暴走するメタファー
私は例えたがりだ。
たがるというか文章を書いていると勝手にイメージのほうから降ってくる。そしてひとりでに動き始める。イメージに合わせて考えのほうが調整されていくように感じられる節さえあるような。二つ前の記事が思いの外ラピュタでまとまってしまって気づいた。
なんかもう病的なくらいに、普通あんまり結び付けないものの共通点を何か見つけてしまうのだ。
この間「あなたにとってキャリアとは何ですか?」という質問をされたときに、私意識高くないからそんなこと普段は全く考えてなくて、えーっとえーっとと言っている間にとっさに降ってきた答えが「ジェンガみたいなもの」で、そのあと何でそんなこと口走ったんだろうと考えると「少しずつ積み上げていくものだが高く積み上がるにつれて選べる選択肢が狭まって進路がかたまっていく」と出てきたのでそう補足した。
質問してきた人には若干引かれた気がするし、自分でもなんじゃそりゃと思った。
前に受けたWAISには、まさにこの共通点を探す「類似」という種類のテストがある。二つの事物が言葉で伝えられるので、その共通点を見つけて言う、というものだ。
結果報告のときに細かい点数までメモっている余裕がなかったので今となっては正確な成績はわからないけれど、これは言語理解のIQの算出に関わるテストの一つである。そして私は言語理解がやたらと高い。ということは「類似」の成績も相当良くないと辻褄が合わない。例える能力についてお墨付きをもらったようなものだ。
テストでは事物Aと事物Bから共通の性質Cを言うわけだけど、実際例えるときには性質Cを持つ事物Aを性質C'を持つ事物Bに例えるわけだから、まあ掛け算と割り算みたいな関係だよね。ああまた例えてしまった。
たぶん、例え能力が高いので、いろんな面についてジャストフィットするようなものを無意識に選んで引っ張ってこれてしまうのだと思う。
メタファーが思ってたより的確でいつも思考を追い抜いていく。
診断を振り返る
発達障害の診断を受けたときのことを記録として書いておこうと思う。
小さい頃からなんとなくこの世に違和感があるのはあった。まあそれは別の機会に詳しく語るとして。
ツイッターで発達障害系の友達ができてからは、自分もこっち側だろうと確信はしていたが、その正体を確定させたい気持ちがあった。
また当時仕事でかなり追い詰められていて、何か配慮を求められるようなポイントがないかと探したいとも思い、それが最後のひと押しになって診断を受けることを決意した。
大阪の某クリニックで申し込んで、たしかだいたい3ヶ月&3割負担で3万円ぐらいかかって診断が降りたはず。
WAIS-Ⅲだけ受けるようなやつではなく、養育者に聞き取りをしたり、MRIを受けたりと結構詳しく見てくれるような診断コースだった。なのでお金はめちゃくちゃかかったけど、まあ納得している。
やったことは、何に困っているかやどういうところが発達障害だと思うかのざっくりとした問診→なぜか難読漢字の読み方テスト→養育者と自分が書く大量の問診票→養育者を連れて行って質問攻め→全脳MRI検査→WAIS-Ⅲ→自分が質問攻め→学校の通知表を見せる→結果発表、という流れだったと思う。もうだいぶ忘れてるからちょっと違うところがあるかも。
問診(票)では、どこかで見たことのある質問に大量に答えることになった。自分ではかなり当てはまるつもりだけど、養育者(私の場合は母親を連れて行った)はあんまり何も覚えていないので悲しくなった。母親も母親で発達に問題がありそうに見えるので、そのせいかもしれない。自分と一緒=普通=印象に残らない、的な。
MRIは不思議体験という感じ。うるさいと評判だけど、私はあの音は嫌いじゃない。リズミカルな前衛音楽のような音が流れるものだから笑ってしまいそうになった。
ちなみにこれを受けたときに謎の変異が見つかって今経過観察をしているので、受けといてよかったなあと思っている。
かの有名な IQテスト、WAIS-Ⅲは頭を使って疲れるけど結構楽しい。でも2回目は受けたくないかな。2〜3時間かかるのでめんどくさい。
