つらまりブログ

つらまったりもしたけれど、私は元気です。

注意を貼り付ける運命の女神

人の注意の貼り付く先は、かなりの割合生まれつき決まっていると思う。

例えば、数字にこだわるASDは少なくないらしい。
数字にこだわるタイプのひとがカレンダーの日付やレシートの合計金額をいちいち気に留め、古代の文化で言うところのキリ番のようになっていると覚えていて嬉しそうに報告してくるなんてことは今の仕事になってからは時々ある。そういうひとは記憶の中に最後まで留まるのが数字であるようだ。
しかし私は正反対で、昔からずっと数字が頭に入らなくて入らなくて難儀してきたほうだ。記憶から真っ先に蒸発していくし、量的なイメージもそんなにうまく掴めない。診断未満のLD傾向とも言えるかもしれない。
前の仕事では売上高とか予算とかを扱っていたが、正直何のイメージも持てていなかった。何度興味を向けようとしても、氷の球体のようにツルツルと滑り、そうこうしているうちに溶けてしまうのだった。

逆に、私は食べることに対して異様な執着がある。
人生で食欲を失ったことは片手で数えるほどしかない。風邪を引こうがメンタルを壊そうがご飯は平気でお腹いっぱい食べられた。なんならデザートに食後のコーヒーもつけられる。
明らかにそれ以外のコンディションがひどい状態であっても、ご飯が食べられるというその一点で「まだ大したことない」と人に思われることが多いが、違う。並の体調不良だと私の食への執着が勝ってしまうだけだ。身体は普通にめちゃくちゃしんどい。私がご飯を食べられなくなるときというのは、秒読みレベルで死が迫っているときなんだと思う。しかしそうすると、食欲を失った数少ない経験の一つである社会人なりたての頃っていうのはまあ実際死にかけてたんだろうな。
小さい頃はお昼寝していてもご飯の時間になるとぱちっと目を覚ます子供だったらしい。また、親戚の集まりなどではいつも大人並みの量を食べていた。これは周りの大人が「たくさん食べて偉い」とか言うから残しづらかったというのもあったが、それよりはとにかく何か「食べなきゃ」という欲求がすごかった。頭が貼り付き視線が固定される。
登山家がそこに山があるから登るのだと言うようなのに似てるかもしれない。そこに食べ物があるから食べるのだ。
もちろん今は立派なデブに育っている。

自分以外の発達障害系のひとびとを見ていると、むしろ食べ物に興味がない、興味が持てないタイプのひとのほうが多数派なようである。他にもっと興味のあることにかまけてご飯の時間を忘れていたとか、ご飯なんて食べなくても済むなら食べたくないとか。
そういうありさまを、最近改めて見回してみて思った。私の食への異様な執着って、他の多くの人たちとは逆に、生まれつきそこに注意が貼り付くようになってるだけなんじゃ…?
思えば、私は食べることは好きだが特段美食家というわけではない。むしろ舌は割とバカなほうで、そりゃ美味しいに越したことはないけれど、安い物でそこそこ満足できてしまう。ファストフード、ファミレス、惣菜、冷凍食品、それで十分だ。あまり欲に忠実に食べすぎると体を壊すので、栄養バランスや量はある程度考えるけれど。でも普通、グルメが趣味という場合、たまに食べるご馳走を生きがいにしているとかそういうイメージがある。
けれども私はそういうのではなくて、次のご飯やおやつの時間をただひたすら心待ちにしているだけだったりする。軽い糖質制限は少しできたことがあるが(食欲が少し落ち着いた)、食事制限は一日もできたことがない。一年で一番つらいのは健康診断で絶食しなければいけない日である。何も食べてないと気持ち悪くなるから、精神科の薬も飲めないし。
それに、そういえば、基本的にどんなときでもご飯のことは優先順位一位に割り込む。何かに過集中してる真っ最中とかでない限りは。例えば、自分が食べてもよい食べ物を見ると割とそれのことで頭がいっぱいになってしまう。社会的なルールやマナーを破ってまで食べることはさすがにないけれど、頭から締め出すのは不可能に近い。

冒頭の数字の話もそういうようなことで、ASDの中の多数派は貼り付くようになっていて、私は反対に滑り落ちるようになっているだけ、なのかもしれない。
そして、ここまで極端ではないにしても、自分が何に対して比較的興味を持ちがちで、何に対して比較的つまらなく感じがちなのかについては、やっぱり同じような感じで運命づけられていると思ったりする。
そういった隠しパラメータは、逃れようがないほど強力とまでは言えないけれど、抗いがたくはある大きな流れとなって、その人の人生を知らず知らずのうちに決定づけているのかもしれない。