つらまりブログ

つらまったりもしたけれど、私は元気です。

いまそれでも生きると決めたなら

こないだ、割とがっつり美容外科のお世話になった。

 

学生の頃からほんのりお世話にはなっていた。
たぶん数ある施術の中でも一番敷居が低いワキの脱毛にだけたまに通うような、ライトユーザー中のライトユーザーだった。
ワキだけとかそういう特定の部位に限れば、たいていどの美容外科でもお試し価格的な位置づけで格安で契約できるようになっている。たぶん。
だから、そんなにバイトをガチでやっていなかった私でも、全然普通に支払えた。
確か無制限コースで1万円もしなかったはずだ。というか5000円前後くらいだったような気がする。

 

私は別に、昔から毛深いことに悩んでました、みたいなタイプではない。まあそこは人並みかなあと思う。
むしろどっちかというと悩みの本体は処理の面倒さにあった。
成長スピードに関しては人より少し早いような気もする。夏場は特に毎日剃っておかないとみっともないことになる。2~3日スパンでも大丈夫な人が羨ましい。
毎日最低でも腕と脚と顔をどうにかしなければならないということは、ただでさえ高い私の入浴難易度をグイ~ンと引き上げていた。
加えて、達は不器用だ。私は手先なら割と器用なほうの達だが、ちょっと規模がデカくなると途端にえっていう位不器用になる。
アクセサリーは作れてもボールは投げられないし、図画工作は得意でも段ボールにガムテープが貼れない。
剃刀を自分の手足に滑らせることはどうやら後者に属するようで、毎回最低1か所は意図せず自傷行為をやってしまう。特に関節周りの立体的な部位は難しい。
だから、割と人生初期から脱毛に興味はあった。

 

もうどの媒体で見たのか忘れたけれど、「成人(入学だったかも)祝いに全身の脱毛をプレゼント」という話があった。
ある母親が自分の娘に贈ろうと思っているという話だったのか、ある娘が自分の母親から贈られたという話だったのか、
はたまた将来子供が大きくなったらそういうことをしてあげたいという話だったのか、その辺りは何も覚えていないのだけれど、
それを見て猛烈にいいなあと思ったことは覚えている。
うちの母親からは、たとえ逆さに向けて100万回振ったとしても、絶対にそういう種類のプレゼントは出てこない。
他の候補に負けて出てこないのではなく、そもそも俎上に載ることすらない。そんな感じがする。
誰もが持っているごくごく一般的なレベルの美の概念が、母親の頭からはまるっきり欠落しているのだった。

 

大学生になってしばらくしたある日、脱毛について少し調べてみた。すぐに、エステが行うものと病院が行うものとがあるのだとわかった。
病院は医療用として認められた機器を使うので、比較的少ない回数ではっきりと効果が出る。ちょっと痛い。医師や看護師がスタッフとして居て、万一の場合も診てもらえる。ただし、費用は割とものすごく高い。
エステはあくまでエステであって、医療行為にならない範囲でしか施術できないため、費用は比較的安いが、ずーっと生えてこない状態にはなかなか辿りつけないという。痛みは少なめ。
ざっくりいうとこんな感じっぽい。どちらもやはりメリットデメリットというところだろうか。
私はムダ毛の処理をもうしとうないんや!という強い気持ちがあるので迷わず医療脱毛を選んだが、
痛いのは無理とか、肌に負担をとにかくかけたくないとか、結婚式のときだけ安くでツルツルにしたいとか、そういう場合はエステのがもしかしたら合っているのかもしれない。知らんけど。
現状、病院もエステも両方世の中で生き残っているということは、どっちにもそれなりのよさとか需要とかがあるということなんだと思う。

 

もう少し調べてみると、冒頭にも書いたお試し価格システムを大抵の病院が採っているということがわかってきた。
それで、とりあえず最初は近所の個人経営みたいな皮膚科でワキと、あと腕もやってみることにした。
それで数万円ぐらいだっただろうか。大学生にはかなりつらい。
ベッドに寝た状態で目隠しをされ(毛を焼くレーザー光が目に入るとよくないので)施術スタート。機械がなんかバシュバシュ言ってる。照射!照射!
ワキは割と痛い。「耐えれる範囲の痛さとしては割と痛いほう」っていうくらいの痛さ。腕は大したことなかった気がする。
終わって数日でツルツルになった(タイムラグがある)。が、しばらくするとまた生えてきた。
人体の仕組み的にそういうものであるということは事前に調べて知っていたのだけど、実際に目の当たりにして悟った。あ、これ破産する。
そうして今度はもっと安い病院がないか調べることにした。

 

そのうち、「大手クリニックのほうがいろんな面で得」とか「自分に合ったコースを選ぶとよい」とかの情報にも辿りついた。
大手クリニックだといろんなところに支店があって通いやすかったり、脱毛で貯まったポイントを別の美容術に充てるようなこともできる。
コースはまあいろいろあるけれど、当然部位や施術回数を一回で多く契約するほど割安になる。1個で100円、3個で250円みたいなことだ。

 

結局私はいろいろ検討して、湘南美容外科に行った。
当初ネットで見つけた「ワキ脱毛が何回でいくら」みたいな有限回のコース(正確な値段は忘れたけど異様に安かった)をやるつもりで行ったのだけど、結局、もう少し課金して無制限にした。
押し売りみたいなことは全然なくて、あくまで選択肢の一つとして提示され、自分自身納得したので課金することにした。
腕や脚のムダ毛も早く死滅させたかったけど、さすがにそっちのコースはバイト戦士(ウォーリアー)にクラスチェンジしないと到底手が届きそうになかったので今回はパス。ちなみに6回コースで約20万ほどだったか。
私は死ぬほどビビりなのでリスクとかちゃんと聞いておきたいほうなのだけど、そういうことの説明もしっかりあったし、疑問があっても質問しやすい雰囲気。
あと、私は気にしないけど、プライバシーへの配慮も行き届いてて(名前じゃなくて番号で呼んでもらえる)、まあ…人によったらいろいろあるんだろうなという感じ。

 

実際の施術は、近所でやったときとほとんど変わらない内容だった。バシュバシュ言う。
でも施術室の雰囲気がもう少し清潔感があって居心地が良く個室的で、あとスタッフさんがみんなかわいくてやさしい。
ほんとに(病院ではなく)エステとしてやっている所とかだと、もっともっと雰囲気が良くてゴージャスな気分になれたりするのかもしれない。知らんけど。
スタッフさんはたぶん皆それなりに「いじって」いるのかもしれない。でもスタッフさんたちを見てたらそんなことはどうでもよくなってくる。実際かわいいんだからいいじゃん、という感じ。
まあ私は顔認識が下手なのか整形美人と天然美人の区別ができないんだけど…。だから気にならないだけなのかなあ。

 

それと、やっぱり自分で体験してみないと、説得力のある話ってできない。相談に乗るにしても、何か勧めるにしても。
私が今まで当たったことのあるスタッフさんは皆、なんというか心遣いに説得力があった。
ここでこういう配慮があったらうれしいだろうな~とか、こういうことされたら逆にいやだろうな~ということがみんなちゃんとわかっている。
やっぱり、みんな一通り互いを練習台とかにしてるのかもな、という下衆の勘繰りをしてしまう。

 

なんかすごい褒めちぎっているけど一銭ももらっていない。

 

そんな感じで今たしか合計5回?か6回?ほどやったところだ。
施術と施術の間は数か月~半年ほど空けるよう言われる。人体の仕組み上そうする必要があるらしい。
だから思い立ってからムダ毛を殲滅できるまでには年単位の時間がかかる。私は先延ばし癖のせいで年単位で期間を空けがちなのだが…。
これだけでもかなり日々の負担は減ったが、まだ完全勝利には至っていないため、無制限にしといてよかったーと思っている。

 

ただそれだけのライトユーザーだった。

 

ライトユーザーのところにもメルマガは来る。そりゃそうだ。むしろライトユーザーだからメルマガの送り甲斐があるってものだ。
元(?)醜形恐怖症でうっすらと整形に興味のあった私はたまにそのメルマガを読んでいた。
私の見た目上のコンプレックスといえば、1位:贅肉、2位:髪の癖、3位:一重、4位:毛穴、5位:丸爪、てな感じだ。
その中で美容外科がなんとかしてくれそうなものといえば1位3位4位あたりだろうか。2位の根治療法もそろそろ開発してほしいような気もするが…。何かこう頭皮の毛穴をどうにかする的な。
しかし私は脂肪吸引とか、二重形成の手術とか、切ったり身体に何か入れたりするタイプの施術はあまりやりたいと思っていなかった。
手術の傷跡が治るまでなかなかしんどそうとか、成長や老化に従って予期せぬ不自然な形状になるリスクがあるのではないかとか、そんな不安による。
自分のコンプレックスの重みと、その不安とあと金銭的な負担とを天秤にかけるといつも後者が勝つ。だから実行に移さなかった。

 

あるとき、興味深い施術がメルマガで紹介されていた。
なんでも、皮膚を切ることなしに、脂肪だけを選択的に破壊する「クールスカルプティング」という痩身術があるらしい。
脂肪吸引という施術を初めて見聞きしたときも大概都合の良いことを考えつく人がいるものだなと思ったが、この都合の良さはさらにその上を行く。
詳しく調べてみると、脂肪はその他の組織よりも融点が少しだけ高いのだという。その温度差を突く形で、痩せたい部分を冷やしてやる(専用の装置がある)と、その部分の脂肪だけが凍って死ぬ。
死んだ脂肪はその後数カ月かけてゆっくりと体外に排出される。そうやって減った脂肪の分だけ施術箇所が痩せるというわけだ。あったまいー!
ただし、これは非常にまともな部類の都合の良い話であるので、それなりの料金が取られる。
クリニックのサイトで見ただけでは計算方法がよくわからなかったが、まあだいたい数十万レベルのお金が必要になりそうだということはわかった。
さすがに高いな、どうしようかと思っているうちに、その思考はつるりと脳内からフェードアウトしていった。
先延ばしである。

 

その後色々あって、私はどうしても体を動かすことを好きになれないし、好きでないことには取り組めない人間なのだなあと悟った。
そしてふと、お金で努力したっていいじゃん、という思考が湧いた。労働の代償として得た金銭をつぎ込むことだって努力の一種だろう。
いや、努力せずに美を得ることが悪だと思っているわけではないが、ダイエットこそが王道で、医療の力を借りることは一種のチートだというようなイメージは正直あった。
でも、どちらもコストを払って自己実現を目指しているという点では何も変わらないのでは。そのコストの中身がちょっと違うだけだ。

 

