モルヒネの麻酔のまぼろしさ

この間、トリイ・ヘイデン「シーラという子」を貸してもらって読んだ。訳書であるもののとても読みやすく、没頭して読める本だった。すごい勢いで読んだ。脳を壊してからというものそういう本に出会えるのはわりとレアなことだ。

没頭できたのは読みやすさのためだけではなく、その名前がタイトルにも入っている子供・シーラの境遇や気持ちにかなり共感できたからでもあった。

非常にざっくりとあらすじを説明すると、主人公は特別支援学級の先生(作者=トリイ)で、彼女が受け持つクラスに手のつけられない子供(シーラ)がやってくる。シーラが異常なまでに凶暴で反抗的だった背景には虐待などの不幸な生い立ちがあった。トリイは悪戦苦闘しながらもシーラと信頼関係を築き、やがてシーラも心を開いていく…といった感じ。


この辺からネタバレ及びどす黒い長文になっていくのだけど、途中でシーラが高IQ児であることが判明する。共感ポイントその1。まだ6歳であるにもかかわらず、大人が読むような雑誌から難しい単語を吸収していたり、複雑な文法を使いこなしたり。


私もかつて8歳くらいで家にあった「本当は怖いグリム童話」とか「快楽殺人者の心理」みたいな分厚いハードカバーの本を読んで(うちの親もなかなかのブラック趣味なのでは?)まあまあ理解できた記憶がある。ただし、性的なことを言っている部分はさすがになんとなくしかわからなかったが。でもそういう単語があるんだなってことだけは覚えた。なので私のそっち方面の語彙はまず漢語から蓄えられていった。

それとか、幼稚園や学校で作文とかさせられるときに、他のみんなは主語と述語のねじれた文をよく作っていたが、私はいち早くその辺気づいていて、なぜみんな平気で無頓着にも文をねじれさせるのかとぷんすこしていたぐらいだ。


また、シーラは母親に捨てられている。そのせいで母親に愛されていないと思っている。何を思って、どういう理由で母親がシーラを捨てたのかは作中でも不明のままだが、とにかくそのせいでシーラの愛着は壊れている。そして、ひとたびトリイが自分を大事にしてくれる存在だということがわかると、今度は完全に依存してしまって、少し離れるだけで恐慌状態に陥ってしまうくらいになるのだった。共感ポイントその2。


まあ自分のケースだと表向きは円満な家庭で育ったからここまでひどくはないのだけど、やっぱり私の愛着もわりあい壊れていて、仲の良い人と会ったり長電話したりというときに、別れたり切ったりするのにものすごく抵抗がある。またじきに会える/話せるとはわかっていても、この世の終わりかというほど寂しくて死にそうになる。しかしどうやらまともな家庭で育った人にはなんでそんなに寂しがるのかさっぱり理解できないようだ。


うちの家庭にはあまり優しさや気遣いというものがない。例えば、風邪を引いて寝込んだとしたら、たしかに病院代や薬や世話自体は用意してくれるし、そこが恵まれていることは重々わかってはいるのだが、基本的にまずは怒られる。寄り添うというより突き放すような言動をしつつ、看病をしてくれる。一事が万事そのような調子なものだから、小さな責められが積み重なってボディブローのように効いてくる。割り切って仕事でやってるんじゃないんだから、土台に思いやる気持ちがあってこその看病という行動なのではないんだろうか。

一度この件については話し合ったことがあって、私が「友達はみんな風邪を引いたら優しい言葉をかけてくれるけど、うちの家族の中にそういうのがないのはなんで?」と聞いてみたら、「友達は口だけで何もしないでしょ、家族だからお金も出すし看病もする」といったようなことを言われた。

なんというか、情緒的な絆を軽視して、物質的なつながりばかりを重視しているような、変な回答だなと思った。家族というのは戦略的互恵関係であるべきなのだろうか?結局その話し合いは平行線になったので諦めた。


まあ風邪なんかたまにしか引かないからいいけれど、もっとしんどいのが、私の障害について特に心配する素振りを見せてもらえないことだ。安定している今はともかくとして(それでも疲れ果てて月に何回かは1日に20時間近く寝てしまうことを怒られているのだけど)精神科に通い始めたころに一度はっきり見てわかるレベルで潰れたことがあって、そのときは泣いてつらさや希死念慮を訴えたのに、特に何も変わらなかった。正直これは「別にお前が死んでも構わない」というメッセージだとしか受け取れない。

私の感覚では、自分の子供が病気になったとしたら、心配になって、病気のことを分かろうと必死に情報を集めたり勉強したりし始めるものではないかと思っていたが、どうもそうではないらしい。

