つらまりブログ

つらまったりもしたけれど、私は元気です。

二人で一人の人狼天使

今回はエミュレート(外モード)とネイティブモード(家モード)についてまとめようと思う。あと私が勝手に圧システムと呼んでいるものについても触れるつもり。


エミュレートというのはTwitter(の私のいる界隈)ではある程度通用する用語だと思ってるし、実際発達障害パーソンあるある(ない人もいる)だと思うのだけど、案外詳しく書いた記事とかが見つからない。ので、書く。

ちなみに、私はあえて「発達障害」と書いている。これは自分がADHDグレーゾーン、かつ特定不能発達障害というぼんやりした診断を受けているためである。加えて、ASD傾向も診断未満だけれどなくはない(ASDの知識やASD向けライフハックが自己の理解やコントロールのために実際に役に立っている)という微妙な位置にいるので、この辺をふわっとまとめて指したいのである。ただしLDさんのことは私はよくわからない。まあとにかくそんな風に言葉を使います。


さて、エミュレートというのは、本来はパソコンのプログラム上で仮想のファミコンを作って動かすとかそういうことを指す用語であるらしい(ふんわりとした理解)のだが、それを転用した言葉である。つまり、定型発達者にとっては無意識にできてしまうようなことを頭でいちいち全て考えて行うとか、意識的に定型発達者のような振る舞いをして見せるとか、そういうことを指す。

人によっては人格のレベルから演算して近似してたりもするみたいだけど、私のエミュレータはいわゆる中国語の部屋みたいなもので、「中の人はその意味をよくわかってないけど、こうすればいいというのはわかるので、とりあえず外から観測するとおかしくない受け答えをしている」というレベルのことをやっている。この例えでいうと、人格のレベルからエミュレートしてる人というのは、「中の人は中国語を学習して身につけたので、一応は理解できるけど、母語のようにスッと入ってこない」というような感じと言えるだろうか。どちらにしても、自分で意識的に言動などを調整して定型発達者のふりをし、社会に適応するための一つのスキルなのだ。


私はまともぶることにかけては天才なので、このエミュレートモードが、外出したり、外の人と接するときに自動でオンになる。モードが切り替わるのだ。しかし自動とはいってもほぼ全ての振る舞いを意識的に調整している。どういうことかというと、周りがAT車ばかりの中で私一人が「MT免許を持った人が乗り込んだMT車」になっているような、そんなイメージだ。ちゃんと動いているけど、調整は全て手動で、でもとりあえず調整ができる人が乗り込んできてくれる。操作は手慣れたもので、滅多にエンストなど起こしはしないが、そうはいっても人の手でやっているので、稀にはエンスト(=コミュニケーション事故)を起こすし、どこまで慣れてもATより負荷がかかる。


そう、負荷がかかるのだ。いくら自動でオンになるといっても、エミュレートをやり続けるのはかなり疲れるよう(オンの間は疲れを感じないのでようとしか言えない)で、家に帰るとまた自動でモードが切り替わってオフになる。MT車に今度はMTを運転できない人が乗ってくる。つまり動けない。

動けないというのは比喩ではなく、本当に疲れ果てていてなかなか何もする気にならないのだ。外だとちょっとした雑用なんか率先してやろうと心がけるが、家の中では家事はできる限り親に丸投げしてしまっている。外だと人の御用聞きをして奉仕するような仕事(小売業)をしてそれが特に苦にもなっていないが、家の中だと親に何か頼まれたりするとものすごくストレスで、なかなか言うことが聞けない。

二重人格かってほどエミュレータのオンオフで人が違うのだ。


エミュレートせずに生きている人にとっては、それは親だから特別なんじゃないかとか、外でそんなことをしている反動が来てるんじゃないかとか、そう思うかもしれない。もしくは、キャラを作ったりするくらい誰でもあるだろうに、何を大げさなと思うかもしれない。