じゃあさっさとやっちゃったほうがいいなということで、予約を取ってじっくり相談させてもらうことにした。
しかもついでだからと腕と脚の脱毛についても話を進めることにした。どうせ人生中のどこかの時点で殺そうと思っていたムダ毛である。これも早い方がいい。
予約を取るという行為がとにかく苦手なので、1回の予約にできる限りの用事を詰め込みたがるのはADHDの習性だ。
当日遅刻しませんようにと飲み始めたチロシンのサプリに祈りながら、予約の時間を手帳に書き込んだ。

 

(つづく)

幸せの体験版

ある日、本棚から古いゲームの体験版のCDが出てきた。

それは古いゲームでもあり、古いCDでもあった。

その体験版は体験版だから、ひとつのステージしか遊べなかった。でもそれはそれでなかなか面白かった。しばらくの間、ずっとそれで遊んでいた。小学生にはそれで十分だったし、何よりも、そのCDを見つけた時点でそのゲームの製品版はとっくの昔に廃盤になっていた。

クリアするたびに、本来はそこで製品版が買えたであろう404 not foundのページが飛び出てくるのを何も考えずに消し、閉じた世界を再び歩き回った。

 

いつしかそれで遊ぶことはなくなっていった。

CDはどこかに行ってしまったし、そもそもたぶん最近のOSでは動かないかもしれない。

インターネットはめざましい発展を遂げ、それと一緒に私は大人になり、今の彼氏とも出会った。

 

彼氏の発言は頻繁に私の気に障った。しかも、彼氏の趣味は私にはよくわからなかった。もちろん小春日和もしばしば訪れるけれど、それと同じくらいすれ違った。

 

単に人間的な相性が悪いのかもしれなかった。さっさと別れてしまえばいいのかもしれなかった。実際何度もそう考えた。

でもその度に、私の人生に取り返しのつかない破滅がもたらされるという予感がして、実行には移せなかった。

どうしてそんな気がするのか、さっぱりわからなかった。

 

私はしばしば自暴自棄にもなった。そんなとき破滅の予感は魅力的でさえあった。人間関係で自傷行為をするのは相手に悪いからやめなさいと演説をする自分もいたが、大多数の自分は暴徒と化し、火炎瓶でシャンパンタワーを作っていた。結局そういうとき私の本体はいつも泣いていた。

どうして涙が出てくるのか、よくわからなかった。

 

彼氏は私のことを真剣に考えてくれる。その意味で優しい。というかそれ以外にも優しさという言葉で語られるものなら大体全て持っていると思う。それをフルスロットルで私に向けてくれる。いつも。

 

私がそれをずっと駄々をこねて受取拒否していたのだった。

すれ違っていたのではなく、ほとんど一方的に私がかわし続けていた。

 

つい数日前、私は仕事で潰れた。

というか、そもそもの土台が脆かったために、ちょっと仕事が忙しくなっただけで潰れてしまったんだろう。

 

私はしんどかったのだと急に気づいた。

自分の半生はほとんどしんどさでできており、しなくてもいいような苦労で埋め尽くされていた。

 

自分がどっちかというと生きづらい方の人間だとは認識していた。でも、結局ずっと現実を直視できていなかったのだった。日々の異様な多幸感は全部思い込みだった。

 

その一方で、彼氏は一貫して本当のやさしさを向けてくれた。一緒にいるときに見える何かキラキラしたものが幸せというものなんだろうな。

今それに気づいたけれど、ずっと前から知っていたような気もする。

 

すべてが星座のように繋がっていった。

 

幸せは私にとって既知のものでなければならなかった。

いま初めて目にした輝きを幸せだと認めることは、とりもなおさず自分が幸せを知らない人間だと認めることになる。

ありあまる幸せなら一つくらい失っても平気なはずだ。

風刺画の男がどうだ明るくなったろうと笑っている。

 

百円札が全部燃やされる寸前に私は成金を殺すことができた。

 

彼氏がいくら優しいとはいっても、彼には彼のキャパシティがある。

彼も別にスーパーマンではないので、ライフワークと私の二者択一を迫られることになったとしたら、私を捨ててライフワークのほうを取るだろうと言っていた。

 

何もかもを犠牲にして私を取るということも、不可能ではないという。だけれど、彼は明確に意思を持ってその道を選ばない。

それはショックな話かもしれないけれど、それでこそこの人だという気がした。私はこの人のそういう面を魅力的に思っている。そして、そんな人の2番目に好きなものになれていることがうれしかった。

 

もしも私がもうまともには生きていける望みがないということになって、彼に捨てられる日が来るとしたら、私は毎日毎日、彼氏だった人が作ったものを、理解もできないのに日がな一日ニコニコと泣きながら眺めて過ごすのだろう。そうやって死ぬまで幸せの体験版で遊び続けると思う。何度も何度も何度も飽きずに、限られた数の閉じた思い出の世界を永遠に彷徨って、壊れて使えなくなったプレゼントすら捨てられなくて、どこかで生きているその人本体の幸せを一日一回は祈ったりもして、何回クリアしてもどこにもつながらない、そんな朽ち果てた体験版を、それでもいつまでもやめられなくて、死ぬまで大事に、抱きしめていると思う。

 

そして、それは絶対に嫌だ。

植物園で倒れ泣き崩れちゃっても


自己肯定するのがしんどい。


しかし自己肯定感が低いのもしんどい。そうかといって、そこで「自己肯定感」等のクエリでググったところで「自己肯定感を上げる方法5選」とかしか出てこない。あるいはキラキラカウンセラーのポジティブブログみたいなのが現れて、あまりのシャイニーさに目を潰されるのが関の山だ。ウワッと叫びながら画面を閉じるしかない。


自己を肯定するのは私にとってとてもつらい。自己肯定アレルギーと言ってもいい。自己を肯定しようとすると鳥肌が立ち蕁麻疹が出て動悸がしてくる。蕁麻疹はさすがに少し盛ったが、涙が出てしまうことなら実際よくある。張り裂けそうに胸が痛み息が苦しくなり、最悪の場合しばらく寝込む。

自分を雑に扱うほうが落ち着く、という表現をよく見かけるけれど、そんなマイルドなものではないような気がする。自己肯定に伴う苦痛が大きすぎて、そこから身を守ろうとした結果自分を雑に扱わざるをえなかった、というほうがより正確に事態を捉えているのではないか。自己肯定感低い勢ってだいたいみんなこんな感じなんじゃないのかなあと思ったけど、そうでもないのだろうか。他人のことはわからない。


というようなことをぐるぐる考えること幾星霜、ついにループを抜け出す回がやってきた。「一口に自己肯定といっても、いくつかの種類や系統に分けられるのではないか?」というアイデアが降ってきたのである。そしてそれらは例えば、①私がほとんど生まれつきできていたもの、②成長の過程である程度できるようになったもの、③できるときもあればまだぐらつくときもあるもの、そして④つらくてまだとてもできそうにないもの というようにレベル分けをすることができそうでもあった。

ゲームでいうところのスキルレベルのシステムが似ているかもしれない。キャラクター一人一人に設定されたレベルだけでなく、それぞれのキャラが持つスキルの一つ一つにも設定されたレベルがあり、同じレベルの同じキャラが同じスキルを使ったとしても、スキルレベルが違っていれば、もたらす効果の程度が違ってくるというようなものだ。育成の仕方(スキルポイントの振り分け方等)によって、いろいろなスキルをまんべんなく強くすることもできるだろうし、一つのスキルを集中的に早く成長させるのもありかもしれない。と喩えてみたけれど逆にわかりにくくなったかもしれない。

ともかくそんな感じのモデルを思いついたので、早速自分の自己肯定スキルを詳しく分析してみることにした。この解像度上昇にどの程度の意味があるのかはわからないが、もしかしたらそのうち何かいい対応策を思いつくヒントにならないとも限らない。たぶん。

なお項目は割と適当で、私が自分の中で何か関係ある気がすると感覚的に思ったことを拾って並べただけという感じだ。だから他の人から見たら、これ別に自己を肯定するのに関係ないのでは…とか、あれが抜けてる…とか、いや学術的に見てこれは違うのでは…とか言いたくなる内容もあるかもしれない。しかしこれは私が私のために勝手にやっている内面の整理なのでその辺はあえてふわっとさせている。ぶっちゃけ私の役に立てば何でもいいのだ。読者のみなさんは読者のみなさんで自分の役に立つようにアレンジして内面を分析したらいいと思う。もちろんする必要を感じない人はしなくていいと思う。みんな好きなように生きてほしい。



さて前置きが長くなったが、とりあえず前述の①〜④を枠として、そこに個々の項目を当てはめていってみようと思う。


①ほとんど生まれつきできていたもの

・今ある幸せを感じる

・自分の好きなものは好きだと認める、好みや趣味嗜好を肯定する


これだけはなぜか今までほとんど苦労したことがない。

今まで自分のことをただの自己肯定感スケキヨパーソンだと思っていたのに、いやたしかに平均値は頭から湖にめり込んでるかもしれないけれど、そうでもない得意分野のような部分があるということを今初めて知った…。しかも自分で挙げられるだけで2項目も。

振り返ってみるとたしかにこいつらだけは何かあってもぐらつくことがない。というか、昔から何なんだこの意味不明なハッピーはと不思議に思っていたがそれに今一つの答えが見つかったというか。なんせ私は双極の激鬱期(受診以前)とかも鬱は鬱なんだけど毎日ハッピーと思いながら暮らしていたので…。そのせいでまさか自分が鬱だとは思いもしなかった。病的な鬱感情とハッピーがひとつの脳の中に同居していて、そこには希死念慮さえ同居できるのだけど、なんというかハッピーは存在している次元?階層?がちょっと違うのだよな…。そんなんなので、例えば別に鬱ではない日に丸一日覚醒できなくてほとんど寝て過ごしたとしても今日はハッピーだったなあと思うし、早番から終電間際まで残業した日でも今日はハッピーだったなあと思う。なんかそれはそれで色々と麻痺してるんじゃないかというような気もするがまあまあまあ。

〈好きなものを好きだと認める〉というのもたぶん大丈夫だ。わりと趣味がおかしいらしいことになんとなく自覚はあるがそれでも好きなんだからいいだろと思っているし、反対に興味のないものに興味のない自分についても、確かに人の話についていけなくてよく困るけれども、まあそれも仕方ないかなと思っている。半分諦めていると言ってもいいかもしれない。自分のASD傾向(興味の幅が狭く世間の気になってるものがあまり気にならない)が分かってからはより一層そういう風に生まれついてしまったしなとの思いを深めている。