小さい頃喘息でほぼ毎日軽い(入院しないで済むという意味で、夜寝れない程度ではあった)発作を起こしていたときも、特に気持ち的に寄り添ってもくれなかったし、勉強してくれたような様子もなかった。

急に過眠になって毎日床に倒れこんで寝ていたときも、心配するよりも叩かれて怒られた。

ある種のネグレクトだと言って差し支えないのではないかと思う。

精神的ネグレクト。


またうちの親は褒めるということもあまりしない。例えば、テストで98点を取ったとする。それを見せると、まず「どこ間違えたの」と聞かれる。うちの親にとって、98点のテストは、98%も得点できたテストではなく、2%も減点されたテストなのだった。たまに珍しく褒めたとしても、「なんだ、やったらできるんじゃん」というようないまひとつ素直でない褒め方をする。


この「やったらできるんじゃん」というのは、言った相手をすごく苦しめる言葉だと思う。この言葉を言われるたびに、そこが当然クリアするべきラインに変わる。それまでのハイスコア地点に次の回のゼロが移動するのである。

それがどういうことか、わかりやすいのかわかりにくいのかよくわからない解説を書いてみる。

あるゲームを50回行い、1回成功すれば1ポイント貰えるとする。1セット目は頑張って10回成功し、2セット目は2倍頑張って20回成功し、3セット目は3倍頑張って30回成功したとする。普通に考えれば頑張りに応じて1セット目は10ポイント、2セット目は20ポイント、3セット目は30ポイント貰えることになるはずである。しかし、2セット目や3セット目は「1セット目で10ポイント取れてたじゃん」ということでゼロを10ポイントのところまで動かされてしまい、それぞれ10ポイントや20ポイントしかもらえない。3倍の頑張り(10回が30回になった)をしてようやく2倍頑張った(10ポイントが20ポイントになった)と認めてもらえるということだ。そしてもちろん、次は「あ、20ポイント取れるんだね」とそこが次のゼロになる。そうなると、もはや10回の成功は成功ではなく、マイナス10ポイントの失敗ということになる。

おわかりいただけただろうか。要はハイスコアとの比較しかしてもらえないということだ。

そして私の場合、一番の得意分野が学校の勉強だったために、ハイスコア=限界値=100点ということとなり、こうして100点を取っても喜べずに安堵するだけ人間が爆誕したのであった。

学校では随分といろいろ言われた。90点台で喜ばないのは90点台を取れない人からするとムカつくらしい(それはそう)。でもうちでは90点はマイナス10点なんだから、そんなに喜べる結果ではないのだ。


話が逸れたが、こんなのだから私の愛着は壊れている。温かさや安心や頑張りに応じた褒められをもらえずにきたのだから、当然のことかもしれない。「つらいときには、過去に受けた家族や友人や恋人からの(広い意味での)愛を思い出すと、心の支えになってくれる」というようなことを本の中でトリイ先生はシーラに言っていたが、私はその話をされた当時のシーラ同様、それを全く理解できないでいる。心の中に帰るべきところなんてものはない。過去の愛とはすでに過ぎ去ってなくなってしまったものであって、何かが残るわけではない。今現在愛を受けているかどうかが全てだ。そんな感覚がある。だから仲の良い人と過ごしたときの別れ際=愛の供給のストップがとてもさびしい。


さらに温かさの代わりに冷たく責められ続けてきたためもあってか、自己肯定感がものすごく低くなってしまった。自分はヒトだ、というのと同じくらいすごく基本的で素朴な信念として、自分はゴミだ、という気持ちを抱いている。それが邪魔して、誰かから褒めてもらえるとまずは不信感が顔を出す。心ここにあらずで聞き流してしまう。それではいけないと最近少しずつ受け取るよう努力してきたけれど、頑張って飲み込んでも吐き戻してしまう。


自己肯定感を高める、とかでググると、「自分で自分を褒めてあげましょう」みたいなアドバイスしか出てこないけれど、そんなこと想像するだけでしんどい。拷問みたいなものだ。それでいつも画面をそっと閉じる。そんなしんどいやり方でしか改善できないんだったらこのままでいいやと思ってしまう。もっとこう、足のこのツボを1日5分押し続ければ3週間で自己肯定感がアップしますみたいな、そんなあやしいダイエットの広告みたいに事が運べばいいのに。


まだまだ色々プチ毒親エピソードは山ほどあるけれど、書いていたら人生初期値の失敗具合にしんどくなってきたので今日はこの辺でやめる。