でもこれは明らかに反動ではない。外で例えあらゆる仕事を怠けたとしても、余った体力を家に持ち帰って使うというようなことができないからだ。実際主観的な感覚としては、体力ゲージが2種類あって、家の中と外で勝手に切り替わるというような感じがする。外だとHP3000くらいあるものが、家の中だと5ぐらいしかない。たとえ体力満タンで家に帰ったとしても、2995のHPはどこかに消え去り、強制的にHP5にされるのだ。


まあでも、親だから特別っていうのはそうかもしれない。でも、単身赴任中の父親に家で接するのと、単身赴任先のアパートで接するのとでは、感じるストレスがかなり違う、というのはある。

同じことを同じ人に言われるのでも、家の中か外かで感じるストレスの量が違うというのは、キャラ作りでは説明がつかないのではないだろうか。

しかも、キャラを作っているように見える外モードのときのほうが、ストレスを感じにくく、情緒も安定していて、実に健全なのだ。これは痩せ我慢でもなんでもない。我慢するべきイライラをそもそもほぼ全く感じていないのだから。たまには感じるけど。

一方キャラを作るというと、普通、なんでもない風を装いながらも、実は無理をしていて、心の中ではストレスになっていたりする、というものではないだろうか。


とにかく、無理せず自然な切り替わりに任せていると、こんな風になるのだ。あたかも自分というMT車を運転するドライバーが二人いて、場面に応じて交代するかのように。

こういう交代制になっているのは、かなり小さい頃からだったように思う。そうはいっても、外モードの人(?)も昔からここまで運転がうまかったわけではない。どう頑張っても壊滅的に運転できないドライバーと、今はまだダメだが練習すれば運転できそうなドライバーがいて、後者が自ずと外モードを担当するようになったというか…。

たぶんおそらく、エミュレータは意識的に育てようとしないとあんまり育たない。パターン学習と練習が必要なのだ。社会にうまく適応できてない発達障害者には、多かれ少なかれ、社会が要求する程度までエミュレート精度を上げられていないという問題があるような気がしている。もちろん障害の程度や性格等々は人それぞれなので、100のエミュレートをするのに50の努力で済む人と5000の努力が必要な人とがいたりはするだろうけど、小さい頃にエミュレートの必要性に気づいて努力を重ねてこれれば、生存確率は上がるだろう。それが療育のもたらす効果なんじゃないかと勝手に思っている。療育受けたことないけど。

あと、自分のエミュレータの精度を上げるという方向ではなく、要求されるエミュレート精度が低いコミュニティに身を置くというやり方で生き残る方法もあるだろう。


私がエミュレータの必要性に気づいたのは高校に入学したくらいのときだった。その頃、ある日ふと、周りが挨拶をしたり、何かしてもらったらお礼を言ったり、話を聞くときに相槌を打ったりしているといったようなことに気づいたのだ。

私が発達障害者だということを本当の意味でわかっていない人がこれを読むとショックを受けるかもしれないけど、私は正直、その辺の社会的なやりとりは、いまだにあまり意味がわかっていない。なんでそうするのか、よくわからないでやっている。どうしても必要だという感覚がちょっと薄い。

とにかく、自然にはそれをできない自分と、どうも自然にそれをしているらしい周囲とのギャップに、ある日はたと気づいた。

その日から猛烈な努力が始まった(といっても障害が重い人よりはよほど努力量が少ないと思う)。タイミングを見計らって完璧に模倣する。擬態する。意識的に体を動かし続ける。相手を観察し、大量のインプットからパターンを抽出し、適切なリアクションを徹底的に頭に叩き込む。リアクションがワンパターンになりすぎないようにいくつかバリエーションを用意し、乱数を発生させて(本当に発生させているわけではないがそういう感覚なのだ)あえてノイズを加え人間らしい振る舞いへと微調整する。