それと、うちの親は私の興味の向くもの向かないものについてどうこう言うことはなぜだかあまりなかった。一緒になって興味を持ってくれるということもなかったし、のめり込みすぎたパソコンは一時取り上げられたけれど。まあ勉強はとりあえずやっているしあとは自由にさせようというのがあったのかもしれない。進路選択についても高校に上がる段階では少し言われたが、それ以降は特に何も言われていない。後で聞いてみると「放っておいても勝手に探して決めるし、口出ししても一回決めたら頑固だし」といったような回答が得られた。放っておいても大丈夫だと思われているのは本当につらくかなしいことだが、まあ好きなものへのこだわりは周囲を黙らせるくらいもともと強いのかもしれない(ASDっぽい)。


話を戻すと、目玉を焼かれながら拾い読みしたシャイニングブログなんかには、たしかにしっかりした自己肯定感は滅多なことではぐらつかないとかそんなことが書いてあったような気がする。他の項目も、スキルレベルを上げていけばこの感覚に近いものがついてくるようになるのだろうか。

コマなし自転車に乗る練習の際、まずはペダルを漕がずに地面を蹴って、短い時間だけでも二輪だけでバランスをとって進む訓練から始めるといいと聞く。それと似たような感じで、まずは感覚を掴むという意味で既にできている部分を洗い出すのは有意義そうに見える。たぶん。そういうことにしとこう。


②成長の過程である程度できるようになったもの

・意識的に自分を甘やかす

・好きな格好をする

・好きな持ち物を持つ

・自分の生きる資格を認める


〈意識的に自分を甘やかす〉というのは、例えばあまり意味もなくプチ贅沢をしたり、いや意味のあるプチ贅沢でもいいのだけど(何かのご褒美のつもりで贅沢をする等)、とにかく何か自分のQOLが上がるようなことを積極的に行う、ぐらいの意味だ。生存に非必須であって、ただQOLを上昇させるためだけの行為。いい香りのものを買って部屋に置くとかがそれだ。いい香りを嗅がなくても別に死なないけれど、嗅いだら幸せじゃん?というその一点のみでお金を使うことを自分に許す。

この発想はかつての自分にはあまりなかった。家に(禁欲的というほどではないにせよ)享楽的な空気が少なくて、決して経済的なゆとりがないわけではないのに、生活の中に余白とでもいうべき部分があまりなかった。やるべきことと、やったほうがいいことと、やらないと死ぬくらいやりたいことしかやらない、とでもいうべきか。

どこかに連れて行ってくれるようなときも、親が行きたいとか、一緒になって楽しみ尽くすとかというよりは、私や弟のためになりそうだからというのが動機の第一であるというか。何も文化教育施設にしか連れて行かれなかったわけではないが、親の楽しみに付き合わされたような記憶はほとんどない。親というのはそういうものなのかもしれないし、逆に付き合わされた記憶しかないというのもひどい親だなあということになるのかもしれないが。まあとにかく、そのためにただただそういう発想を持ち合わせていなかった。

獲得したのはわりと最近で、成人していたのもあってかそれに対して親は特に何も言わない。それでも基本的には親の目を盗むように自己甘やかしをしてしまうし、調子が悪いとそれもできなくなったりする。できるときでも親の目の前でノンアルコール晩酌(仕事帰りにコンビニなどで好きなおつまみを買ってきて、それと一緒に炭酸水を飲む)などをするのは非常に居心地が悪いし、楽しみが半減する。


おそらくその元となっているのは、小さい頃に服装や持ち物について異常な感覚を植え付けられ、成長してそれに反する行動を取ろうとすると、(無理やりやめさせられるというほどではないが)よくない顔をされたことだろう。

異常な感覚というのは、かなり歪んだものから微妙な違和感にとどまるものまでさまざまだが、例を挙げると「物はいかにみすぼらしくなろうとも、壊れて修理不能になるまで(あるいは、摩耗・風化してこの世から消え去るまで)使うものだ」「高価なブランド物を持つのはバカのやることで、いかに持ち物にお金をかけないかが重要」「流行に乗るのはバカのやることで、著しく流行に遅れた服でも堂々と着ればおしゃれである、むしろその方がイケてるくらいだ」といったようなものだ。自分よりも物持ちのよくないその他大勢に対して、とにかく見下すような気持ちがにじみ出ていた。

この文章をもし親に読ませたとしたらそんなことは言っていないと言い張るかもしれないが、こちらが受け取ったメッセージとしてはこのくらいの内容だ。実際、車体が錆びきって端々が風化しかかり、漕ぐと異音もするような自転車に数十年乗り続けていたのを数年前やっと買い替えたぐらいだ(最近ようやく親の狂気が微妙に和らいだような気がしている)。

これらのメッセージに関して当時きつかったのは、直接的な親や自分のみすぼらしさよりも、うちの家は何かおかしいと折に触れて感じさせられたことだ。うっすらとしかし幾度となく。あの感覚は、同種の感覚を味わったことのある人にはわかることだと思うが、じわりじわりと染みていく遅効性の毒のようなものだ。

このおかしさは、度を越した倹約家や狂信的なエコロジストというのとも少し違っていた。もっとオリジナリティのあるオンリーワンの狂気というか。そういう層のような目的や思想が特にないからだろうか。

まあなんでもいいのだけど、そこからはなんとか脱出した。自分でなんとかしないとどうにもならない、と気づいて努力し、とりあえず常識的であってかつ自分の趣味を上手く取り入れ表現したような格好ができるようになった。いまだに張りぼてをまとっているような、あるいは第二言語で話しているかのような感覚はあるけれど、罪悪感は今はほとんどない。


ところで、服装や持ち物に関して最近取り掛かり始め、これからさらに進めていくべきは、もともと本当は好きだったものにかけていた封印を解いていくことだと思っている。普段着にしている地味な服装もちゃんと大好きなのだが、何を隠そう服だけで2〜3人殺せそうな攻撃力の高い服装もだ〜いすきなのである。なのでライブのときなんかは今後もバチバチにキメていく。


〈自分の生きる資格を認める〉は冗談抜きで服薬が全てを解決した。以上。いやマジで。私の希死念慮は半分は普通に双極だったんだろうなあと思う。残りの半分の話はまた後でするけど。とにかく真面目に何年か薬を飲み続けたら生きる資格がない系の死にたい発作が起こることはほぼなくなった。サラッと系とか書いたけどしにたみにもいくつか系統があるんだよ。服薬以前は複数系統がめちゃくちゃに絡まって団子になっていたのであまり自覚がなかったのだけど、今は薬で消せるやつは消えた、と思う。


①と②の間くらいの微妙な位置に、〈楽しいことをする〉という項目が置けるかもしれない。これはある程度は生まれつきできていたのだが、10代後半ぐらいに鬱で一回ほとんどできなくなり、その後徐々に回復して社会人になってから元以上にできるようになったという経緯を持つ。V字ならぬ√回復である。

いや、現実はもう少し複雑かもしれない。そこには、〈楽しそうなことをする〉が右肩上がりにできるようになっていっている、ということも含まれているからだ。やってみたことがなかったがやる機会を得たものや、今まで興味がなかったが興味を持ち始めたものなどについて、試しにやってみるということが以前は本当にできなかった。というよりは、やっぱりそういう発想が欠落していたという方が正しい。

さらにこれにはASD的な他人や世間への興味のなさや想像力のなさも一役買っていた。みんなやっていて楽しそうだから自分もやってみようという発想がそもそも持ちにくい。「みんな」がいくら楽しそうにその活動をしていても、「自分」が興味を持っていないかぎりは、その楽しさを生々しく想像することができないのだ。興味を持っていたとしても実は「みんな」の楽しい気持ちなんてこれっぽっちもわかっていなくて、ただ自分の興味に突き動かされているだけかもしれない。なんなら「みんな」は「自分」とは関係のない生き物だと思っていた。正しくは「自分」も「みんな」の一員なのだが…。

もう一つさらに、例えば、テレビで映画を観るのは面白かったが、じゃあ話題の映画を映画館に観に行ってみようかなというようなところまで話が繋がらないということもあった。時々、いやしばしば私はびっくりするほど頭の回転が鈍い。高校生になったくらいでようやくそこが繋がり、大学に入ってからしばらくしてやっとこさ映画館に行ったという思い出がある。「風立ちぬ」を観た。それにやっぱり話題の映画も映画館も、世の中にそういうものがあるということくらいはもちろん知っていたが、それは「みんな」が行くものであって、「自分」の人生とは関係ないと思っていた。北京で燃えるオーロラのように(「労働者M」)。

この「自分の人生と関係がない」感は、界隈で一時期話題になった「無意味オブジェクト」の概念とかなり似ている。日々通勤通学で通るような道でも、興味のないジャンルの店なんかは、頭の中で何もないのと同じように処理されてしまうというか。見えていないわけではないのだけれど、無意識に書き割りか張りぼてか何かのように見ている。この感覚をそっくりそのまま物事や活動に当てはめればいい。というかだいたい、そういう感覚は多かれ少なかれすべての人が持っているはずだ。世の中のあらゆる物事に全力の当事者意識を持っていてはとても正気では生きていられない。テレビのかなしいニュースを見て、大抵の人はおそらく胸を痛めつつもどこか他人事だと思っているのではないだろうか。たぶん。我々はそんな感じで無意味オブジェクトになってしまうものが平均より少し多いだけだ。


③できるときもあれば、まだぐらつくときもあるもの

・生きたいという欲を持つ

・自分を褒める、労る、頑張りを認める


少しずつ核心に近づいてきている。……だいぶ根本的なところがダメ。

〈生きたいという欲を持つ〉、ここのぐらつきがおそらく残り半分のしにたみの正体ですね。将来にわたって生き続けたい、生き残りたいという欲がめちゃくちゃ薄い。どんだけ生きがいのようなものを見つけても、いつ死んでも後悔しないという妙に強い気持ちが消えない。この妙に強い気持ちというのがあやしいのだということがだんだんわかってきた。

そして見え隠れするのが服薬によって鬱を抜けてからもなぜかぽつんと残った異様に根深い感じのする希死念慮。よくあるパターンとしては、割と気分的には調子がよくても、些細なきっかけで死にたくなってそのままずるずると鬱に移行する。まあこれも最近減った。よくあるパターン2としては、同じく気分的には調子がよく、かつ特にきっかけらしいきっかけがないのに死にたくなるというやつ。最近はこれが多い。ふっと思考に侵入してくるレベルのこともあれば、過集中してしまっているのか自殺しないでいるのに相当な努力を要するみたいなこともある。この欲求は純度100%のしにたみであって、別に苦痛を感じたいわけではないというかむしろひどい苦痛を感じるのは絶対嫌なので、結局それが唯一の安全装置として機能している。

繰り返すが気分的な落ち込みはない。憂鬱の極致としてのしにたみではなく、ただ貼り付けたように死の欲求だけがあるというか…。普通地続きであるはずの落ち込みは存在せず、つまり沈みきった瞬間のトランポリンのようにではなく、「冬眠」の詩のようにそこにある。

