてしまう。

 

なんかすごい褒めちぎっているけど一銭ももらっていない。

 

そんな感じで今たしか合計5回?か6回?ほどやったところだ。
施術と施術の間は数か月~半年ほど空けるよう言われる。人体の仕組み上そうする必要があるらしい。
だから思い立ってからムダ毛を殲滅できるまでには年単位の時間がかかる。私は先延ばし癖のせいで年単位で期間を空けがちなのだが…。
これだけでもかなり日々の負担は減ったが、まだ完全勝利には至っていないため、無制限にしといてよかったーと思っている。

 

ただそれだけのライトユーザーだった。

 

ライトユーザーのところにもメルマガは来る。そりゃそうだ。むしろライトユーザーだからメルマガの送り甲斐があるってものだ。
元(?)醜形恐怖症でうっすらと整形に興味のあった私はたまにそのメルマガを読んでいた。
私の見た目上のコンプレックスといえば、1位:贅肉、2位:髪の癖、3位:一重、4位:毛穴、5位:丸爪、てな感じだ。
その中で美容外科がなんとかしてくれそうなものといえば1位3位4位あたりだろうか。2位の根治療法もそろそろ開発してほしいような気もするが…。何かこう頭皮の毛穴をどうにかする的な。
しかし私は脂肪吸引とか、二重形成の手術とか、切ったり身体に何か入れたりするタイプの施術はあまりやりたいと思っていなかった。
手術の傷跡が治るまでなかなかしんどそうとか、成長や老化に従って予期せぬ不自然な形状になるリスクがあるのではないかとか、そんな不安による。
自分のコンプレックスの重みと、その不安とあと金銭的な負担とを天秤にかけるといつも後者が勝つ。だから実行に移さなかった。

 

あるとき、興味深い施術がメルマガで紹介されていた。
なんでも、皮膚を切ることなしに、脂肪だけを選択的に破壊する「クールスカルプティング」という痩身術があるらしい。
脂肪吸引という施術を初めて見聞きしたときも大概都合の良いことを考えつく人がいるものだなと思ったが、この都合の良さはさらにその上を行く。
詳しく調べてみると、脂肪はその他の組織よりも融点が少しだけ高いのだという。その温度差を突く形で、痩せたい部分を冷やしてやる(専用の装置がある)と、その部分の脂肪だけが凍って死ぬ。
死んだ脂肪はその後数カ月かけてゆっくりと体外に排出される。そうやって減った脂肪の分だけ施術箇所が痩せるというわけだ。あったまいー!
ただし、これは非常にまともな部類の都合の良い話であるので、それなりの料金が取られる。
クリニックのサイトで見ただけでは計算方法がよくわからなかったが、まあだいたい数十万レベルのお金が必要になりそうだということはわかった。
さすがに高いな、どうしようかと思っているうちに、その思考はつるりと脳内からフェードアウトしていった。
先延ばしである。

 

その後色々あって、私はどうしても体を動かすことを好きになれないし、好きでないことには取り組めない人間なのだなあと悟った。
そしてふと、お金で努力したっていいじゃん、という思考が湧いた。労働の代償として得た金銭をつぎ込むことだって努力の一種だろう。
いや、努力せずに美を得ることが悪だと思っているわけではないが、ダイエットこそが王道で、医療の力を借りることは一種のチートだというようなイメージは正直あった。
でも、どちらもコストを払って自己実現を目指しているという点では何も変わらないのでは。そのコストの中身がちょっと違うだけだ。

 

じゃあさっさとやっちゃったほうがいいなということで、予約を取ってじっくり相談させてもらうことにした。
しかもついでだからと腕と脚の脱毛についても話を進めることにした。どうせ人生中のどこかの時点で殺そうと思っていたムダ毛である。これも早い方がいい。
予約を取るという行為がとにかく苦手なので、1回の予約にできる限りの用事を詰め込みたがるのはADHDの習性だ。
当日遅刻しませんようにと飲み始めたチロシンのサプリに祈りながら、予約の時間を手帳に書き込んだ。

 

(つづく)

幸せの体験版

ある日、本棚から古いゲームの体験版のCDが出てきた。

それは古いゲームでもあり、古いCDでもあった。

その体験版は体験版だから、ひとつのステージしか遊べなかった。でもそれはそれでなかなか面白かった。しばらくの間、ずっとそれで遊んでいた。小学生にはそれで十分だったし、何よりも、そのCDを見つけた時点でそのゲームの製品版はとっくの昔に廃盤になっていた。

クリアするたびに、本来はそこで製品版が買えたであろう404 not foundのページが飛び出てくるのを何も考えずに消し、閉じた世界を再び歩き回った。

 

いつしかそれで遊ぶことはなくなっていった。

CDはどこかに行ってしまったし、そもそもたぶん最近のOSでは動かないかもしれない。

インターネットはめざましい発展を遂げ、それと一緒に私は大人になり、今の彼氏とも出会った。

 

彼氏の発言は頻繁に私の気に障った。しかも、彼氏の趣味は私にはよくわからなかった。もちろん小春日和もしばしば訪れるけれど、それと同じくらいすれ違った。

 

単に人間的な相性が悪いのかもしれなかった。さっさと別れてしまえばいいのかもしれなかった。実際何度もそう考えた。

でもその度に、私の人生に取り返しのつかない破滅がもたらされるという予感がして、実行には移せなかった。

どうしてそんな気がするのか、さっぱりわからなかった。

 

私はしばしば自暴自棄にもなった。そんなとき破滅の予感は魅力的でさえあった。人間関係で自傷行為をするのは相手に悪いからやめなさいと演説をする自分もいたが、大多数の自分は暴徒と化し、火炎瓶でシャンパンタワーを作っていた。結局そういうとき私の本体はいつも泣いていた。

どうして涙が出てくるのか、よくわからなかった。

 

彼氏は私のことを真剣に考えてくれる。その意味で優しい。というかそれ以外にも優しさという言葉で語られるものなら大体全て持っていると思う。それをフルスロットルで私に向けてくれる。いつも。

 

私がそれをずっと駄々をこねて受取拒否していたのだった。

すれ違っていたのではなく、ほとんど一方的に私がかわし続けていた。

 

つい数日前、私は仕事で潰れた。

というか、そもそもの土台が脆かったために、ちょっと仕事が忙しくなっただけで潰れてしまったんだろう。

 

私はしんどかったのだと急に気づいた。

自分の半生はほとんどしんどさでできており、しなくてもいいような苦労で埋め尽くされていた。

 

自分がどっちかというと生きづらい方の人間だとは認識していた。でも、結局ずっと現実を直視できていなかったのだった。日々の異様な多幸感は全部思い込みだった。

 

その一方で、彼氏は一貫して本当のやさしさを向けてくれた。一緒にいるときに見える何かキラキラしたものが幸せというものなんだろうな。

今それに気づいたけれど、ずっと前から知っていたような気もする。

 

すべてが星座のように繋がっていった。

 

幸せは私にとって既知のものでなければならなかった。

いま初めて目にした輝きを幸せだと認めることは、とりもなおさず自分が幸せを知らない人間だと認めることになる。

ありあまる幸せなら一つくらい失っても平気なはずだ。

風刺画の男がどうだ明るくなったろうと笑っている。

 

百円札が全部燃やされる寸前に私は成金を殺すことができた。

 