ここまで頑張っても能力を超えていてできないことはある。たとえば視線絡みのこと。視線の検知とかはかなり弱い。視線を合わせるのも気を抜くとすぐ忘れる。まあそれでも、よく聞き上手だと言ってもらえる程度には、相槌を打つのがうまくなった。本当に、なんで打ってるのかよくわからないで、ただ表層をなぞるように打ってるだけなのだけど…。

でもそういう感じで、人間のふりをするのはだいぶうまくなった。人間のふりをしているといっても信じてもらえないくらいに。まあ、ふりといっても、自分ではわざとオフにすることはできないのだけれど。


話がだいぶずれたけど、一方で家モード、ネイティブモードはどんな感じかというと、最初の方にも少し書いたように、基本的には常に疲れ果てていて、ほとんど何もする気になれない。無理をやめると寝たきりになる、基本姿勢が横族というやつだ。

そうかといって、本当に何も家の中で成していないのかというとそういうわけではない。まあ1日に20時間寝たりはするけれど、それでも趣味に興じたり、やらなければいけないことをこなしたり、外出の準備をしたり、といったことをすることもある。なんだ動けるんじゃないかと言われそうだけど、何もなしでは動けないのは本当だ。これら家の中でできることには、私の意識を乗っ取るだけの魅力か、あるいは何もしたくなさに勝つだけの圧があるのだ。


魅力はわかりやすいから置いておいて、圧とは何か。

たぶん、外からの要求や要請といったものかなあと思う。外の要素のあるものに、私は敏感に反応する。外モードがいくらか乗り移ったような状態になるのだ。

たとえば、私にとって外出は相当困難なことの一つだ。外に出てしまえば外モードになるので何でもできるのだけど、身支度を始めてから家のドアを開けるまでのところがとてつもなく難しくしんどい。ではなぜ仕事を続けたり、友達と遊んだりできているのかというと、それは家の外に属するものから外出が要求されているからだ。具体的に言うと、雇用契約とか、友達との約束だとか。その圧力が所定の時刻に近づくにつれ強まっていくので、あるタイミングで抵抗感のほうが屈服し、晴れて身体は動きだせるといった具合だ。


一方で、「休日に一人でふらっと特に意味もなく出かける」というのが私にとっては困難を極める一大難事業となる。圧が全くないので、何もしたくなさをゼロから克服してやらなければならない。基本的にそれは無理で、それをしようとしていつの間にか出かけられないくらい夜も更けていたという話は枚挙に暇がない。


他にも、お風呂の問題がある。私はお風呂がもともとかなり嫌いで、温泉旅館とかも全くよさがわからない。そうかといって、社会で生活する上で不潔にしているわけにはいかない。つまり外の世界から入浴することを要求されているということになる。こういう場合はとりあえず動ける。


空腹を満たすにも、なるべく食材を加工せずにそのまま食べるとか、すでに調理加工された食品を食べるとか、家の中ではそんなことしかできない。料理の出来上がるのをじっと待つのはとてもしんどく、生煮えでつまみ食いとかをよくしてしまう。この辺はやっぱりADHDグレーっぽくて、報酬系壊れてんなと思う。待てない。

外の人の要求があると途端に待てるから、人が並んでいる順番待ちとかは全然平気なんだけどね。


他にもネイティブモードだと、かなり感情の上下が激しく、人の目をあまり見ず、片付けがダメで、話し言葉に抑揚がない。ほんとダメ人間だなと思う。

ただ、苦痛に耐えて自殺する勇気がない限り、それでも生きていかざるをえない(「踊るダメ人間」)。

あの歌詞はなかなか真理をついていると思う。自分のダメさのあまり、全てぶっ壊すことを夢見たりするかもしれないけど、所詮なかなかそんなことってできなくて、そして社会は本当に厳しく、我々は(ある面では)少数派であるという厳然たる事実が存在し、結局はそれでも自分でなんとかやっていくしかないのであって、できなければ死ぬ(これには社会的な死も含む)、それだけなんだと思う。やっていく or DIE。

それをいつ悟り受け入れることができるか、なのかもしれない。