しかしこれはなんでなんだろう?あまり原因らしい原因は思い当たらない。よく街中とかでは語彙が貧困そうな大人が自分の子どもに向かって「いい加減にしなさい」等の代わりに「死ね」と言っているのを見かけたりするが、うちの親は別にああいう感じではない。強いて言うなら、私の面倒くさがり度合いが異常に高いことに対して「それだったらもう棺桶に入っておけば?」と言って非難するというのがお決まりになってはいたが、そのフレーズが開発された頃にはすでに私のしにたみは確立されていたのであまり関係ないと思う。もっと前のことなのだろうか?ポクポクしてみるがチ-ンとならない。今後の課題だ。


〈頑張りを認める〉というのもわりとダメだ。頑張りを認めようとするとウワ-と叫んで心のらくがき帳をビリ-ックシャクシャポイとやりたくなることが少なくない。日々わりと真面目っぽく生きているほうだけど、できていることといえば頑張ったなあと思わないで済むようなことばかりというか、やりたいこととやらないと破滅することぐらいしかやっていない。過集中で押し切るか圧に押されて仕方なくやるかのどっちかしかしていないというか。そんなんだから仕事しても仕事した気しないし、通しで残業しても残業した気がしないんだよね。私の心はニートそのもの。


④つらくてまだとてもできそうにないもの

・幸せになりたいと思う

・自分から幸せを掴むために行動する

・将来の前向きな目標を具体的に設定する

・自分のために努力する、投資する

・自分のことをかわいいと思う

・自分の価値を認める

・自分を大切に扱う

・大事に思ってくれている人がいると認める

・人の褒め言葉を素直に受け取る


なんというか、多い。そしてやっぱりいろいろと根本的なところがダメ。そこダメなんや…および、そこダメでよく今まで生きてこれたな?っていうところだらけだ。そして、どれも同じ感触がする。すなわち、通常あるはずの欲・意欲が希薄で、無理に求めようとしたときに希死念慮引き起こし級の異常に強い拒否感がする。


例えば〈幸せになりたいと思う〉というのが実はできない。よく「幸せになりたくない人なんているもんか」ぐらいの調子で語られることがあるが、今の私は反例である。幸せの定義にもよるが、だいたい尽く思えない。

「みんなが羨むような幸せ」には当然(当然?)興味がない。いわゆるキラキラした生活というか。そんなものはこっちから願い下げである。次点(?)の「世間一般の価値観は気にせずに、自分にとっての幸せを追求する」というのすら、実はいまいちしっくりこない。少なくとも今までは常に現状が幸せで満たされていたわけだけれども、そこからずり落ちていくことへの恐怖だとか、なんとしてもこの幸せを守らなければみたいなものがなんだか薄い。どこかへ押し流される自分に気付いても「そっかあ」とただすべてを諦めてぼんやりと見送ることしかしなさそうだというか。

いや、まあこれは単に平和ボケしているだけなのかもしれない。危機感や切迫感がないというか。そう言われるとぐうの音も出ない。

けれども今ある幸せが身の丈オーバーである感覚はとてもある。運命のうっかりで今は私の手の中にあるが、それはいわば脱税で得たお金のようなもので、いつ追徴課税されても文句は言えない。私は本来の所有者ではない。そんな感覚。

だから〈自分から幸せを掴むために行動する〉などということは到底できない。今すでに身に余っているものをどうして追加で掴みにいかなければいけないのだろう。間に合ってます。


……ここまで書いて私の頭はエンストしてしまった。人と比べてもすぐエンストしてしまう頭ではあるが(ワーメモなし)、今回はワーメモ絡みではなく壮大な伏線のようなものに気がついてしまったのが原因だ。つまり、①で喜び勇んで書いた現状肯定能力、あれを果たして現状肯定“能力”と言ってよかったのだろうか?という話だ。あれは能力などではなく不健全さの結果であって、病的にひたすら現状肯定してしまっているのではないか?しかしかつてのように1秒間に24回自己否定を繰り返すような状態が健全であるともまた思えない。現状を適度に肯定しつつ、程良い向上心も持つのが健全なあり方であるように想像する。向上心の中にはおそらく病的でない適量の自己否定が含まれているはずだ。でなければ今の自分を変えようと思うモチベーションが発生しえない。

そういえば、かつて(服薬以前)の私は物事を頑張ることができた(少し前にも書いたが、今の私は頑張った気がしないようなことにしか基本的には取り組めない)。たしかに面白さもそれなりに感じていたし、それがなかったら頑張れなかったとは思うが、高校と大学の受験勉強には正直かなり努力分が含まれていた。高校生の頃、ダイエットをしようと思ってしばらく筋トレを続けたこともある。当時は(それが適切な目標だったかどうかは置いておいて)「体重をいくらいくらにまで落とそう」などと〈将来の前向きな目標を具体的に設定する〉ことができた。ただ、いずれも非常に強迫的な自己否定に突き動かされる形での努力であって、努力は努力でも健全な努力ではなかったように思う。全身全霊で行う自己否定はロケットエンジンのようなもので、すさまじい推進力が得られる一方で、自己を燃やし尽くしてしまったらそこでおしまいで、あとは海へと落ちていくだけだ。それを思うと、「昔はできた努力が今はできなくなった」というよりは「未だかつて正しく努力できた試しがない」のかもしれない。燃やせるだけの自己はたしかに服薬によってだいぶ戻ってきたけれど、これをまた燃やして推進力に変える方向に持っていくと以前にもまして精神はズタボロになるであろう。服薬以後、ようやく私は無理をしないことを覚えた。いや、無理に対して過敏になっているために、適切な努力ができないのだろうか。無理をしすぎた反動で、一切の努力っぽいことができなくなっているのだろうか。一度切れてしまった糸はもうつながらないのか。それとも、振り子のように揺れながらいつかはちょうどいいバランスで止まってくれるもので、今は道半ばなのだろうか。答えは出ない。のでとりあえず置いておく。


続いての〈自分のために努力する、投資する〉で思い出すのは2つのトピックだ。自己啓発書と、先程も少し話題に挙げたダイエットである。

私は小さい頃から自己啓発の匂いのする本やブログを大の苦手としている。軽蔑している、と言ってもいいかもしれない。そんな偉そうなことを言える人間でもないのだけれど。でもとにかく、硬派でしっかりしているっぽい本もふわふわした有象無象の本も共通して持っている(と私からは見える)、あの自己啓発書特有のなんだかポジティブでキラキラした、意識の高そうな、幸せを追い求めようとする雰囲気が気持ち悪くて仕方がない。見ていて怖気が走る。お前は人から教えてもらわなければ幸せにすらなれないのか。そう叫びたいような衝動にかられる。頑なに啓蒙されたくないと思う。ここにも妙に強い気持ち、異常に強い拒否感がある。いわゆる愛と憎しみと無関心でいうところの憎しみに近いようなものなのだろうか?

でも私はもうひとつ、疑似科学やそれを利用した詐欺まがいの商売にも同じような気持ち悪さや拒否感を持っている。これはさすがに今回分析している問題に関係ないような気がする。単に好き嫌いとしてめっちゃ嫌いというだけでここまで強い感情を抱くものなのだろうか。まあでもこれにはASD気質も絡んでいるだろうか。それっぽいことを言って他人を騙す人間、そしてそれっぽいことのぽさにやられて騙されてしまう人間、どちらも直感的な理解不能度が高すぎて、虫か何かのように見えるのだ。自分だっていつ後者に含まれてしまうかわからないのに。前者たろうとする悪意はないにしても。

そういうそれっぽさと自己啓発書の雰囲気とは、分野にもよるがそれなりに近いところがある気がする。自己啓発書は人の背中を押すというか、前向きなよい気分にするために書かれたものである(と私は理解している)。一方それっぽいやつは事実無根(あるいは根があったとしてもひょろひょろ)のものをうまいこと「いい感じ」に飾り立てて虚像を作り上げている。多くの人にとっての「いい感じ」はやはり前向きさであったり、安全安心であったり、(時には超越的な存在から与えられるような)自信や使命感であったり、とにかく何かしらポジティブな雰囲気をまとったものであるはずだ。


……ポジティブ。そういえば私は普通にもともとかなり強いポジティブアレルギーだった。それが通常の個性の範疇なのか、何らかの問題の症状であるのかはわからない。ただこれが自己啓発書嫌いだったり、妙な疑似科学の匂いに敏感だったりするのに関係しているのは確かだろう。

しかしなんでポジティブな物がここまで苦手なんだろうな。パッと思いつくのは、考えることを放棄しているような、すごく無責任なような、そんな印象を今のところ持っているからかもしれない。

明日は明日の風が吹くなどと言って考えることをやめてしまうのは私にとって死を意味する。たとえ同じことやつらいことをぐるぐる考えるのであっても、考えを中止して頭の中がつまらない空洞になってしまうよりはマシだ。常に連想の絶えざる奔流の中を泳いでいなければ死んでしまう回遊魚人間なのだ。そしてぐるぐる考えるうちに螺旋のように少しずつ進んできたようなそんな感覚がある。私はどうやら頭の中を暇にされてしまうのを極度に恐れているようだった。極度に合理的に考えれば、うだうだとした暗い考え事はスパッとやめてしまって、空いた頭でもっと生産的なことを考えればいいのかもしれない。しかし私の興味は今そっちに向いていない。私はほとんどカロリーがなかろうとも今ガムを噛みたいのだ。私の歯からガムを無理やりはがすのをやめろ。うーん発達障害

しかし無責任というのはなんだろう。本とかブログとか、人の気軽な発言とかに対してそう思うことが多いような気がする。真に私のことをよく知る人間が熟考の末下した判断ならまだしも、よく知らない人からの励ましや応援というのは、気持ちは嬉しいながらも、なんだか襟首を掴んでブンブンにシェイクしながら「お前は本当にできると思っているのか?そんな公算があるのか?」と問いただしたいような反発心が呼び起こされる。現実には曖昧な笑顔で流すことしかできないけれど、内心では適当なことを言うなとつい思ってしまう。つまりこれは私は自分の能力を他人から受ける期待の程度よりも低く見積もっていて(いや実際低いと思うし、期待は社交辞令で嵩増しされていたりするのだろうけど)、そこのところのズレが苦しみの根源なのではないか。その証拠に、私は他の人に温かい前向きな言葉をかけることについては別に平気だ。ポジティブが自分の身に降りかかってくる場合に限り全身が痒くなるのだ。