彼氏がいくら優しいとはいっても、彼には彼のキャパシティがある。

彼も別にスーパーマンではないので、ライフワークと私の二者択一を迫られることになったとしたら、私を捨ててライフワークのほうを取るだろうと言っていた。

 

何もかもを犠牲にして私を取るということも、不可能ではないという。だけれど、彼は明確に意思を持ってその道を選ばない。

それはショックな話かもしれないけれど、それでこそこの人だという気がした。私はこの人のそういう面を魅力的に思っている。そして、そんな人の2番目に好きなものになれていることがうれしかった。

 

もしも私がもうまともには生きていける望みがないということになって、彼に捨てられる日が来るとしたら、私は毎日毎日、彼氏だった人が作ったものを、理解もできないのに日がな一日ニコニコと泣きながら眺めて過ごすのだろう。そうやって死ぬまで幸せの体験版で遊び続けると思う。何度も何度も何度も飽きずに、限られた数の閉じた思い出の世界を永遠に彷徨って、壊れて使えなくなったプレゼントすら捨てられなくて、どこかで生きているその人本体の幸せを一日一回は祈ったりもして、何回クリアしてもどこにもつながらない、そんな朽ち果てた体験版を、それでもいつまでもやめられなくて、死ぬまで大事に、抱きしめていると思う。

 

そして、それは絶対に嫌だ。

植物園で倒れ泣き崩れちゃっても


自己肯定するのがしんどい。


しかし自己肯定感が低いのもしんどい。そうかといって、そこで「自己肯定感」等のクエリでググったところで「自己肯定感を上げる方法5選」とかしか出てこない。あるいはキラキラカウンセラーのポジティブブログみたいなのが現れて、あまりのシャイニーさに目を潰されるのが関の山だ。ウワッと叫びながら画面を閉じるしかない。


自己を肯定するのは私にとってとてもつらい。自己肯定アレルギーと言ってもいい。自己を肯定しようとすると鳥肌が立ち蕁麻疹が出て動悸がしてくる。蕁麻疹はさすがに少し盛ったが、涙が出てしまうことなら実際よくある。張り裂けそうに胸が痛み息が苦しくなり、最悪の場合しばらく寝込む。

自分を雑に扱うほうが落ち着く、という表現をよく見かけるけれど、そんなマイルドなものではないような気がする。自己肯定に伴う苦痛が大きすぎて、そこから身を守ろうとした結果自分を雑に扱わざるをえなかった、というほうがより正確に事態を捉えているのではないか。自己肯定感低い勢ってだいたいみんなこんな感じなんじゃないのかなあと思ったけど、そうでもないのだろうか。他人のことはわからない。


というようなことをぐるぐる考えること幾星霜、ついにループを抜け出す回がやってきた。「一口に自己肯定といっても、いくつかの種類や系統に分けられるのではないか?」というアイデアが降ってきたのである。そしてそれらは例えば、①私がほとんど生まれつきできていたもの、②成長の過程である程度できるようになったもの、③できるときもあればまだぐらつくときもあるもの、そして④つらくてまだとてもできそうにないもの というようにレベル分けをすることができそうでもあった。

ゲームでいうところのスキルレベルのシステムが似ているかもしれない。キャラクター一人一人に設定されたレベルだけでなく、それぞれのキャラが持つスキルの一つ一つにも設定されたレベルがあり、同じレベルの同じキャラが同じスキルを使ったとしても、スキルレベルが違っていれば、もたらす効果の程度が違ってくるというようなものだ。育成の仕方(スキルポイントの振り分け方等)によって、いろいろなスキルをまんべんなく強くすることもできるだろうし、一つのスキルを集中的に早く成長させるのもありかもしれない。と喩えてみたけれど逆にわかりにくくなったかもしれない。

ともかくそんな感じのモデルを思いついたので、早速自分の自己肯定スキルを詳しく分析してみることにした。この解像度上昇にどの程度の意味があるのかはわからないが、もしかしたらそのうち何かいい対応策を思いつくヒントにならないとも限らない。たぶん。

なお項目は割と適当で、私が自分の中で何か関係ある気がすると感覚的に思ったことを拾って並べただけという感じだ。だから他の人から見たら、これ別に自己を肯定するのに関係ないのでは…とか、あれが抜けてる…とか、いや学術的に見てこれは違うのでは…とか言いたくなる内容もあるかもしれない。しかしこれは私が私のために勝手にやっている内面の整理なのでその辺はあえてふわっとさせている。ぶっちゃけ私の役に立てば何でもいいのだ。読者のみなさんは読者のみなさんで自分の役に立つようにアレンジして内面を分析したらいいと思う。もちろんする必要を感じない人はしなくていいと思う。みんな好きなように生きてほしい。



さて前置きが長くなったが、とりあえず前述の①〜④を枠として、そこに個々の項目を当てはめていってみようと思う。


①ほとんど生まれつきできていたもの

・今ある幸せを感じる

・自分の好きなものは好きだと認める、好みや趣味嗜好を肯定する


これだけはなぜか今までほとんど苦労したことがない。

今まで自分のことをただの自己肯定感スケキヨパーソンだと思っていたのに、いやたしかに平均値は頭から湖にめり込んでるかもしれないけれど、そうでもない得意分野のような部分があるということを今初めて知った…。しかも自分で挙げられるだけで2項目も。

振り返ってみるとたしかにこいつらだけは何かあってもぐらつくことがない。というか、昔から何なんだこの意味不明なハッピーはと不思議に思っていたがそれに今一つの答えが見つかったというか。なんせ私は双極の激鬱期(受診以前)とかも鬱は鬱なんだけど毎日ハッピーと思いながら暮らしていたので…。そのせいでまさか自分が鬱だとは思いもしなかった。病的な鬱感情とハッピーがひとつの脳の中に同居していて、そこには希死念慮さえ同居できるのだけど、なんというかハッピーは存在している次元?階層?がちょっと違うのだよな…。そんなんなので、例えば別に鬱ではない日に丸一日覚醒できなくてほとんど寝て過ごしたとしても今日はハッピーだったなあと思うし、早番から終電間際まで残業した日でも今日はハッピーだったなあと思う。なんかそれはそれで色々と麻痺してるんじゃないかというような気もするがまあまあまあ。

〈好きなものを好きだと認める〉というのもたぶん大丈夫だ。わりと趣味がおかしいらしいことになんとなく自覚はあるがそれでも好きなんだからいいだろと思っているし、反対に興味のないものに興味のない自分についても、確かに人の話についていけなくてよく困るけれども、まあそれも仕方ないかなと思っている。半分諦めていると言ってもいいかもしれない。自分のASD傾向(興味の幅が狭く世間の気になってるものがあまり気にならない)が分かってからはより一層そういう風に生まれついてしまったしなとの思いを深めている。

それと、うちの親は私の興味の向くもの向かないものについてどうこう言うことはなぜだかあまりなかった。一緒になって興味を持ってくれるということもなかったし、のめり込みすぎたパソコンは一時取り上げられたけれど。まあ勉強はとりあえずやっているしあとは自由にさせようというのがあったのかもしれない。進路選択についても高校に上がる段階では少し言われたが、それ以降は特に何も言われていない。後で聞いてみると「放っておいても勝手に探して決めるし、口出ししても一回決めたら頑固だし」といったような回答が得られた。放っておいても大丈夫だと思われているのは本当につらくかなしいことだが、まあ好きなものへのこだわりは周囲を黙らせるくらいもともと強いのかもしれない(ASDっぽい)。


