みがわりノート

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愛を撃ち殺せ!

ランダムに言われる複数の数字を一時的に記憶して、言われたのと同じ順番で、あるいは逆の順番に直して言ってみせる、ということがあなたはどのぐらい得意だろうか。私は死ぬほど苦手だ。


これらはWAIS-Ⅲで実際行われるテストで、それぞれ順唱、逆唱と名前が付いている。これらのテストの結果は、作動記憶(ワーキングメモリ)のIQを測る手がかりの一つとして使われるようだ。

その作動記憶のIQが、私は自分の中でそれはもう著しく低い。天と地というか成層圏マリアナ海溝かというくらい差がある。一番高い言語理解は2Eを軽く超え、(自分でも信じられないことに)控えめに言って天才の域なのに、一番低い作動記憶は凡人にも若干劣るくらいなのだ。細かい数値は過去の記事を参照していただくとして、まあとりあえず数値にして50近くの差がある。15あれば発達障害の疑い濃厚と言われるそうなのに、私はこれでもうまくやっているそうなのでADHDに関してはグレー止まりだ。何かPDD-NOS的なことも言われたには言われたけど、それは今のDSMではASDスペクトラムに入るとウィキペディア先生が言っていた。私はどこにアイデンティティを置いたらいいのだ。こまった。


脱線した。


この困り方に対してグレーっていうのはちょっとひどい気がしている。そりゃあ典型例みたいな人よりはたしかにミスも少ないし、外からはうまいことやっているように見えるかもしれないが、それはひとえに私が大人しくて出しゃばらない性質を持っているためにやらかしても表面化しないだけであって、ライフはすでにかなり限界までハッキングしているし、内面のほうもボロボロだ。心の折れたエンジェルだ。とか言ってると世界への恨み節が無限生成されそうなのでこの辺でやめておくが、とにかくディスクレパンシー巨大パーソンはまあ生きづらい。


定型パーソンは、言語理解・作動記憶に関して言えば、たいていそれなりに詳しい辞書とそれなりに広い作業机を頭の中に持っている(ようなものだと私は理解している)。

それが私は日国大とクッショブルなのだ。いや日国大の見出し語全てが理解語彙だとは言わないけれど、物の例えとして。

それにしてもこれらの両方が名前だけ聞いてパッとわかる層というのは一体どこなのだろうか。とりあえず不釣り合いだということが伝わればいいのだけど。持っている言語的な知識量に対してあまりにも作業台が狭いのだ。ネコちゃんのおでこだ。


わかりやすいところで言うと、暗算ができない。2桁同士の掛け算なんてのは絶対にダメで、繰り上がりがあるやつだと足し算もあやしい。数字を頭の中に置いとけないのだ。一つ入れると一つ忘れる。ロケット鉛筆。心太。その他にも神経衰弱は激弱だし、脳トレゲームなんかによくある瞬間記憶ゲームとかも壊滅的だ。


学校の授業につきものの板書もダメだった。文節ごとに黒板を見直さないと頭の中から文字がすぐにシューっと蒸発してしまう。それでチラチラチラチラ何回も見るはめになるのだが、そうすると書くのに人一倍時間がかかり、途中で黒板から文字が消されてしまうのであった。

もちろん仕事をするようになった今でも話を聞きながらメモを取るのは苦手だ。どんどん飛んでくる仕事の指示というのは、荷物を限界を超えてどんどん持たされて、それでも飽き足らず上に積み上げられて、ぽろぽろ落としていくような、そんな感覚にさせられる。

とはいえ、後述するが私は中長期的な記憶力もやってしまっているので、あとで見返せるように必死でメモを取るしか選択肢がないのだけれど。


聴覚的な処理能力が低い(ADHD傾向のある人はそうらしい)のも相まって電話を受けるのも苦手だ。言い慣れた名乗りや挨拶を口から出しているうちに相手の社名や氏名を忘れてしまう。消毒用アルコールよりすぐ蒸発する。いわゆる事務職や電話番と呼ばれる仕事は絶対に私には務まらない。


だんだんわかってきていただけただろうか。では脳内作業台が狭いことによって起こる一番致命的な苦手ってなーんだ。いや個人差はあるかもだけど。正解は「頭の中で物事が組み立てられない」でしたー。文章とか順番とか段取りとか。


文章。こんなブログを書くくらいなんだから文章を書くのは好きで得意なんだろうと思われているかもしれない。それはある面では正解だがある面では間違っている。

私はスマホやPCなどの、削除や挿入やコピペによる順番入れ替え等々が容易なテキスト入力ツールがないと思い通りの文章が書けない。真の言語能力を発揮するにはそういうツールが不可欠だという風に言うこともできる。

一方紙で頭からだーっと一続きに文章を書いたり、口頭で話したりというのはかなり難しい。言葉選びと話の組み立てを同時に頭の中でやってなおかつそれを保持しておくだけの作業スペースがない。それで入試小論文もかなり苦労したのだ。リニアに話を作っていこうとすると、言いたいことの1/3〜1/5くらいしか伝えられないような非常にもどかしい感覚がある。

なのに世の中(というかうちの会社が入社時にくれた社会人マナーブック的なブツ)(そんな高そうなものを大手人材会社とかから買ってる暇があったら給料を上げてほしい…)は「会って話しましょう、電話しましょう、メールじゃ話は伝わらないよ」だ。そんなメールなら使うのやめちまえ。

私に言わせれば、多くの人の書き言葉能力が話し言葉能力に比べてあまりにも低すぎるせいで話せば伝わる話もメールだと伝わらないというだけであって(実際社内外を問わず仕事で付き合いのある人に、何が言いたいのかよくわからないメールを送ってくる人は意外と少なくない)、メールというツール自体に欠陥があるかのように語るのはやめていただきたい……と思ったが、まあ世の多数派がそうなんだったら仕方がない。ただ私の喋りはめちゃくちゃわかりにくいぞ。覚悟しやがれ。