ものすごく脇道に逸れたが、とにかく私は相手の言ってくることと、自分の世界認識とがズレているのが我慢できないようだ。それが疑似科学アレルギーやテキトーな励まし嫌いに表れている。人から物を教わったり、自分の間違いを指摘されるのは大丈夫だ。論理的な説明を受け、認識を改めるべきは明らかに自分のほうだと納得できた場合は、むしろ人より素直なぐらいなんじゃないかと思う。しかし自己啓発書の著者は私のことなど1mmも知らない。そんな人に普遍法則かのように励まされたとて襟首ブン回しの刑だ。


励ましタイプの自己啓発がつらいのはまあそんな感じだからとして、では、意識高い系というかビジネス書の類が燃やしたくなるほど苦手なのはなぜだろう。そっちの説明がつかない。ビジネス書はどこの書店に行ってもたいていコーナーがあるものだが、あの空間の向上心濃度の高さにいつも気分が悪くなる。仕事とは。上司とは。部下とは。リーダーとは。営業。企画。転職。起業。ベンチャー。マネジメント。スキルアップ。無駄を省け。生産性を上げよ。よりよい人材になれ。

私は別にそこまでの仕事嫌いではない。もちろん突然億単位のお金が手に入ったりしたらすぐに仕事を辞めて二度と就職しないだろうというくらいには仕事好きではないが。まだぴよぴよひよこちゃんだけど、業務は自分なりに真面目に一生懸命やっているし、お客様や会社全体のために何ができるんだろうな〜なんてことも少しは考えているつもりだ。向上心が全くないわけではないのだ。

でもビジネス書のあれはなんというか濃すぎる。今日のおやつはクッキーじゃなくてコンソメスープがいいなあと思っていたら海水をなみなみとたたえたマグカップを出されたようなそんな気分。濃いし、なんか違うのだ。方向性が。私は確かにしょっぱい液体がほしいとは言った。しかしそこにはコンソメの香りと玉ねぎの甘味がついていてほしいのだ。磯の香りなんていらない。とか書いているものの当然のように読まず嫌いなので違っていたら申し訳ないのだが、ビジネス書界隈、もしかして、勝利とか出世とか成功とか財産とかいったものを自分にもたらすために、その手段としてのみ仕事を捉えてないか。少なくともそういう空気を出しているものが外から見ていてかなり多いように見える。そしてその雰囲気は、点数が、単位が、評価が取れればそれでいいという、周囲にそれなりにいた要領の良い人達の言動とオーバーラップする。

私はどちらかというと知識を愛しているほうだと思う。テストで点数を取れたのはその結果であって、テストで点数を取ろうとしてテストで点数を取るのは、全くの無意味とまでは言わないが、最終目標がそこにあるのはなんか違う気がするのだ。試験とか資格取得というものは、少なくとも一応の建前としては、それを通して知識なり技術なりを身につけるためにあるはずだ。まあ、自分の進路選択のためにどうしても点数をとり単位を揃えてある資格を得なければいけないのだ、すべてはその手段だという考え方もあるにはあるだろうけど、それでもなぜその道にはそういう要件が課されているのかという点を考慮してほしいなあと思ってしまう。ともかくこのあたりの考え方が合わない人たちとは私は仲良くできそうにない。

横道に逸れまくっているが、ついでなので逸れきってしまうと、物事を徹底的に手段とみなしたり、効率よければ全てよしとするようなタイプの人が私はすごく苦手なんだと思う。それが世の中の多数派であり、成功者の中の多数派であったとしても。私は趣味として何かを創作したり、学生のときは他の多くの学生と同様に英語を勉強したり、社会人になってからはやはり他の多くの社会人同様に会社勤めをしたりしているが、「創作を通して自己を表現する」「英語を使って何かをする」「お金を稼ぐために仕事をする」という感覚がめちゃくちゃ薄い。そういう発想がなかった。むしろ、「創作するその過程がただただ楽しいから創作に走ってしまう」「英語の仕組みや語構成がおもしろいので気が済むまで参考書を読む」「日々の業務がわりと楽しいことばっかりなので仕事が続けられる」という感覚が強いのだけど、どうもこっちの方が少数派らしい。それそのものが目的となってしまうタイプの人間。別に、こっちの方が物事を極められるかというとそうでもないとは思う(現に私はどこかで頭角を現すほどえらくなってはいない)。効率も悪そうだし、興味だけで動いているのでうっかりすると重箱の隅みたいなところにハマりこんで本人だけが楽しいというようなことにもなりかねない(私が最近ハマっている筋少小物シリーズなんかまさにそれでは…?)(推しイメージのアクセサリー、オタクならみんな作るよね?それの楽曲版だよ…)。役に立たない知識を頭に叩き込むようなことをして何の意味があるのかとさかしら顔の大人や勉強嫌いの子供は言うが、私が思うに、特に意味はないけど楽しいんだよ…。それじゃダメかな(ダメっぽい)。いろんな物事そのものの持つ本質的な楽しさみたいなものを、たくさんあるいは深く知れたとしたら、それだけでその人生はよいものだったと言えるんじゃないかなと私は思っている。まあ長々と書いたけど、要はビジネス書の世界観が私の人生観と合っておらず、自らつまらない方向に人生を進めようとするように見えてしまう、ということなのかもしれない。

ところで、私は運動が大っ嫌いだ。スポーツを観戦するのも、チーム競技で汗を流すのも、一人でやる筋トレも、お洒落なヨガ教室も、どれにも出来る限り触れたくないと思っている。普通に超弩級の運動音痴であることに加え、身体を動かすことそれ自体の楽しさが私にはわからない。なんなら肉体を所有して常に重力がかかっていること自体に苦痛を感じているくらいなのに…。椅子に座ってこれを書いている今も過集中しすぎているせいか世界がありえないほど傾いて感じられて困っている。観戦の楽しさや見所もわからない。たぶん自分が少しでもやってみたことがあればもう少しわかるのかもしれないけれど、そんな経験はない。それにすごい人ってすごいことをすごくないみたいにやっちゃうし…。オリンピックも毎回、世間の熱中を尻目に見向きもしない。もう少し世間の熱中に影響を受ける身体であったらよかったのだけれど。とにかく世の中でこんなにたくさんの人々が熱中している身体を思い通りに動かすという営みが全く理解できないというのは、ぶっちゃけ人生の何割かを損してるんだろうなとほんのり思う。しかし私にとっては苦痛のほうが大きいので、あえて楽しさを探求しようとも思えない。これが才能がゼロということなんだろうと思う。


そして、目的人間なので、手段としての運動すなわちダイエットもできた試しがない。はいようやく元の話に戻ってきました。

こんな私でも実は拷問のような苦痛に耐えながら最長数ヶ月程度だけ筋トレを続けたことがあるのだけど、やり方が悪かったのか、苦痛のわりになんの効果も出なくて、何が筋肉は裏切らないだ、こちとら無に裏切られたわ(筋肉がついていないので無)というひどい傷つき体験をしたことがある。

食事制限もやったことがあるがストレスがすごかったというか半分拒食症というところまでいった割に全く痩せなかった。そもそも私の食い意地の張り方はかなり異常なレベルだと思うのでもう一回やろうとしたら半日で挫折するのが目に見えている。普通の食欲じゃない食欲が働いている感じがするのだが。コンサータで消えてくれると思ったのに全然消えてくれなかった。


そんな負の成功体験を積み重ねてきたわけだけど、それをどけたとしても元々楽しいとは思えないカテゴリーの行為だし、なおかつ身体を思い通りに動かすことが普通にめちゃくちゃ下手なので、誰でもできるあなたもできるという触れ込みの記事や動画を見る気はとうの昔になくしてしまったし、見たとてたぶん私が正しくできるようになるには説明が足りないものばかりのような気がする。なんかどんどん自己肯定感関係ない話に突き進んでいっていることは私もわかっている。ここまでは確かに自己肯定感とは関係のない特性とか失敗経験による努力のできなさだった。

ところで、食事も運動もどうにもできそうもない、という人間が次に検討するのはふつう、金にものを言わせて美容整形の範疇に属するいろんな痩身術を受けてしまおうかということだと思う。最近はいろんな手法ができてきているという。値段も数十万円とかで、まあどう頑張っても手が届かないというほどのものではなさそうだ。それでも私が踏み出す気になれないのは、金額の大きさやリスクのこともあるけれど、やはり「痩せてしまっていいのか?」という無視できないそこそこの音量で響いてくる心の声だ。自分のことはわりと太っていると思うけど、別にそんなに痩せたくない。自分なんかが痩せてしまっていいものだろうか。痩せるなどということは君の人生とは関係のないことだよ。そんな気持ちがある。

中でも「痩せてかわいくなる」みたいな文言を見聞きすると私の心はウワ-と叫んで裸足で逃げ出してしまう。おそらくそれは、かつてなかなかの醜形恐怖であって、それをなんかちょっと変な形で克服した後遺症のようなものなんだと思う。

中高生くらいの頃、私は自分の容姿がよくわからなくなって発狂しそうになっていた。鏡に映る自分はまあ平凡な普通の顔をしている。偏差値45ぐらいかな。しかし写真に映る自分があまりにも醜い。どっちが本当なんだろう。わけがわからなくなって、狂ったように何時間もかけて角度を少しずつ変えながら大量に自撮りしたり、合わせ鏡を駆使して反転しない像で自分を見てみたり、していた。わりと狂気の域だと思う。そのうち鏡に映る自分もなんか崩壊してきたというか、今まで鏡を見るたびに感じてきた偏差値45感が曖昧になってしまい、日によって20だったり反対に60ぐらいあるような気がしたりと自己評価がぐちゃぐちゃになっていった。

それを、私は美を諦めることによってひとまず克服した。自分の醜さに慣れたというか、醜いことを思い悩むのをやめ諦めて受け入れたのだ。人にはいろんな才能の差があるが、私はたまたま容姿に恵まれなかっただけ。それがどうしたのか。たしかに美人は得をするかもしれない。しかし得をできるだろうからといって、自分が金持ちの家系に生まれつかなかったことを悔やみ、どうしたら今からでも金持ちに生まれつけるだろうかと悩むことはバカバカしいではないか。金持ちでない家に生まれついた我々は、努力して財産を築き上げるか、それができないなら平凡に一生を終えるか、どちらかしかできない。存在しない親の遺産について、あったらいいのになあと考え続けるのは時間の無駄だ。美人にもし生まれついていたら得られていたであろう得など、取らぬ狸の皮算用も甚だしい。やっぱりこれも、私の人生には関係ない。それだけのことだ。そういう風に考えられるようになってやっと、発狂しそうな感じから逃れることができた。そんな経緯があるから、私は未だに〈自分のことをかわいいと思う〉ことができない。元が不美人なのだからどれだけ取り繕ったとしてもせいぜい人造美人だというか。先程の財産の例えで言うならば、どれだけ努力しても成金にしかなれず、何世代にもわたって上流階級にいるような人々そのものに自分がなれるわけではないのだ。