話を戻すと、目玉を焼かれながら拾い読みしたシャイニングブログなんかには、たしかにしっかりした自己肯定感は滅多なことではぐらつかないとかそんなことが書いてあったような気がする。他の項目も、スキルレベルを上げていけばこの感覚に近いものがついてくるようになるのだろうか。

コマなし自転車に乗る練習の際、まずはペダルを漕がずに地面を蹴って、短い時間だけでも二輪だけでバランスをとって進む訓練から始めるといいと聞く。それと似たような感じで、まずは感覚を掴むという意味で既にできている部分を洗い出すのは有意義そうに見える。たぶん。そういうことにしとこう。


②成長の過程である程度できるようになったもの

・意識的に自分を甘やかす

・好きな格好をする

・好きな持ち物を持つ

・自分の生きる資格を認める


〈意識的に自分を甘やかす〉というのは、例えばあまり意味もなくプチ贅沢をしたり、いや意味のあるプチ贅沢でもいいのだけど(何かのご褒美のつもりで贅沢をする等)、とにかく何か自分のQOLが上がるようなことを積極的に行う、ぐらいの意味だ。生存に非必須であって、ただQOLを上昇させるためだけの行為。いい香りのものを買って部屋に置くとかがそれだ。いい香りを嗅がなくても別に死なないけれど、嗅いだら幸せじゃん?というその一点のみでお金を使うことを自分に許す。

この発想はかつての自分にはあまりなかった。家に(禁欲的というほどではないにせよ)享楽的な空気が少なくて、決して経済的なゆとりがないわけではないのに、生活の中に余白とでもいうべき部分があまりなかった。やるべきことと、やったほうがいいことと、やらないと死ぬくらいやりたいことしかやらない、とでもいうべきか。

どこかに連れて行ってくれるようなときも、親が行きたいとか、一緒になって楽しみ尽くすとかというよりは、私や弟のためになりそうだからというのが動機の第一であるというか。何も文化教育施設にしか連れて行かれなかったわけではないが、親の楽しみに付き合わされたような記憶はほとんどない。親というのはそういうものなのかもしれないし、逆に付き合わされた記憶しかないというのもひどい親だなあということになるのかもしれないが。まあとにかく、そのためにただただそういう発想を持ち合わせていなかった。

獲得したのはわりと最近で、成人していたのもあってかそれに対して親は特に何も言わない。それでも基本的には親の目を盗むように自己甘やかしをしてしまうし、調子が悪いとそれもできなくなったりする。できるときでも親の目の前でノンアルコール晩酌(仕事帰りにコンビニなどで好きなおつまみを買ってきて、それと一緒に炭酸水を飲む)などをするのは非常に居心地が悪いし、楽しみが半減する。


おそらくその元となっているのは、小さい頃に服装や持ち物について異常な感覚を植え付けられ、成長してそれに反する行動を取ろうとすると、(無理やりやめさせられるというほどではないが)よくない顔をされたことだろう。

異常な感覚というのは、かなり歪んだものから微妙な違和感にとどまるものまでさまざまだが、例を挙げると「物はいかにみすぼらしくなろうとも、壊れて修理不能になるまで(あるいは、摩耗・風化してこの世から消え去るまで)使うものだ」「高価なブランド物を持つのはバカのやることで、いかに持ち物にお金をかけないかが重要」「流行に乗るのはバカのやることで、著しく流行に遅れた服でも堂々と着ればおしゃれである、むしろその方がイケてるくらいだ」といったようなものだ。自分よりも物持ちのよくないその他大勢に対して、とにかく見下すような気持ちがにじみ出ていた。

この文章をもし親に読ませたとしたらそんなことは言っていないと言い張るかもしれないが、こちらが受け取ったメッセージとしてはこのくらいの内容だ。実際、車体が錆びきって端々が風化しかかり、漕ぐと異音もするような自転車に数十年乗り続けていたのを数年前やっと買い替えたぐらいだ(最近ようやく親の狂気が微妙に和らいだような気がしている)。

これらのメッセージに関して当時きつかったのは、直接的な親や自分のみすぼらしさよりも、うちの家は何かおかしいと折に触れて感じさせられたことだ。うっすらとしかし幾度となく。あの感覚は、同種の感覚を味わったことのある人にはわかることだと思うが、じわりじわりと染みていく遅効性の毒のようなものだ。

このおかしさは、度を越した倹約家や狂信的なエコロジストというのとも少し違っていた。もっとオリジナリティのあるオンリーワンの狂気というか。そういう層のような目的や思想が特にないからだろうか。

まあなんでもいいのだけど、そこからはなんとか脱出した。自分でなんとかしないとどうにもならない、と気づいて努力し、とりあえず常識的であってかつ自分の趣味を上手く取り入れ表現したような格好ができるようになった。いまだに張りぼてをまとっているような、あるいは第二言語で話しているかのような感覚はあるけれど、罪悪感は今はほとんどない。


ところで、服装や持ち物に関して最近取り掛かり始め、これからさらに進めていくべきは、もともと本当は好きだったものにかけていた封印を解いていくことだと思っている。普段着にしている地味な服装もちゃんと大好きなのだが、何を隠そう服だけで2〜3人殺せそうな攻撃力の高い服装もだ〜いすきなのである。なのでライブのときなんかは今後もバチバチにキメていく。


〈自分の生きる資格を認める〉は冗談抜きで服薬が全てを解決した。以上。いやマジで。私の希死念慮は半分は普通に双極だったんだろうなあと思う。残りの半分の話はまた後でするけど。とにかく真面目に何年か薬を飲み続けたら生きる資格がない系の死にたい発作が起こることはほぼなくなった。サラッと系とか書いたけどしにたみにもいくつか系統があるんだよ。服薬以前は複数系統がめちゃくちゃに絡まって団子になっていたのであまり自覚がなかったのだけど、今は薬で消せるやつは消えた、と思う。


①と②の間くらいの微妙な位置に、〈楽しいことをする〉という項目が置けるかもしれない。これはある程度は生まれつきできていたのだが、10代後半ぐらいに鬱で一回ほとんどできなくなり、その後徐々に回復して社会人になってから元以上にできるようになったという経緯を持つ。V字ならぬ√回復である。

いや、現実はもう少し複雑かもしれない。そこには、〈楽しそうなことをする〉が右肩上がりにできるようになっていっている、ということも含まれているからだ。やってみたことがなかったがやる機会を得たものや、今まで興味がなかったが興味を持ち始めたものなどについて、試しにやってみるということが以前は本当にできなかった。というよりは、やっぱりそういう発想が欠落していたという方が正しい。

さらにこれにはASD的な他人や世間への興味のなさや想像力のなさも一役買っていた。みんなやっていて楽しそうだから自分もやってみようという発想がそもそも持ちにくい。「みんな」がいくら楽しそうにその活動をしていても、「自分」が興味を持っていないかぎりは、その楽しさを生々しく想像することができないのだ。興味を持っていたとしても実は「みんな」の楽しい気持ちなんてこれっぽっちもわかっていなくて、ただ自分の興味に突き動かされているだけかもしれない。なんなら「みんな」は「自分」とは関係のない生き物だと思っていた。正しくは「自分」も「みんな」の一員なのだが…。