結果はこんな感じ。
全検査 134
言語性 129<動作性 135
言語性:言語理解 144>作動記憶 96
動作性:知覚統合 130>処理速度 116
いやもう最初結果見たとき高すぎてぽかんとした。まず私の作動記憶が人並みっていうのが信じられないし、なんなら他も全部体感より20ずつぐらいは高い。まあでも高い人については細かい数値にあまり意味はないと言われたけれども。
とはいえ、高低差の感じは実感にかなり合致していて納得。見せられたグラフのワーメモのひずみ具合が凄くて笑ってしまった。50近くディスクレパンシーがあるのはちょっとえげつない。
ただ動作性の方が高いのだけはよくわからない。運動音痴なのに。
この辺のテストを全部総合して降りた診断は、特定不能の発達障害だった。中途半端にしか診断基準を満たさないということらしい。それにADHDはグレーゾーンだと言えるけど、ASDはかすりもしないとのこと。予想外だった。
得意分野で苦手分野を補って人並みのことができてるんだからいいじゃない、というようなことを言われた。
これはちょっとショックだった。頑張っても人並みになれない人がいて、その人よりは恵まれているのはわかるけど、ものすごく頑張らないと人並みになれないのもそれもまたしんどいし、その壮絶な努力を簡単に補うとかいう言葉で片付けたのはちょっとひどい。あまりにも行動主義的。
まあでもとりあえず二級市民にはなれた。手帳を取るつもりは今の所ないけれど、それでも晴れて自分の状態に名前がついた。IQが全てではないけれど、自分の謎にかなり説明がついた。診断をきっかけに状況が整理された。そういう意味では受けてよかったと思う。
結局ややこしいことになってしまったので職場には何も言っていない。どうしたものか。
どっちにしたって現実はきびしく、やっていく or DIEなのである。
浮かぶのはイメージ
そういえば好きなものについて語るということをあまりしてこなかった。少なくともここ数年していない。
今日問いかけられて気づいた。
普通、人の趣味とか好きなもののの知識というのは、山の形になっているとイメージされるのではないだろうか。常識という土台の上に、初級、中級、上級と積み重なって、人それぞれの高さやとんがり方をする、というように。みんなが知ってるものは当然押さえた上で、知ってる人が少ないものへと知識を深めていくのが一般的であるような気がする。
しかし私の世界は先っちょしかない。山の先っちょだけが空中にぽっかりと浮いていて、どこから入ったらいいのかわからない。
さながらラピュタである。
裾野の広い、みんなが知っているものほど私は知らない。世間話に支障をきたすくらいに。常識が欠如しているというやつだ。
正直困ることも多いけど、それよりも自分が興味を持てるかのほうが私にとっては重要なことなのである。興味の持てないものは本当に頭に入らないので。
そしてたまたま、私が興味がないものの多くが世の中でメジャーでベタで常識とされていて、興味のあるものの多くが世の中でマニアックなものとされているのだった。
昔は島の影を見せびらかしては他の人を怖がらせていたように思う。それに気づいて、島に引きこもって気配を消すようになった。だから大多数の人には、めちゃくちゃ透き通った人間に見えると思う。見渡す限り何の引っ掛かりもない平原。何の話にも乗れないつまらない人間。
たまたま似たところに標高の高い山を持っている人だけが、浮いている島の存在に気づく。
今さら地に足のついた山を築いていろんな人と地続きになることはできないけど、存在に気づいてくれる人というのも、たまにはいる。そういう人とぐらいは交流を持ってもいいんじゃないかなあ。
例え話が暴走しすぎた。
まあとにかく、好きなものについてくらい語れなくてどうする、って今日思ったんだ。
浮いててもいいから、得体の知れない影でなくて登ってもらえるようなロープを投げかけられる人間にならねば。
ということでブログを作ってみました。