ではなぜ成金のような人造美人を目指さないのかの言い訳をしておくと、美容の方面に関する才能が私にはこれっぽっちもないからだ。服とか身につけるものはまだいける。前にも書いたけれどそれなりに努力してそれなりのセンスが身についたと思う。しかし髪型とか化粧とかの方面はてんでダメなのである。これはTwitterでこの前少しつぶやいた話だが、「綺麗な一つ結びのやりかた」みたいなタイトルの記事があり中を見てみると、ただくくっただけで華やかさに欠けるという悪い例の写真が、私がまず辿り着きたいと思うようなものであった。美容系の情報というのは正直こういうものが多い気がする。手順1に至るための手順を、なぜか誰も教えてくれない。ただくくっただけでそれほどの差が出るのであれば、やはり私は写真の中のモデルさんと違って、碌でもない髪質か、碌でもない不器用か、あるいはその両方かに生まれついているのではとの思いを禁じ得ない。「サルでもわかる算数」というような参考書を読んでわからなかった子供が俺はサル以下かとふてくされてしまうような、そんな気持ちだ。化粧品も、コンシーラーやビューラーやマスカラやパウダーに関しては、使って見た目がよくなったことがない。というか使ったほうが汚い顔になる。多分使い方が悪いのだろうけど、ググった通りの使い方をしてもやっぱりダメなので今はもう使うことを諦めている。そんなに私の顔立ちや肌質って異常値なのだろうか。いろんな美容記事に、間接的に否定され続けて私はすっかり疲れてしまったのだ。だから、不断の「かわいくなる努力」なんていうものはもうしたくない。気になったときに気になったものを試してみることしかやりたくない。言い訳終わり。


さっきまでの話と、〈自分の価値を認める〉〈自分を大切に扱う〉とかができない件とは少し被っている。時間をかけて「自分ブスだけどまあいっか」となったのと同じように、「自分には価値がない、どうしよう、死のう」だったのが、徐々に「自分価値ないけどまあいっか」になってきているのだ。昔、「筋トレは人をポジティブにする。続けた結果、『死にたい…』が『よし!死ぬぞ!』になった」というような内容のツイートがあったが、それと似たような心境の変化だ。筋トレしたわけじゃないけど。

これがいい方向に向かいつつある過程なのか、はたまた変な袋小路に入ってしまっている状態なのかはよくわからない。「ありのままの自分を認めよ」とはよく言われるけれど、それってこういうこととは違うのだろうか。「かけがえのない存在」というような言葉も、他人には自然に適用できるように思うけれど、自分に当てはめようとすると全身にブツブツができて息絶えてしまう。「自分を大切にできない人は他人を大切にできない」というのは本当だろうか。


自分は他人と違って存在として「薄い」。そんな感覚がある。いやまあもともと目立つほうではないのだけどそういう意味ではなくて、ほら、自分だけ一人称視点だし。他の人は目や後頭部が見えるけど、自分の目や後頭部は直接視認できないし。他人は視覚的に確認できるけど、自分の存在は主に身体感覚でしか捉えられない。そして私は身体感覚が超苦手。自分とそれ以外との感覚的な差の源って、私の場合案外こういうところにあるんじゃないのかと思う。根拠はないが。

ないけど、もしそうなら、小さい頃から「私はいてもいなくても変わらないのではないか?」という感覚がなくならないことも説明がつく気がする。大抵の人は、たとえ突然いなくなっても、周りに惜しまれはしても世界全体としては問題なく回り続ける。けれど多分大抵の人はあまりそういう感覚で生きてはいないのではないか。知らんけど。でもそこの分かれ目が、本当に「主観的にどう感じているか」によるところが大きかったとしたら。感覚的にいるんだかいないんだかよくわからない(これは本当にそうで、寝起きの疲労状態とかはマジ物理的存在…という感じがする一方で、過集中に入ったりすると身体は溶けてしまって意識だけがそこにあるような感じがする、それを日々行ったり来たりして生きている)というのが、いてもいなくても変わらないはずという信念に進化するのはすごく容易いことなのではないか。


〈大事に思ってくれている人がいると認める〉ことができないのにも、それだけではないにしても、それが影響しているんだろう。自分は希薄な靄のよう。他人は確固たる存在。私はいくらでも他人を大事に思えるが、他人から大事に思われるのは感覚的になんだかしっくりこないところがあるのだ。

加えてやっぱり私は人の気持ちがいまいち感覚的にはわからない(ASDっぽい)。いくら言葉をかけられても、態度に表されても、その言葉や態度をとりあえず受け取ることしかできず、それらの背後にある好意を感知して受け取ることがいまひとつできていない。


受け取れないといえば、〈人の褒め言葉を素直に受け取る〉というのも結構厳しい。褒められたり認められたりすることに対して妙な反発心を抱いてしまう。

気づいたときにあまりにもびっくりしたので、これも前にTwitterで呟いた話だが、私が異常なまでに、蛇蝎の如く、ナンパを嫌っているのもおそらくこれが関係している。

ナンパというのは、通りすがりの人にある種の人間認定を受ける出来事にほかならない。なんのこっちゃと思われるかもしれないが私は大真面目だ。もちろん一般的な意味で対等な人間扱いではない可能性は高いが、最低でも行きずりの相手にしてもいい程度には同種とみなされている。後半の側面に着目するとナンパは肯定テロ行為であるともいえるだろう。

しかし私の内心の奥深く、無意識との境目のあたりにはどうやら「私は人間じゃない」と刻み込まれているようで、街を歩いていて突然お前を人間のメスと認める!と突きつけられると違う違う違う違う!となってしまうのだった。

もちろん普通に鬱陶しいとか、気持ち悪いとかそういう嫌さもあるのだが、そういう普通の感情を、耳をつんざくサイレンのようにデカい「何もわかってないくせに知ったような口をきくな」という気持ちが塗りつぶしていく。「自分を違うものとして扱われたこと」への拒絶反応。

……いやどんだけ自己肯定感低いねん。大草原を通り越して熱帯雨林の豊かな自然と生命の神秘。しかしまあこれでようやく全項目を一通りは掘り下げ終わった。長かった。2万字に迫る長さになってしまった。


実は、上に書いたのは2020年4月ごろの話で、そこから1ヶ月ほど公開せず寝かせてあった。最後ちょうどいいまとめ方が思いつかなかったのもあるが、何より状況が結構変わってしまったのが大きい。わりとこれを書いている最中は精神が不安定だったのだが、書き切ってしまうとそれなりにやっていくぞという気持ちに(今のところは、かもしれないが)なれている。

ちゃんと一人暮らしもしたいし、できれば幸せになりたいなあと思うし、少しずつ運動もしてみようかなあとかも思っている。苦手な部屋の片付けも頑張っている。などと自分を認めることも、ちょっとできる。何か鬱をやってからずっとダメだった本を読みそして没頭することもできそうな感じがしている。もしかしたらこの文章の錬成にセルフカウンセリング的な効果があったのかもしれない。

過量のポジティブに触れてしまうとやっぱりしばらくつらくなってしまうけれど(闇の眷属)、自分に無理のない範囲で、時々後ろも向きつつ、概ね前向きぐらいでやっていければいいと思う。

そのすぐ横のとこ

私はわりと何されても怒らないほうだと自分で思う。基本的に、情状を酌量したり、自分も悪かったよなあと思ったり、ただ悲しくなったり、単に理解できない不思議だなあと思ったり、する。とにかく、怒りという形を取ることは滅多にない。

人についても同じような感じで、好きな人、興味のない人、苦手な人というのはそれぞれそれなりの数いるものだが、嫌いな人というのは滅多にいない。


ただし唯一の例外がある。それは、道ですれ違った程度の接点しかない、見ず知らずの人に遊びの目的で声をかけられるアレ、つまり「ナンパ」だ。

ナンパという行為、ナンパ師という人種、ていうかもうナンパっていう概念そのものが、何故だかわからないけど私は嫌いでしょうがない。生理的に無理というやつだ。この世のありとあらゆる存在の中で、Gのつく黒い害虫の王を2位に抑えて燦然とワースト1に輝いている。


たとえ声をかけられるまでどんなにご機嫌ハイテンションでいたとしても、ひとたび声をかけられると、そしてそれが純粋に道を聞きたいとかではなくむしろ不純100%だということがわかったりすると、途端にテンションは奈落の底まで垂直落下、堪忍袋は緒と言わず袋全体が1cm角にブチブチと空中分解することであろう。要はすこぶる機嫌が悪くなる。まあ私巻き舌もドスの効いた発声もできないし、そんなに罵詈雑言がそんなにポンポン出てくるほうではないので、機嫌が悪くなったところで全然怖くないんだけど…。


これほどまでにナンパへの憎悪の炎を胸に秘めながら日々を生きているのに、そしてハジけた場所には決して寄り付かない陰キャであるのに、私は悲しいかなそれなりの頻度でナンパに遭う。いや、その実ナンパを装った何かの勧誘であるのかもしれないが、装わないでいてくれるほうがまだ精神衛生上よいし、相手を人間扱いした断り方をしようと思えるものだ。


仕掛けてくる相手もさまざまだ。ふた回り以上年上っぽいのもいたし、チャラけた美容師風のもいたし、量産型大学生みたいなのもいたし、今日がファーストナンパですってぐらいコミュ障なのもいたし、外国人に英語でナンパされたことさえある。なお英語がわからないふりで乗り切ろうとしたら日本語に切り替えてきやがった。シット!