もう一つさらに、例えば、テレビで映画を観るのは面白かったが、じゃあ話題の映画を映画館に観に行ってみようかなというようなところまで話が繋がらないということもあった。時々、いやしばしば私はびっくりするほど頭の回転が鈍い。高校生になったくらいでようやくそこが繋がり、大学に入ってからしばらくしてやっとこさ映画館に行ったという思い出がある。「風立ちぬ」を観た。それにやっぱり話題の映画も映画館も、世の中にそういうものがあるということくらいはもちろん知っていたが、それは「みんな」が行くものであって、「自分」の人生とは関係ないと思っていた。北京で燃えるオーロラのように(「労働者M」)。

この「自分の人生と関係がない」感は、界隈で一時期話題になった「無意味オブジェクト」の概念とかなり似ている。日々通勤通学で通るような道でも、興味のないジャンルの店なんかは、頭の中で何もないのと同じように処理されてしまうというか。見えていないわけではないのだけれど、無意識に書き割りか張りぼてか何かのように見ている。この感覚をそっくりそのまま物事や活動に当てはめればいい。というかだいたい、そういう感覚は多かれ少なかれすべての人が持っているはずだ。世の中のあらゆる物事に全力の当事者意識を持っていてはとても正気では生きていられない。テレビのかなしいニュースを見て、大抵の人はおそらく胸を痛めつつもどこか他人事だと思っているのではないだろうか。たぶん。我々はそんな感じで無意味オブジェクトになってしまうものが平均より少し多いだけだ。


③できるときもあれば、まだぐらつくときもあるもの

・生きたいという欲を持つ

・自分を褒める、労る、頑張りを認める


少しずつ核心に近づいてきている。……だいぶ根本的なところがダメ。

〈生きたいという欲を持つ〉、ここのぐらつきがおそらく残り半分のしにたみの正体ですね。将来にわたって生き続けたい、生き残りたいという欲がめちゃくちゃ薄い。どんだけ生きがいのようなものを見つけても、いつ死んでも後悔しないという妙に強い気持ちが消えない。この妙に強い気持ちというのがあやしいのだということがだんだんわかってきた。

そして見え隠れするのが服薬によって鬱を抜けてからもなぜかぽつんと残った異様に根深い感じのする希死念慮。よくあるパターンとしては、割と気分的には調子がよくても、些細なきっかけで死にたくなってそのままずるずると鬱に移行する。まあこれも最近減った。よくあるパターン2としては、同じく気分的には調子がよく、かつ特にきっかけらしいきっかけがないのに死にたくなるというやつ。最近はこれが多い。ふっと思考に侵入してくるレベルのこともあれば、過集中してしまっているのか自殺しないでいるのに相当な努力を要するみたいなこともある。この欲求は純度100%のしにたみであって、別に苦痛を感じたいわけではないというかむしろひどい苦痛を感じるのは絶対嫌なので、結局それが唯一の安全装置として機能している。

繰り返すが気分的な落ち込みはない。憂鬱の極致としてのしにたみではなく、ただ貼り付けたように死の欲求だけがあるというか…。普通地続きであるはずの落ち込みは存在せず、つまり沈みきった瞬間のトランポリンのようにではなく、「冬眠」の詩のようにそこにある。

しかしこれはなんでなんだろう?あまり原因らしい原因は思い当たらない。よく街中とかでは語彙が貧困そうな大人が自分の子どもに向かって「いい加減にしなさい」等の代わりに「死ね」と言っているのを見かけたりするが、うちの親は別にああいう感じではない。強いて言うなら、私の面倒くさがり度合いが異常に高いことに対して「それだったらもう棺桶に入っておけば?」と言って非難するというのがお決まりになってはいたが、そのフレーズが開発された頃にはすでに私のしにたみは確立されていたのであまり関係ないと思う。もっと前のことなのだろうか?ポクポクしてみるがチ-ンとならない。今後の課題だ。


〈頑張りを認める〉というのもわりとダメだ。頑張りを認めようとするとウワ-と叫んで心のらくがき帳をビリ-ックシャクシャポイとやりたくなることが少なくない。日々わりと真面目っぽく生きているほうだけど、できていることといえば頑張ったなあと思わないで済むようなことばかりというか、やりたいこととやらないと破滅することぐらいしかやっていない。過集中で押し切るか圧に押されて仕方なくやるかのどっちかしかしていないというか。そんなんだから仕事しても仕事した気しないし、通しで残業しても残業した気がしないんだよね。私の心はニートそのもの。


④つらくてまだとてもできそうにないもの

・幸せになりたいと思う

・自分から幸せを掴むために行動する

・将来の前向きな目標を具体的に設定する

・自分のために努力する、投資する

・自分のことをかわいいと思う

・自分の価値を認める

・自分を大切に扱う

・大事に思ってくれている人がいると認める

・人の褒め言葉を素直に受け取る


なんというか、多い。そしてやっぱりいろいろと根本的なところがダメ。そこダメなんや…および、そこダメでよく今まで生きてこれたな?っていうところだらけだ。そして、どれも同じ感触がする。すなわち、通常あるはずの欲・意欲が希薄で、無理に求めようとしたときに希死念慮引き起こし級の異常に強い拒否感がする。


例えば〈幸せになりたいと思う〉というのが実はできない。よく「幸せになりたくない人なんているもんか」ぐらいの調子で語られることがあるが、今の私は反例である。幸せの定義にもよるが、だいたい尽く思えない。

「みんなが羨むような幸せ」には当然(当然?)興味がない。いわゆるキラキラした生活というか。そんなものはこっちから願い下げである。次点(?)の「世間一般の価値観は気にせずに、自分にとっての幸せを追求する」というのすら、実はいまいちしっくりこない。少なくとも今までは常に現状が幸せで満たされていたわけだけれども、そこからずり落ちていくことへの恐怖だとか、なんとしてもこの幸せを守らなければみたいなものがなんだか薄い。どこかへ押し流される自分に気付いても「そっかあ」とただすべてを諦めてぼんやりと見送ることしかしなさそうだというか。

いや、まあこれは単に平和ボケしているだけなのかもしれない。危機感や切迫感がないというか。そう言われるとぐうの音も出ない。

けれども今ある幸せが身の丈オーバーである感覚はとてもある。運命のうっかりで今は私の手の中にあるが、それはいわば脱税で得たお金のようなもので、いつ追徴課税されても文句は言えない。私は本来の所有者ではない。そんな感覚。

だから〈自分から幸せを掴むために行動する〉などということは到底できない。今すでに身に余っているものをどうして追加で掴みにいかなければいけないのだろう。間に合ってます。


……ここまで書いて私の頭はエンストしてしまった。人と比べてもすぐエンストしてしまう頭ではあるが(ワーメモなし)、今回はワーメモ絡みではなく壮大な伏線のようなものに気がついてしまったのが原因だ。つまり、①で喜び勇んで書いた現状肯定能力、あれを果たして現状肯定“能力”と言ってよかったのだろうか?という話だ。あれは能力などではなく不健全さの結果であって、病的にひたすら現状肯定してしまっているのではないか?しかしかつてのように1秒間に24回自己否定を繰り返すような状態が健全であるともまた思えない。現状を適度に肯定しつつ、程良い向上心も持つのが健全なあり方であるように想像する。向上心の中にはおそらく病的でない適量の自己否定が含まれているはずだ。でなければ今の自分を変えようと思うモチベーションが発生しえない。

