みがわりノート

記事タイトルの意味がわからない?二重引用符でくくってググってみてください。

ひとでのスープで 食事にしようね

やりたいことがわからない話。


「やりたいことがわからない」と言っても、別に自分探しとか、進路希望調査的な意味ではない。むしろ今まで、好きなことを好きなように勉強してきて、それとは全然関係ないけど好きな仕事に就いて、とやってきた。その経歴を履歴書のような形式で表にまとめて人に読んでもらうとすると、至極真面目真っ当なレールの上を走る人生(ただし途中で一回なかなかの鋭角にカーブしている)だと思われるかもしれない。しかし、中身のメンタリティとしては、良く言えば自由、悪く言えばふらふらしている、いわゆる夢追い人のような人種とそんなに差はない。たまたま真面目っぽいものが好きだっただけだ。プライベートだって、鬱がアレしてしばらくできなかったりもしたが、まあまあ趣味に生きてるタイプだし、そういう意味では好きな物事と興味のない物事はわりとはっきり自分でわかっていて、そして好きな物事に囲まれていないとたちまち死んでしまうような質だ。


ではどういう場面において「やりたいことがわからない」のかというと、それは他者との関係の中で自分がどうしたいかというのがまるでさっぱり見当がつかないことが頻繁にあるのである。

上に書いたような、進学や就職、あるいは趣味、好みといったものは、究極的には自分一人で決めて自分一人でその責任を引き受けるタイプのものだ。たとえば友達と一緒だからという理由だけで進学先を決めるようなことは普通推奨されない。入試の面接でそんな志望理由を語ったら落とされることだろう。そういう、一人で選択決定する方面のことなら、やりたいことはかなり明確で、むしろそういうのがわからない人の気持ちがわからない。少なくとも消去法で決めるくらいのことはできる。

しかし、他者が絡むと途端に何がしたいのかわからなくなる。どこへ遊びに行くか、どの店で食事するか、何を話題として話すのか、その人との関係をどうしていきたいのか、そういうようなことがさっぱりわからなくなる。


「わからない」と言うと、もっと自分に正直になっていいとか、勇気を出して本音をさらけ出してみようとか、そんなアドバイスを受けることがあるが、少なくとも私の場合においてはそれは的外れで、このわからなさは、もっとつるりとして何のとっかかりもないわからなさなのだ。「無」と言ってもいい。

普段の脳内というのは、例えるとごちゃごちゃしつつも色々な知識や経験や記憶やなんかがそれなりに整理されて突っ込まれている、一面に広がる無数の引き出し群だ。昔の薬屋さんのアレみたいなやつ。脳内多動がわりかしあるので、常にどこかで内容物がガタガタと暴れたり、何かがドロドロと蠢いたり、勝手に開いたり閉まったりしている。そんな引き出しを前に、開けて中身を見て考えてやっぱり違うと戻したり、あっちの中身とこっちの中身を見比べたり、思いつくまま床にお店を広げたりしていたはずが、「で、あなたはどうしたいの?」の一声で、ほとんどの場合、茫漠とした宇宙空間のような場所にいきなりテレポートさせられる。

静謐。見渡す限りの真空で、つまり思考の材料、ヒント、とっかかり、糸口となりうるものが何もない。一体私はどうしたいというのだろう。キョロキョロと辺りを見回すけれど、使い慣れた引き出しとその中身はどこにもない。「なんでもいいよ」と言われても、投げ返すべき物体がここには一つも落ちていない。便宜的に宇宙と呼んではいるけれど星も暗黒物質もない。

別の言い方をすれば、どう転んでも負ける手札を場に出せずにいつまでも躊躇しているのではない。いつもいつのまにか持っていたはずの手札を全て失くしてしまうのだ。出せるカードがなくてまごついている間に、大抵は別の人がそのゲームをかっさらっていってしまうので、そうしたら私は安心してその人に負けることができる。ひたすら自分の話を聞いてほしいとか、人をリードする方が好きだとか、そういったこちらに手札を出す機会すらなかなか与えないようなタイプの人とは、居心地良く安心して関わることができる。そういう人に構われるのは大好きだ。だって好き好んで宇宙空間に吹っ飛ばされているわけではないし、できればこの世界にとどまれるほうがいいもの。

私の「わからなさ」は、そういう意味でのわからなさだ。


「いや、日常の些事について優柔不断なのであって、進路のような大きな選択はできるというだけなのでは?」という風に思われるかもしれない。たしかに自分が優柔不断でないと言えば嘘になるが、一人で入るカフェや、ショッピングの行き先といったものは、まあ普通に常識的なレベルの検討時間で決められる。というか「こうしたい」というなんとなくの希望のようなものが自然と湧き上がってくるので、基本的にはそれに従って、あとは予算や立地などの条件を鑑みて現実的な行動に落とし込んで行くだけだ。

他の人は、他者との関係の中ででもこのように希望が湧き上がってくるものなのだろうか。それを開示したり、場合によってはしなかったりしながら、折衝しているものなのだろうか。驚くべきことだ。

希望湧き上がり機能が部分的に欠如しているらしい私は、いつも宇宙から自分以外の人のことをぼんやりと眺めている。たぶんそのときの自分の目玉はガラス玉のように虚ろなことだろう。中に何もないので。


どうしたら宇宙に吹っ飛ばずに済むんだろう。考えてはみるものの満足な答えが出たことはまだない。

本当にぶっちゃけたことを言うと、吹っ飛んでしまうこと前提で考えるなら、ただただ一人で過ごすか、ひたすら人に構われるかだけしているほうが、楽で楽しくて不安を感じなくていい。

でもそういう風に開き直りきれない自分もいて、この状態って何かよくないんじゃないか、何か欠けてるんじゃないかと自分を責めることもよくある。ただ改善の糸口は何もなくて、そこにはつるりとした虚無があるだけなのだった。


いわゆる受動型ASDの頭の中のリアルな動きというか、いつも感じている感覚って、こういうものなのではないだろうか。ADHD併発者だと引き出しガタガタのくだりも加えてわかってもらえそうな気がする。正式にクロの診断を受けたわけではないが、受動型の特徴にもADHDの特徴にもそれなりに当てはまりまくっている身としては、他の同じようなタイプの人に、こういう感覚があるか、共感できるかを聞いてみたい。