私は別に人の視線を集めるほどの美女でもなければ巨乳でもない。むしろいわゆるちょうどいいブス枠なんじゃないかというような気さえする。でもそれより何よりたぶん見た目が弱そうなんだと思う。お人好しっぽいというか、押しに弱そうというか。服装も大抵無難だし。しかし気弱な菩薩系女子にも地雷はあるのだ。押そうとした瞬間お前の両手両足をまとめて貰っていくからな。


まあ、私が低レベルだから集まってくる輩も低レベルなのかもしれない。それはまあ一理ある。しかし、私はお察しの通りフジッリ級のひねくれ者だ。いわゆるハイレベルな対応をされたところで、せいぜい逆撫でされた神経が摩擦熱で自然発火するくらいだろう。


例えば、イケメンとか好みの顔面だったら喜んでついていくのでは?という意見もあるかもしれない。いや逆にイケメンに気づける方法を教えてほしいくらいだ。これまで声をかけてきた輩のなかにイケメンもいたかもしれない。いなかったかもしれない。わからない。覚えていない。

いつもコミュニティ内の誰か他の人が「○○さんってイケメンだよね」とか言っているのを耳にして、慌ててその人をイケメン枠に入れとくようにするくらいだ。そうすれば、ああ言われてみれば確かに結構かっこいいなあと思ったりはするのだけれど。とにかく、人の顔って相当顔以外の情報が蓄積しないと検知できない。


いわゆる話し上手はどうだろうか。私が雑談のネタになるような常識レベルの流行について知らなさすぎて、話の腰を再起不能のギックリ腰にしてしまうこと請け合いだ。ちょっと意識の高そうなかっこよさげなことを話してくるスタイルだったとしたら、話の腰には怒りの鯖折りをお見舞いしたい。

もし万が一私の興味ある事柄すべてについて話せるような人がいたとしたら、その場合だけはちょっと友達になってみたいような気もするけど、たぶんそれは熱心なストーカーだから、残念だが通報することにしよう。


金に物を言わせて物で釣ってくるならば、プライスレスなパフォーマンスを頼もうと思う。私はお金で動くような人間ではないのだ。見たいパフォーマンスは三択。できることをやってくれればそれでいいのだ。一、蒸発する。二、爆発する。三、絶滅する。


とか考えたりするけれど、結局のところ実物に遭遇するとうまいリアクションなんか取れなくて、ただただガン無視するだけになってしまう。無視は得意だ。こちらから何かする必要がない。人と目を合わせるのが苦手という短所も、ここでは逆に長所として輝く。就活のときに聞いた、短所を長所に言い換えるとはこういうことだったのか。なるほど。今分かった。

まあでも無視が一番効くという説もある。それを信じて生きていこうかな。

いま飛行機が静かに横切った

前に別の記事にも書いたが、私は小さい頃からとにかく毎日疲れていて治ったことがないという人生を送ってきた。とはいえ一応動けるし、微熱もないのでたぶん慢性疲労症候群とも違う。

もう少し詳しく言うと、朝起きたときが一番しんどくて、外に出ると急にマシになる。うーんよく寝たすっきりぱっちり、みたいなのは私には夢のまた夢だ。地面に縫いとめられるがごとく体が重く、だるい。だから朝は起きられない。

いろんな薬を飲むことでマシにはなったけれど、依然苦痛ラインを優に上回る疲労感が全身にまとわりついている。意識がある限りなくならないがゆえに、時として死にたい発作の引き金を引くことすらある。でも一応動ける。動けてしまう。

いろいろと試したり考えたりしてみて、存在している限り私の疲労感はなくならないのだという結論に至った。


そんな「存在疲れ」の正体について、仮説を急に思いついたのはつい最近の話だ。今まで「存在しているだけで体がしんどい」とずっと絶望していたけれど、実は正しくは「存在していることこそがしんどさの原因」なのではないか。


え?差がわからない?


もう少し正確に言うと、「この世に存在している感覚」「自分の体がここにあるという感覚」が疲労感の原因なんじゃないかということだ。これは、こんな荒んだ世の中に生きてるのがつらいみたいな精神的な意味ではなく、もっと物理的な意味でだ。

姿勢を保ったり、バランスをとったり、重力を感じたりといった方面の感覚、五感とおそらく並列関係にあるであろう(詳しくない)そういう体の感覚について、私は相当な感覚過敏(あるいは感覚の異常)を抱えているのではないか、という話だ。

私は専門家ではないので、この仮説が正しいのか、他の人にも当てはまる話なのか、よくわからない。単に自分個人の感覚と対話してみてそうかなあと思ったことを書いているだけだ。でもこういう風に考えると、自分の抱えている問題とか、なんとなく持っていた嗜好とかに説明がつくことが多い。


だいたい疲労疲労感と言うが、具体的にはどんな感覚なのよと自分に問うてみれば、かなりの割合を占めるのが「体が重い」という感覚だ。自分に手足があって、それらに質量に応じた重力がかかっていて、というのを、覚醒したての頭もはっきりしないうちに布団の中で感じるのが一番つらい。

一方で、頑張って準備して外に出たり、何かに没頭したりするとその重さはどこかに行ってしまう。ぐるぐると考え事の中に引きこもったり、連想ワールドの中で飛んだり跳ねたりといったADHDお得意の脳内多動も、私の場合は疲れるというよりはむしろ癒しの側面の方が大きい。詳しくは後述するが、やはりそれは別の物事に集中することで重さの感覚を忘れられるからだろう。

逆に言えば、重さの感覚をしっかりと真正面からダイレクトに感じる羽目になるとダメージを食らうことになるわけだが、それが頭がろくに働いていないために感覚ばかりが入ってくる起き抜けの時間ということになるのだろう。


重さの感覚をじっくり感じるといえば、マインドフルネスとか瞑想とかと呼ばれるものが思い浮かぶ。

私はちゃんと習ったことはなくて、なんとなくの理解だから間違っていたら申し訳ないのだけど、「今ここの体の感覚に集中する」とか「体の重さを感じる」というのが、あの辺をちょっと調べた時に頻出する基本のキーワードのようだ。そういうことをすると、リラックスをはじめとしたいろんないい効果があるというのが一般に言われていることだけれども、私の場合は見よう見まねでちょっと試してみただけでどうしようもなく拷問レベルにつらいのだ。そしてすぐやめてしまう。

あまりにも上手くいかないものだから「マインドフルネス つらい」とかで検索するのだけど、同じような感覚の人が嘆いている記事とかはついぞ発見できなかった。だから長年謎だなあと思っていたけれど、重さの感覚がそもそもしんどさの源であったならば、そこにわざわざ意識を向けにいったらしんどいのは当然だ。


そんな風なことに思い至り、早速適当にネットの海に潜っていたら、

「前庭覚」(=いわゆる平衡感覚。揺れや重力や傾きや速さについての感覚)

「固有覚」(=体が今どこにあってどう動いているか、どのくらい関節が曲がっていてどのくらい筋肉に力が入っているかの感覚)

「重力不安」(=重力を感じる、重力に逆らって動くのが苦手。地面に足が着いてないとか、高いところのものを取るのが苦手)

といったキーワードを拾ってくることができた。ちなみに各キーワードの概要の正確さにはあまり自信がない。いろんなところを読んでこんなもんかなと思っているだけなので…。


いやしかしこれらの異常というのはまさに私である。


小さい頃ブランコも滑り台も平均台も苦手だった。ジャングルジムも。

家の中のちょっと段がでかくて急な階段も怖かった。

本屋さんで読みたい本が自分の背丈よりも上の方にあるとものすごく心臓バクバクで手に汗をかきながら手を伸ばしていた。

縁石に乗るぐらいなら好んでやっていたが、縁石から縁石に飛び移るとかは怖くてできなかった。

川にかかる丸木橋なんて絶対渡れないし、飛び石とかも落ちる想像しかできない。

就職してからは脚立に乗る機会が増えたがあれも正直かなり苦手だ。


昔流行ったローラーブレードも買ってもらったはいいがあんな怖いものだと思わなかったし、練習してもついぞ滑れるようにはならなかった。

その後で流行ったローラーシューズも、友達に借りて履いてみたら怖すぎて動けなくなったんだった。

自転車の座席の高さも低すぎるとその場の全員から総ツッコミを受けるくらい、ブレーキをかけた時に両足がベタッと地面に完全に着く高さでないと、とてもじゃないけど怖くて乗れなかった。


絶叫系は一回乗ってトラウマになったし、高速道路や新幹線で速さを感じるのもダメだ。

車は小さい頃よくマイカーに乗せられて出かけていたから、なんとなく自宅の延長のような感じで受け入れていたけど、免許を取るにあたって自分で運転してみてマジでスピードが出てるということをしっかりばっちり認識してしまってからはわりと怖くて仕方がない。

電車も、世界認識がわりとおかしいので、普通に乗っているときは猛スピードで移動する箱の中にいることを忘れている(だって私はただ改札を通って、扉をくぐって、座席に座っているだけだよ)から怖くないのだけど、先頭車両で前の窓を覗いて、レールの上を爆速で走ってんだなあということを意識すると途端に足がすくむ。

ただ不思議と乗り物酔いだけはなぜか全然しないほうだ。


とまあこんな風にぶわぁーっと昔の思い出が蘇っては一つずつ小さなジグソーパズルのピースとなって全部つながった。絶対に私はその辺の感覚がおかしい!

他にも、じっと椅子に座ってるとタイムショックみたいにくるくる回るような感覚(本当のタイムショックほどぐるんぐるん回るわけではなく、もっと弱いけど)がしたり、普通に立って歩いてると一瞬だけめまいがしたようになったり、地震じゃないのに揺れてる気がしたりする。

自分のいるはずのところ(理性的に考えて動いてないはず、だってそこには椅子や地面があって体を支えているから)から自分の体がここにあるという感覚がしばしばずれて、飛蚊症のように視線を動かすたびにリセットされるけどすぐまたずれてくるといった感じだ。

さらに、疲れていると(基礎的な存在疲れを除いて追加の疲れが激しいと)感覚的な自己位置が地面から3cmくらい浮いたままになる、というやつもときどきある。


この辺のことを前に精神科で相談したときは、「自律神経がおかしくなってる」で片付けられてしまったけど、そういえば薬はまったく効かなかったんだった。

それに、同じような症状の人がググってもなかなか見つからないのは、感覚的な問題だからなのか、大人になってもここまでこういう感覚の問題を引きずっている人は少ないからなのか……。ググっても小さい子の話しかなかなかヒットしない。


過集中から抜けたときというのはみんなふわふわした、まるで雲の上を歩くような浮ついた感覚がするものだろうと思っていたけれど、そうでもないのだろうか?どうだろう?