そういえば、かつて(服薬以前)の私は物事を頑張ることができた(少し前にも書いたが、今の私は頑張った気がしないようなことにしか基本的には取り組めない)。たしかに面白さもそれなりに感じていたし、それがなかったら頑張れなかったとは思うが、高校と大学の受験勉強には正直かなり努力分が含まれていた。高校生の頃、ダイエットをしようと思ってしばらく筋トレを続けたこともある。当時は(それが適切な目標だったかどうかは置いておいて)「体重をいくらいくらにまで落とそう」などと〈将来の前向きな目標を具体的に設定する〉ことができた。ただ、いずれも非常に強迫的な自己否定に突き動かされる形での努力であって、努力は努力でも健全な努力ではなかったように思う。全身全霊で行う自己否定はロケットエンジンのようなもので、すさまじい推進力が得られる一方で、自己を燃やし尽くしてしまったらそこでおしまいで、あとは海へと落ちていくだけだ。それを思うと、「昔はできた努力が今はできなくなった」というよりは「未だかつて正しく努力できた試しがない」のかもしれない。燃やせるだけの自己はたしかに服薬によってだいぶ戻ってきたけれど、これをまた燃やして推進力に変える方向に持っていくと以前にもまして精神はズタボロになるであろう。服薬以後、ようやく私は無理をしないことを覚えた。いや、無理に対して過敏になっているために、適切な努力ができないのだろうか。無理をしすぎた反動で、一切の努力っぽいことができなくなっているのだろうか。一度切れてしまった糸はもうつながらないのか。それとも、振り子のように揺れながらいつかはちょうどいいバランスで止まってくれるもので、今は道半ばなのだろうか。答えは出ない。のでとりあえず置いておく。


続いての〈自分のために努力する、投資する〉で思い出すのは2つのトピックだ。自己啓発書と、先程も少し話題に挙げたダイエットである。

私は小さい頃から自己啓発の匂いのする本やブログを大の苦手としている。軽蔑している、と言ってもいいかもしれない。そんな偉そうなことを言える人間でもないのだけれど。でもとにかく、硬派でしっかりしているっぽい本もふわふわした有象無象の本も共通して持っている(と私からは見える)、あの自己啓発書特有のなんだかポジティブでキラキラした、意識の高そうな、幸せを追い求めようとする雰囲気が気持ち悪くて仕方がない。見ていて怖気が走る。お前は人から教えてもらわなければ幸せにすらなれないのか。そう叫びたいような衝動にかられる。頑なに啓蒙されたくないと思う。ここにも妙に強い気持ち、異常に強い拒否感がある。いわゆる愛と憎しみと無関心でいうところの憎しみに近いようなものなのだろうか?

でも私はもうひとつ、疑似科学やそれを利用した詐欺まがいの商売にも同じような気持ち悪さや拒否感を持っている。これはさすがに今回分析している問題に関係ないような気がする。単に好き嫌いとしてめっちゃ嫌いというだけでここまで強い感情を抱くものなのだろうか。まあでもこれにはASD気質も絡んでいるだろうか。それっぽいことを言って他人を騙す人間、そしてそれっぽいことのぽさにやられて騙されてしまう人間、どちらも直感的な理解不能度が高すぎて、虫か何かのように見えるのだ。自分だっていつ後者に含まれてしまうかわからないのに。前者たろうとする悪意はないにしても。

そういうそれっぽさと自己啓発書の雰囲気とは、分野にもよるがそれなりに近いところがある気がする。自己啓発書は人の背中を押すというか、前向きなよい気分にするために書かれたものである(と私は理解している)。一方それっぽいやつは事実無根(あるいは根があったとしてもひょろひょろ)のものをうまいこと「いい感じ」に飾り立てて虚像を作り上げている。多くの人にとっての「いい感じ」はやはり前向きさであったり、安全安心であったり、(時には超越的な存在から与えられるような)自信や使命感であったり、とにかく何かしらポジティブな雰囲気をまとったものであるはずだ。


……ポジティブ。そういえば私は普通にもともとかなり強いポジティブアレルギーだった。それが通常の個性の範疇なのか、何らかの問題の症状であるのかはわからない。ただこれが自己啓発書嫌いだったり、妙な疑似科学の匂いに敏感だったりするのに関係しているのは確かだろう。

しかしなんでポジティブな物がここまで苦手なんだろうな。パッと思いつくのは、考えることを放棄しているような、すごく無責任なような、そんな印象を今のところ持っているからかもしれない。

明日は明日の風が吹くなどと言って考えることをやめてしまうのは私にとって死を意味する。たとえ同じことやつらいことをぐるぐる考えるのであっても、考えを中止して頭の中がつまらない空洞になってしまうよりはマシだ。常に連想の絶えざる奔流の中を泳いでいなければ死んでしまう回遊魚人間なのだ。そしてぐるぐる考えるうちに螺旋のように少しずつ進んできたようなそんな感覚がある。私はどうやら頭の中を暇にされてしまうのを極度に恐れているようだった。極度に合理的に考えれば、うだうだとした暗い考え事はスパッとやめてしまって、空いた頭でもっと生産的なことを考えればいいのかもしれない。しかし私の興味は今そっちに向いていない。私はほとんどカロリーがなかろうとも今ガムを噛みたいのだ。私の歯からガムを無理やりはがすのをやめろ。うーん発達障害

しかし無責任というのはなんだろう。本とかブログとか、人の気軽な発言とかに対してそう思うことが多いような気がする。真に私のことをよく知る人間が熟考の末下した判断ならまだしも、よく知らない人からの励ましや応援というのは、気持ちは嬉しいながらも、なんだか襟首を掴んでブンブンにシェイクしながら「お前は本当にできると思っているのか?そんな公算があるのか?」と問いただしたいような反発心が呼び起こされる。現実には曖昧な笑顔で流すことしかできないけれど、内心では適当なことを言うなとつい思ってしまう。つまりこれは私は自分の能力を他人から受ける期待の程度よりも低く見積もっていて(いや実際低いと思うし、期待は社交辞令で嵩増しされていたりするのだろうけど)、そこのところのズレが苦しみの根源なのではないか。その証拠に、私は他の人に温かい前向きな言葉をかけることについては別に平気だ。ポジティブが自分の身に降りかかってくる場合に限り全身が痒くなるのだ。


ものすごく脇道に逸れたが、とにかく私は相手の言ってくることと、自分の世界認識とがズレているのが我慢できないようだ。それが疑似科学アレルギーやテキトーな励まし嫌いに表れている。人から物を教わったり、自分の間違いを指摘されるのは大丈夫だ。論理的な説明を受け、認識を改めるべきは明らかに自分のほうだと納得できた場合は、むしろ人より素直なぐらいなんじゃないかと思う。しかし自己啓発書の著者は私のことなど1mmも知らない。そんな人に普遍法則かのように励まされたとて襟首ブン回しの刑だ。


励ましタイプの自己啓発がつらいのはまあそんな感じだからとして、では、意識高い系というかビジネス書の類が燃やしたくなるほど苦手なのはなぜだろう。そっちの説明がつかない。ビジネス書はどこの書店に行ってもたいていコーナーがあるものだが、あの空間の向上心濃度の高さにいつも気分が悪くなる。仕事とは。上司とは。部下とは。リーダーとは。営業。企画。転職。起業。ベンチャー。マネジメント。スキルアップ。無駄を省け。生産性を上げよ。よりよい人材になれ。