順番(私のやっている仕事でいうと、店舗の什器をAからBに動かし、BにあったものはCに動かし、Cにあったものは二つにバラしてDとEに持ってきて…というような話)の組み立てや、段取りがダメなことについては、エクセルの表を思い浮かべていただくとわかりやすいかもしれない。情報量の多い表を「拡大縮小せずに印刷」した感じ。数セルずつしか一枚に乗らず、どの紙を見てもなんの表なのかさっぱりわからない。一枚に入るように縮小したらしたで文字が小さすぎて読めず、あの例の紙切れを睨め付けているプーさんの画像みたいになってしまう。工程表、タイムテーブル、チェックリスト、スケジュール、その辺のものはみんなそうだ。


ただありがたいことに先人たちは紙やPCやエクセルを発明してくれた。それにうまいことまとめるスキルは、必要に迫られたためかわりあい高いのではないかと思っている。

少なくとも、就活してた頃に、受けた企業とその進捗や各種提出物の締め切りを管理するために作った表を友達(この子は要領がよくワーメモがかなりありそうだった)に見せたら、よくこんなわかりやすくまとめられるなーとびっくりされたことはあったりした。これはワーメモなしがこの世界を生き抜くために身につけざるを得なかった悲しい技だよ。


一部をクローズアップして見るより全体を見るのが苦手なのもたぶんやっぱりワーメモなしのせいで、右を見たら左のことを忘れてしまうというか、いろんなところに満遍なく目を配りそれを覚えておいて関連付けて考える、みたいなことが絶望的にダメで、管理職には向いてないんだろうなあ、管理職候補生みたいな感じで入社してもうたけどなあ、どないしよ、といった感じだ。


冒頭に述べた順唱や逆唱だと、順唱のほうは5〜6個くらいまでいけるかもだけど、逆唱になるとたしか4個くらいでダメになったような記憶がある。あんなシンプルで落ち着いた環境で行われるテストででもマジで3つのことしか覚えられない。もうちょっとガヤガヤした日常生活だと1つ2つのことでもすぐ何処かに行ってしまって二度と帰ってこない。

しかしうちの母親はそんな私に頻繁に口癖のように「幼稚園児でも3つのことは覚えられるのに」という言葉をかけてきた。私が自分は頭が悪いんだという素朴な信念を持っているのはおそらくこの辺にも起因する。自己肯定感もかなり下げたと思う。幼児だろうが大人だろうがワーメモなしはワーメモなしなんだということがわかった今でも私はその言葉に呪われている。


ワーメモなしパーソンは中長期的な記憶力には優れる傾向があるという話をどこかで読んだような気がする。気のせいかもしれない。ソースはない。まあでも私もかつてはそうであった。中長期的な記憶力はかなりよかった。


昔は同じ本を何度も読んで、その中で印象的なセリフなんかは暗唱して話のネタにすることだってできたし、だいたい本のどの辺りに書いてあるかだって覚えていた。今では読み終わった本に何が書いてあったか、どんな人が出てきたか思い出せない。主人公の名前すらろくに覚えていないし、そもそも本を読むのにすごくエネルギーがいるようになった。映画も、漫画も。そういうものに触れるのが好きな気持ちは残っているのに、観ても読んでも内容を思い出せない。人と語り合えない。人から「こんな場面あったよね」と言われて「え?あったっけ?」となる始末である。


勉強したことも何回か集中して繰り返せばすぐに覚えられた。出し入れ自由だった。でもあるときから頭に入らなくなった。それが記銘力の低下なのか、記憶を取り出す力の低下なのかはわからない。そのものを見れば「あ、見たことあるやつだ」という思い出し方はできるが、自分の意思では取り出せない。

人と遊んだことも、人と話したことも、すべてぽろぽろと指の隙間からこぼれていく。

その不可逆的な変化が起こった時期が、ちょうどものすごい鬱と希死念慮に苦しめられていた時期と一致する。

私は医師でも脳科学者でもなんでもないが、鬱や希死念慮は脳を破壊するのではないか、という仮説を立てている。繰り返し途方もない回数憂鬱な気持ちを抱き死について思いを巡らせることは、脳神経に簡単には治らない傷をつけるのではないか?


友達たちがかつて観た映画の感想なんかで盛り上がっているのにひとつも話に入れないのは(しかもその映画は私も観ているのに!)とても惨めだ。漫画や映画や小説のような、文化的なものがもともと好きなだけに、私は自分が何のために生きているのか、時々わからなくなる。


私がさっき書いたような仮説を立てているのにはもう一つ根拠がある。神経保護作用のあるおくすりを飲み続けてしばらくすると、その辺の認知機能や意欲にほんの少しだけ改善が見られたことだ。

昔は本の読みすぎで寝れないくらい本の虫だったのが、いつしか本を開けば即脳がシャットダウンして起きていられないようになり、今ではおくすりのおかげでとりあえず寝ずに本を読めるくらいには回復した。でも最初の状態に戻ることは果たしてできるのだろうか?最初の状態にも戻れないのに生きている意味はあるのだろうか。


覆水盆に返らずと言うが壊れた脳もなかなか元に戻らない。

急に過眠が出たぐらいの段階で精神科に行っていれば私はもっと楽しく勉強ができ、もっと面白く本が読めたのだろうか。

脳が壊れそうな兆候のある人は早くつべこべ言わずに精神科に行っておくすりを飲んでほしい。

なんかいつもこの結論ばっかりだな。