私は別にそこまでの仕事嫌いではない。もちろん突然億単位のお金が手に入ったりしたらすぐに仕事を辞めて二度と就職しないだろうというくらいには仕事好きではないが。まだぴよぴよひよこちゃんだけど、業務は自分なりに真面目に一生懸命やっているし、お客様や会社全体のために何ができるんだろうな〜なんてことも少しは考えているつもりだ。向上心が全くないわけではないのだ。

でもビジネス書のあれはなんというか濃すぎる。今日のおやつはクッキーじゃなくてコンソメスープがいいなあと思っていたら海水をなみなみとたたえたマグカップを出されたようなそんな気分。濃いし、なんか違うのだ。方向性が。私は確かにしょっぱい液体がほしいとは言った。しかしそこにはコンソメの香りと玉ねぎの甘味がついていてほしいのだ。磯の香りなんていらない。とか書いているものの当然のように読まず嫌いなので違っていたら申し訳ないのだが、ビジネス書界隈、もしかして、勝利とか出世とか成功とか財産とかいったものを自分にもたらすために、その手段としてのみ仕事を捉えてないか。少なくともそういう空気を出しているものが外から見ていてかなり多いように見える。そしてその雰囲気は、点数が、単位が、評価が取れればそれでいいという、周囲にそれなりにいた要領の良い人達の言動とオーバーラップする。

私はどちらかというと知識を愛しているほうだと思う。テストで点数を取れたのはその結果であって、テストで点数を取ろうとしてテストで点数を取るのは、全くの無意味とまでは言わないが、最終目標がそこにあるのはなんか違う気がするのだ。試験とか資格取得というものは、少なくとも一応の建前としては、それを通して知識なり技術なりを身につけるためにあるはずだ。まあ、自分の進路選択のためにどうしても点数をとり単位を揃えてある資格を得なければいけないのだ、すべてはその手段だという考え方もあるにはあるだろうけど、それでもなぜその道にはそういう要件が課されているのかという点を考慮してほしいなあと思ってしまう。ともかくこのあたりの考え方が合わない人たちとは私は仲良くできそうにない。

横道に逸れまくっているが、ついでなので逸れきってしまうと、物事を徹底的に手段とみなしたり、効率よければ全てよしとするようなタイプの人が私はすごく苦手なんだと思う。それが世の中の多数派であり、成功者の中の多数派であったとしても。私は趣味として何かを創作したり、学生のときは他の多くの学生と同様に英語を勉強したり、社会人になってからはやはり他の多くの社会人同様に会社勤めをしたりしているが、「創作を通して自己を表現する」「英語を使って何かをする」「お金を稼ぐために仕事をする」という感覚がめちゃくちゃ薄い。そういう発想がなかった。むしろ、「創作するその過程がただただ楽しいから創作に走ってしまう」「英語の仕組みや語構成がおもしろいので気が済むまで参考書を読む」「日々の業務がわりと楽しいことばっかりなので仕事が続けられる」という感覚が強いのだけど、どうもこっちの方が少数派らしい。それそのものが目的となってしまうタイプの人間。別に、こっちの方が物事を極められるかというとそうでもないとは思う(現に私はどこかで頭角を現すほどえらくなってはいない)。効率も悪そうだし、興味だけで動いているのでうっかりすると重箱の隅みたいなところにハマりこんで本人だけが楽しいというようなことにもなりかねない(私が最近ハマっている筋少小物シリーズなんかまさにそれでは…?)(推しイメージのアクセサリー、オタクならみんな作るよね?それの楽曲版だよ…)。役に立たない知識を頭に叩き込むようなことをして何の意味があるのかとさかしら顔の大人や勉強嫌いの子供は言うが、私が思うに、特に意味はないけど楽しいんだよ…。それじゃダメかな(ダメっぽい)。いろんな物事そのものの持つ本質的な楽しさみたいなものを、たくさんあるいは深く知れたとしたら、それだけでその人生はよいものだったと言えるんじゃないかなと私は思っている。まあ長々と書いたけど、要はビジネス書の世界観が私の人生観と合っておらず、自らつまらない方向に人生を進めようとするように見えてしまう、ということなのかもしれない。

ところで、私は運動が大っ嫌いだ。スポーツを観戦するのも、チーム競技で汗を流すのも、一人でやる筋トレも、お洒落なヨガ教室も、どれにも出来る限り触れたくないと思っている。普通に超弩級の運動音痴であることに加え、身体を動かすことそれ自体の楽しさが私にはわからない。なんなら肉体を所有して常に重力がかかっていること自体に苦痛を感じているくらいなのに…。椅子に座ってこれを書いている今も過集中しすぎているせいか世界がありえないほど傾いて感じられて困っている。観戦の楽しさや見所もわからない。たぶん自分が少しでもやってみたことがあればもう少しわかるのかもしれないけれど、そんな経験はない。それにすごい人ってすごいことをすごくないみたいにやっちゃうし…。オリンピックも毎回、世間の熱中を尻目に見向きもしない。もう少し世間の熱中に影響を受ける身体であったらよかったのだけれど。とにかく世の中でこんなにたくさんの人々が熱中している身体を思い通りに動かすという営みが全く理解できないというのは、ぶっちゃけ人生の何割かを損してるんだろうなとほんのり思う。しかし私にとっては苦痛のほうが大きいので、あえて楽しさを探求しようとも思えない。これが才能がゼロということなんだろうと思う。


そして、目的人間なので、手段としての運動すなわちダイエットもできた試しがない。はいようやく元の話に戻ってきました。

こんな私でも実は拷問のような苦痛に耐えながら最長数ヶ月程度だけ筋トレを続けたことがあるのだけど、やり方が悪かったのか、苦痛のわりになんの効果も出なくて、何が筋肉は裏切らないだ、こちとら無に裏切られたわ(筋肉がついていないので無)というひどい傷つき体験をしたことがある。

食事制限もやったことがあるがストレスがすごかったというか半分拒食症というところまでいった割に全く痩せなかった。そもそも私の食い意地の張り方はかなり異常なレベルだと思うのでもう一回やろうとしたら半日で挫折するのが目に見えている。普通の食欲じゃない食欲が働いている感じがするのだが。コンサータで消えてくれると思ったのに全然消えてくれなかった。


そんな負の成功体験を積み重ねてきたわけだけど、それをどけたとしても元々楽しいとは思えないカテゴリーの行為だし、なおかつ身体を思い通りに動かすことが普通にめちゃくちゃ下手なので、誰でもできるあなたもできるという触れ込みの記事や動画を見る気はとうの昔になくしてしまったし、見たとてたぶん私が正しくできるようになるには説明が足りないものばかりのような気がする。なんかどんどん自己肯定感関係ない話に突き進んでいっていることは私もわかっている。ここまでは確かに自己肯定感とは関係のない特性とか失敗経験による努力のできなさだった。

ところで、食事も運動もどうにもできそうもない、という人間が次に検討するのはふつう、金にものを言わせて美容整形の範疇に属するいろんな痩身術を受けてしまおうかということだと思う。最近はいろんな手法ができてきているという。値段も数十万円とかで、まあどう頑張っても手が届かないというほどのものではなさそうだ。それでも私が踏み出す気になれないのは、金額の大きさやリスクのこともあるけれど、やはり「痩せてしまっていいのか?」という無視できないそこそこの音量で響いてくる心の声だ。自分のことはわりと太っていると思うけど、別にそんなに痩せたくない。自分なんかが痩せてしまっていいものだろうか。痩せるなどということは君の人生とは関係のないことだよ。そんな気持ちがある。

中でも「痩せてかわいくなる」みたいな文言を見聞きすると私の心はウワ-と叫んで裸足で逃げ出してしまう。おそらくそれは、かつてなかなかの醜形恐怖であって、それをなんかちょっと変な形で克服した後遺症のようなものなんだと思う。

中高生くらいの頃、私は自分の容姿がよくわからなくなって発狂しそうになっていた。鏡に映る自分はまあ平凡な普通の顔をしている。偏差値45ぐらいかな。しかし写真に映る自分があまりにも醜い。どっちが本当なんだろう。わけがわからなくなって、狂ったように何時間もかけて角度を少しずつ変えながら大量に自撮りしたり、合わせ鏡を駆使して反転しない像で自分を見てみたり、していた。わりと狂気の域だと思う。そのうち鏡に映る自分もなんか崩壊してきたというか、今まで鏡を見るたびに感じてきた偏差値45感が曖昧になってしまい、日によって20だったり反対に60ぐらいあるような気がしたりと自己評価がぐちゃぐちゃになっていった。

それを、私は美を諦めることによってひとまず克服した。自分の醜さに慣れたというか、醜いことを思い悩むのをやめ諦めて受け入れたのだ。人にはいろんな才能の差があるが、私はたまたま容姿に恵まれなかっただけ。それがどうしたのか。たしかに美人は得をするかもしれない。しかし得をできるだろうからといって、自分が金持ちの家系に生まれつかなかったことを悔やみ、どうしたら今からでも金持ちに生まれつけるだろうかと悩むことはバカバカしいではないか。金持ちでない家に生まれついた我々は、努力して財産を築き上げるか、それができないなら平凡に一生を終えるか、どちらかしかできない。存在しない親の遺産について、あったらいいのになあと考え続けるのは時間の無駄だ。美人にもし生まれついていたら得られていたであろう得など、取らぬ狸の皮算用も甚だしい。やっぱりこれも、私の人生には関係ない。それだけのことだ。そういう風に考えられるようになってやっと、発狂しそうな感じから逃れることができた。そんな経緯があるから、私は未だに〈自分のことをかわいいと思う〉ことができない。元が不美人なのだからどれだけ取り繕ったとしてもせいぜい人造美人だというか。先程の財産の例えで言うならば、どれだけ努力しても成金にしかなれず、何世代にもわたって上流階級にいるような人々そのものに自分がなれるわけではないのだ。

ではなぜ成金のような人造美人を目指さないのかの言い訳をしておくと、美容の方面に関する才能が私にはこれっぽっちもないからだ。服とか身につけるものはまだいける。前にも書いたけれどそれなりに努力してそれなりのセンスが身についたと思う。しかし髪型とか化粧とかの方面はてんでダメなのである。これはTwitterでこの前少しつぶやいた話だが、「綺麗な一つ結びのやりかた」みたいなタイトルの記事があり中を見てみると、ただくくっただけで華やかさに欠けるという悪い例の写真が、私がまず辿り着きたいと思うようなものであった。美容系の情報というのは正直こういうものが多い気がする。手順1に至るための手順を、なぜか誰も教えてくれない。ただくくっただけでそれほどの差が出るのであれば、やはり私は写真の中のモデルさんと違って、碌でもない髪質か、碌でもない不器用か、あるいはその両方かに生まれついているのではとの思いを禁じ得ない。「サルでもわかる算数」というような参考書を読んでわからなかった子供が俺はサル以下かとふてくされてしまうような、そんな気持ちだ。化粧品も、コンシーラーやビューラーやマスカラやパウダーに関しては、使って見た目がよくなったことがない。というか使ったほうが汚い顔になる。多分使い方が悪いのだろうけど、ググった通りの使い方をしてもやっぱりダメなので今はもう使うことを諦めている。そんなに私の顔立ちや肌質って異常値なのだろうか。いろんな美容記事に、間接的に否定され続けて私はすっかり疲れてしまったのだ。だから、不断の「かわいくなる努力」なんていうものはもうしたくない。気になったときに気になったものを試してみることしかやりたくない。言い訳終わり。


さっきまでの話と、〈自分の価値を認める〉〈自分を大切に扱う〉とかができない件とは少し被っている。時間をかけて「自分ブスだけどまあいっか」となったのと同じように、「自分には価値がない、どうしよう、死のう」だったのが、徐々に「自分価値ないけどまあいっか」になってきているのだ。昔、「筋トレは人をポジティブにする。続けた結果、『死にたい…』が『よし!死ぬぞ!』になった」というような内容のツイートがあったが、それと似たような心境の変化だ。筋トレしたわけじゃないけど。

これがいい方向に向かいつつある過程なのか、はたまた変な袋小路に入ってしまっている状態なのかはよくわからない。「ありのままの自分を認めよ」とはよく言われるけれど、それってこういうこととは違うのだろうか。「かけがえのない存在」というような言葉も、他人には自然に適用できるように思うけれど、自分に当てはめようとすると全身にブツブツができて息絶えてしまう。「自分を大切にできない人は他人を大切にできない」というのは本当だろうか。


自分は他人と違って存在として「薄い」。そんな感覚がある。いやまあもともと目立つほうではないのだけどそういう意味ではなくて、ほら、自分だけ一人称視点だし。他の人は目や後頭部が見えるけど、自分の目や後頭部は直接視認できないし。他人は視覚的に確認できるけど、自分の存在は主に身体感覚でしか捉えられない。そして私は身体感覚が超苦手。自分とそれ以外との感覚的な差の源って、私の場合案外こういうところにあるんじゃないのかと思う。根拠はないが。

ないけど、もしそうなら、小さい頃から「私はいてもいなくても変わらないのではないか?」という感覚がなくならないことも説明がつく気がする。大抵の人は、たとえ突然いなくなっても、周りに惜しまれはしても世界全体としては問題なく回り続ける。けれど多分大抵の人はあまりそういう感覚で生きてはいないのではないか。知らんけど。でもそこの分かれ目が、本当に「主観的にどう感じているか」によるところが大きかったとしたら。感覚的にいるんだかいないんだかよくわからない(これは本当にそうで、寝起きの疲労状態とかはマジ物理的存在…という感じがする一方で、過集中に入ったりすると身体は溶けてしまって意識だけがそこにあるような感じがする、それを日々行ったり来たりして生きている)というのが、いてもいなくても変わらないはずという信念に進化するのはすごく容易いことなのではないか。


〈大事に思ってくれている人がいると認める〉ことができないのにも、それだけではないにしても、それが影響しているんだろう。自分は希薄な靄のよう。他人は確固たる存在。私はいくらでも他人を大事に思えるが、他人から大事に思われるのは感覚的になんだかしっくりこないところがあるのだ。

加えてやっぱり私は人の気持ちがいまいち感覚的にはわからない(ASDっぽい)。いくら言葉をかけられても、態度に表されても、その言葉や態度をとりあえず受け取ることしかできず、それらの背後にある好意を感知して受け取ることがいまひとつできていない。


受け取れないといえば、〈人の褒め言葉を素直に受け取る〉というのも結構厳しい。褒められたり認められたりすることに対して妙な反発心を抱いてしまう。

気づいたときにあまりにもびっくりしたので、これも前にTwitterで呟いた話だが、私が異常なまでに、蛇蝎の如く、ナンパを嫌っているのもおそらくこれが関係している。

ナンパというのは、通りすがりの人にある種の人間認定を受ける出来事にほかならない。なんのこっちゃと思われるかもしれないが私は大真面目だ。もちろん一般的な意味で対等な人間扱いではない可能性は高いが、最低でも行きずりの相手にしてもいい程度には同種とみなされている。後半の側面に着目するとナンパは肯定テロ行為であるともいえるだろう。

しかし私の内心の奥深く、無意識との境目のあたりにはどうやら「私は人間じゃない」と刻み込まれているようで、街を歩いていて突然お前を人間のメスと認める!と突きつけられると違う違う違う違う!となってしまうのだった。

もちろん普通に鬱陶しいとか、気持ち悪いとかそういう嫌さもあるのだが、そういう普通の感情を、耳をつんざくサイレンのようにデカい「何もわかってないくせに知ったような口をきくな」という気持ちが塗りつぶしていく。「自分を違うものとして扱われたこと」への拒絶反応。

……いやどんだけ自己肯定感低いねん。大草原を通り越して熱帯雨林の豊かな自然と生命の神秘。しかしまあこれでようやく全項目を一通りは掘り下げ終わった。長かった。2万字に迫る長さになってしまった。


実は、上に書いたのは2020年4月ごろの話で、そこから1ヶ月ほど公開せず寝かせてあった。最後ちょうどいいまとめ方が思いつかなかったのもあるが、何より状況が結構変わってしまったのが大きい。わりとこれを書いている最中は精神が不安定だったのだが、書き切ってしまうとそれなりにやっていくぞという気持ちに(今のところは、かもしれないが)なれている。

ちゃんと一人暮らしもしたいし、できれば幸せになりたいなあと思うし、少しずつ運動もしてみようかなあとかも思っている。苦手な部屋の片付けも頑張っている。などと自分を認めることも、ちょっとできる。何か鬱をやってからずっとダメだった本を読みそして没頭することもできそうな感じがしている。もしかしたらこの文章の錬成にセルフカウンセリング的な効果があったのかもしれない。

過量のポジティブに触れてしまうとやっぱりしばらくつらくなってしまうけれど(闇の眷属)、自分に無理のない範囲で、時々後ろも向きつつ、概ね前向きぐらいでやっていければいいと思う。

そのすぐ横のとこ

私はわりと何されても怒らないほうだと自分で思う。基本的に、情状を酌量したり、自分も悪かったよなあと思ったり、ただ悲しくなったり、単に理解できない不思議だなあと思ったり、する。とにかく、怒りという形を取ることは滅多にない。

人についても同じような感じで、好きな人、興味のない人、苦手な人というのはそれぞれそれなりの数いるものだが、嫌いな人というのは滅多にいない。


ただし唯一の例外がある。それは、道ですれ違った程度の接点しかない、見ず知らずの人に遊びの目的で声をかけられるアレ、つまり「ナンパ」だ。

ナンパという行為、ナンパ師という人種、ていうかもうナンパっていう概念そのものが、何故だかわからないけど私は嫌いでしょうがない。生理的に無理というやつだ。この世のありとあらゆる存在の中で、Gのつく黒い害虫の王を2位に抑えて燦然とワースト1に輝いている。


たとえ声をかけられるまでどんなにご機嫌ハイテンションでいたとしても、ひとたび声をかけられると、そしてそれが純粋に道を聞きたいとかではなくむしろ不純100%だということがわかったりすると、途端にテンションは奈落の底まで垂直落下、堪忍袋は緒と言わず袋全体が1cm角にブチブチと空中分解することであろう。要はすこぶる機嫌が悪くなる。まあ私巻き舌もドスの効いた発声もできないし、そんなに罵詈雑言がそんなにポンポン出てくるほうではないので、機嫌が悪くなったところで全然怖くないんだけど…。


これほどまでにナンパへの憎悪の炎を胸に秘めながら日々を生きているのに、そしてハジけた場所には決して寄り付かない陰キャであるのに、私は悲しいかなそれなりの頻度でナンパに遭う。いや、その実ナンパを装った何かの勧誘であるのかもしれないが、装わないでいてくれるほうがまだ精神衛生上よいし、相手を人間扱いした断り方をしようと思えるものだ。


仕掛けてくる相手もさまざまだ。ふた回り以上年上っぽいのもいたし、チャラけた美容師風のもいたし、量産型大学生みたいなのもいたし、今日がファーストナンパですってぐらいコミュ障なのもいたし、外国人に英語でナンパされたことさえある。なお英語がわからないふりで乗り切ろうとしたら日本語に切り替えてきやがった。シット!


私は別に人の視線を集めるほどの美女でもなければ巨乳でもない。むしろいわゆるちょうどいいブス枠なんじゃないかというような気さえする。でもそれより何よりたぶん見た目が弱そうなんだと思う。お人好しっぽいというか、押しに弱そうというか。服装も大抵無難だし。しかし気弱な菩薩系女子にも地雷はあるのだ。押そうとした瞬間お前の両手両足をまとめて貰っていくからな。


まあ、私が低レベルだから集まってくる輩も低レベルなのかもしれない。それはまあ一理ある。しかし、私はお察しの通りフジッリ級のひねくれ者だ。いわゆるハイレベルな対応をされたところで、せいぜい逆撫でされた神経が摩擦熱で自然発火するくらいだろう。


例えば、イケメンとか好みの顔面だったら喜んでついていくのでは?という意見もあるかもしれない。いや逆にイケメンに気づける方法を教えてほしいくらいだ。これまで声をかけてきた輩のなかにイケメンもいたかもしれない。いなかったかもしれない。わからない。覚えていない。

いつもコミュニティ内の誰か他の人が「○○さんってイケメンだよね」とか言っているのを耳にして、慌ててその人をイケメン枠に入れとくようにするくらいだ。そうすれば、ああ言われてみれば確かに結構かっこいいなあと思ったりはするのだけれど。とにかく、人の顔って相当顔以外の情報が蓄積しないと検知できない。


いわゆる話し上手はどうだろうか。私が雑談のネタになるような常識レベルの流行について知らなさすぎて、話の腰を再起不能のギックリ腰にしてしまうこと請け合いだ。ちょっと意識の高そうなかっこよさげなことを話してくるスタイルだったとしたら、話の腰には怒りの鯖折りをお見舞いしたい。

もし万が一私の興味ある事柄すべてについて話せるような人がいたとしたら、その場合だけはちょっと友達になってみたいような気もするけど、たぶんそれは熱心なストーカーだから、残念だが通報することにしよう。


金に物を言わせて物で釣ってくるならば、プライスレスなパフォーマンスを頼もうと思う。私はお金で動くような人間ではないのだ。見たいパフォーマンスは三択。できることをやってくれればそれでいいのだ。一、蒸発する。二、爆発する。三、絶滅する。


とか考えたりするけれど、結局のところ実物に遭遇するとうまいリアクションなんか取れなくて、ただただガン無視するだけになってしまう。無視は得意だ。こちらから何かする必要がない。人と目を合わせるのが苦手という短所も、ここでは逆に長所として輝く。就活のときに聞いた、短所を長所に言い換えるとはこういうことだったのか。なるほど。今分かった。

まあでも無視が一番効くという説もある。それを信じて生きていこうかな。