私はあれを一種の疲労感だと思っていたけれど、実はそうではなくて(たしかにそういうとき疲れてはいるのだろうけど、あの感覚こそが疲労感というのではなくて)、単に集中しすぎて自分の位置情報を忘れていたのを取り戻してるだけなのではないかという説も浮上してきた。

ところで、私は昔から〈身体という硬い外殻があって、普段はその奥深くに「魂的な何か」が引きこもっていて、外部の人に接することになるようなときだけ、瞬間的に高圧ガスを注入して一気に魂を膨らませて、外殻にフィットさせている。人がいなくなると魂はみるみるしぼんでいく〉というイメージを持っている。

ちなみに、魂が外殻にフィットしているとそれなりに真人間のふりができるのだけど、家の中とかで魂がしぼんでいるときは、外でやっているような形でコミュニケーションをとることがなかなかできない。対家族とか。


話を戻すと、過集中しているようなときというのは、体の感覚がかなり曖昧になる。外殻の現在位置情報が霞んでしまう。自分自身が魂だけになって、今のめりこんでいる対象である物事以外他に何も、時間も空間も他者も存在しない世界のなかで、その物事と向き合っているような、そんな感覚(なんだかスピリチュアルっぽくなったがそういう話ではない)。

そのときだけはあのいやな重さを感じなくていいから、過集中するのは正直好きだ。してしまうと社会的に困るような場面も多々あるけれど、過集中の感覚はあまりにもおいしそうな餌なのだった。


以上の話から推測が容易なことだとは思うが、私はスポーツや運動と名のつくものすべてが死ぬほど嫌いだ。いわゆる運動神経が悪い(うまくできない、下手)というのももちろんあるけれど、体を適切に動かそうとするとどうしたって体の感覚に集中せざるを得ないのがたぶん根本的な原因だ。

そんなんだから球技や持久走はもちろんいつでも学年でもドベのビリッケツだったし、運動嫌いが運動の楽しさに開眼する運動ナンバーワン(たぶん、聞くところによると)であるところの筋トレでさえ、筋肉がつき始めるほど続いたことがない。

その好きになれない運動の中にも、相対的な好き嫌いや興味の有無はあって、まだ比較的好きだったり、やってみたいなあと思ったりするのは、なわとび、ボルダリング、あと無理をしないジョギングやウォーキングだ。それでも、私の好きなことの最大楽しさを100とすると、体を動かすことの最大楽しさは3ぐらいだ。


ついでに主張しておきたいのは、これを読んで、またここにも学校体育の哀れな犠牲者が一人いるなあと思うのはやめてほしいということだ。体育の授業は確かに嫌いだったけど、たとえマイペースで取り組もうとも、マンツーマンで理論的に教えてくれる褒め系コーチがつこうとも、3は3なのだ。

本来体を動かすことは万人にとって必ず楽しいものであって、体育の授業が少なくない人からそれを奪っている、という考え方は不正確だ。「万人にとって必ず」というところが。たしかに体育に運動の楽しみを奪われてきた人はたぶんかなりいる。でも、真の運動嫌いというのもまた存在する。無視しないでいてくれたらうれしい。

そして、私にとっての運動のように、どんな物事にも、たとえその真髄に触れることができたとしても、それを好きになれない人というのは一定数いるのだろうなあということは忘れずに生きていきたい。好みの押し付けダメ絶対。


また話がずれたからまた話を戻すと、嫌いな中でもまだ比較的興味のある運動が少しあるとさきほど述べたが、興味がある理由を考えるとそこにはある共通点があるというのがちょっと面白い。

例えば、なわとびが好きなのは、あの100均で売っているような安い子供用のなわとびが、透明チューブに蛍光色の二重螺旋構造が入ったような妙なつくりをしていて、見ていて面白いから。

ボルダリングならやってみたいなあと思うのは、壁に埋め込まれた石のような突起がカラフルで可愛いから。

無理しないランニングならありかなと思うのは、音楽を聴きながらやれるから。

おわかりいただけただろうか。共通点というのは、視覚的な強い印象だとか、聴覚だとか、何かしら他の感覚への入力があることだ。どうも、それによって体の感覚そのものや、予期不安のような苦手意識のようなものを緩和することができているような気がする。

付け加えると、体を動かしていることには変わりないのに、こまごまちまちま手先を動かして何か作ることになら没頭できるのもたぶんそのためだ。


しょうもないことのように思えるが、ここに私が(そしてまだ見ぬ同じような感覚過敏に悩まされる仲間たちが)もう少し生きやすくなるヒントが隠れている気がする。

つまり、例えば私は嗅覚に関しては鈍麻気味であって、香料の強い香りが結構好きなのだが、部屋を好きな香料で満たしたうえでなら、筋トレも続けられるのではないかとか、いい香りのシャンプーや石鹸に重課金すれば、嫌いなお風呂も少しは好きになるのでは(不潔なのは困るのでしぶしぶちゃんとしているが、清潔さを保てる原理不明の不思議な力が手に入ったら今後一生お風呂に入らないのに…)(そもそもお風呂嫌いも、服の着たり脱いだりとか、肌や髪の濡れたり乾いたりとか、温まったり冷めたりとかの、触覚のめまぐるしい変化に対する弱さに起因しているのでは?)とか。


また別の例を挙げると、聴覚もどうも鈍麻だけど刺激されるのは好きだ。ところで聴覚過敏の人とかその主観的な体験談ってわりといっぱい見かけるけど、鈍麻の人の詳しい記述って今のところ見たことがない。だからそれなりに詳しく書いてみようと思う。

静寂の中のちょっとした物音では集中が途切れたりはするものの、元からざわざわした場所というのは全然平気だし(ストレスにならないという意味では平気だが、話の聞き取れなさは発揮されてしまうのがつらいところ)、なによりも音楽の好みがHR/HM寄りにあまりにも偏っている。ヘドバンが似合うような曲を聴くと、テンションの上がりやシャキッと感もあるにはあるけど、ほわっとするというかほっこりするというか、なんかこう癒されを感じてしまう。

反対にゆったりして温かく柔らかい雰囲気の音楽は、聴いているとじれったいというかつまらないというかで却って疲れてしまう。とかね。癒しの形は人それぞれだ。


癒しといえば、チェーンブランケットは日々の存在疲れを癒してくれそうなアイテムとしてかなり興味がある。これは鎖の縫い込まれた重たい布団であって、決して安いものではないのだけど、押入れの中の布団に挟まるのが大好きだった私としては絶対イケると踏んでいる。同じような思い出のある人はたぶん圧迫とか重さとかで癒される性質の人だから是非ググってみてほしい。


まとめると、苦手な感覚が強く感じられて毎日がしんどい人は、その感覚が生まれる原因をできるだけ取り除いて毎ターンのHPの削られを弱めたり、別の好きな感覚でHPを回復させてあげたりするのがいいんじゃないかということだ。


そういえば、脳内多動の話をしていなかった。

エンドレス脳内音楽とか白昼夢とかぶっ飛び連想ゲーム、コンサータで一度落ち着いたのに、普通にそのあと復活してきてすっかり元通りになってしまったのも、これらが私の場合は存在疲れから身を守るための防御機構のようなものとして働いていたからなのかもしれない。自分で自分の気を逸らし続けていたというか。これも癒しの一つのあり方のようだ。

思えば、頭の中が騒がしいとは言われてみたら思うものの、それがあまり強い苦痛だと思ったことはなかった。たぶん私の場合、そんなことより存在するほうがしんどいようで、頭が暇になって、存在の感覚を覆い隠せなくなったときの方がつらい。


さらに、コンサータを飲み始めてからは、不思議なことが起こっている。ツイッターの読んだり書いたりとか、ブログに上げる長文記事の打ち込みとかに、以前にもまして異常な勢いでのめり込んでしまうようになったのだ。

過集中による麻酔効果のためか、昔からやっぱり文章の読み書きに取り憑かれてしまいやすいほうだったけれども、それが酷くなったのは一体どういう仕組みだろうかとずっと考えていた。全ての元凶が感覚の異常なのであれば、コンサータとかストラテラが魔法のように効いてもよさそうだったからだ。実際コンサータを足してからは、服用レポ記事にも書いたけど、世界が主に視覚的に刺さってこなくなる、音楽の聴こえ方がなんだかマイルドになるなど感覚的な変化も確かに一部あるにはあった。でも存在疲れは結局あんまりよくならなかった。


この問題の答えに気づいたのは、コンサータを27mgに増やして数日後、うっかりツイッターにのめり込み、3時になっても眠れなくなっていたある夜中のことだった(遅起きしてから服薬してるのでまだ薬効が切れていない)。

いい加減寝なければとスマホを置いて目を閉じると、変な表現だが、爆音の静寂に襲われるような感覚がした。部屋の中に、突き刺さるがごとき書体の「シーン」という描き文字が浮かんでいて、その体表を覆う百の目玉が一斉にこちらへ視線を向けてきたような、そんなイメージ。非常に侵襲的な体験だった。

あ、私はこいつから逃げるためにずっとスマホを触っていたんだ、と気づいたのはほぼ同時。さすがADHD薬、ちゃんと脳内多動を鎮めてくれてはいたらしい。ただその分減じてしまった感覚的な「麻酔」効果のために、何かっていうと過集中をしてしまうようになっていたのだった。たぶん。おそらく。


私には脳内多動が必要だったのだ。 いや、本当はないほうがいいものではあるんだけど、痛みに苦しむ人がモルヒネとかを常用しないととてもじゃないけど生きていけないように、存在疲れから気を紛らわせるためには脳内多動に依存して生きて行かざるを得なかったのだ。そんな気がする。

だから私にはコンサータよりも、どっちかというと重さの感覚過敏を取り除いてくれる薬のほうが必要っぽい。そんな薬があるのかは知らない。あ、いや休日の過眠問題の解決にはコンサータは不可欠だったから、断薬するわけにはいかないのだけれど。


なんかずっとよくわからないけどとにかく生きてるのがつらかったのが「この世に存在してることがしんどさの源なんだ」と気づくのにまず20年ほどかかったし、そこからさらに5年ちょっと経ってやっとそれが精神的な問題というよりは感覚の問題であるらしいことがわかった。

もちろん、精神的な問題が全くなかったわけではないけど、現在の時点では、純粋なメンタルの問題はほぼ解決していると言ってもいいんじゃないかと勝手に思っていたりする。医師から寛解宣言されたわけではないけれど。

でも自己否定的に死にたいと思い悩むことって実はもうかなり減っていて、せいぜい希死念慮の引き金になるくらいだ。そして実際に死にたい発作に入ってしまったときというのは、ただ意識のシャットダウンこそがこの感覚の牢獄からの救いという考えが壊れたように無限ループしてしまっているだけ、のような気がする。ここしばらくは発作を起こしてないからどうだったかよくわからない。


以上、自分の記事史上たぶん一番長くなってしまったけれど、このことに気づいてから、なんかちょっと生きるのが楽になった。気がする。

朝が来たなら 星だって帰るでしょう

ツイッター再録)今日は友達がミュージカルに出るというので観に行った。


その友達は同じ大学の発達障害仲間なのだけど、別にプロの役者とかではない。チケットは一応有料だったけど。多様性と受容をテーマとした劇を短期間で仕上げることを通して、様々な背景を持つ演者達自身も互いを受容しあおう、というようなある種の活動団体に参加したらしい。

彼のそういう向上心溢れる感じ(と簡単に言うべきではないことはわかっているが)が私はちょっとだけしんどかったりするのだが、まあそれはおいといて。


そこそこでかい会場だったけれど、老若男女大勢の観客で埋まっていた。みんな家族や知り合いが出るから見に来たような雰囲気だった。

共通の友達と一緒に来れたらと思ってたけど、その子は仕事で来れずぼっち参戦した。結構ギリギリに行ったがいい席を取れた。


私はわりとなかなかの相貌失認なのでちゃんとその友達を見つけられるだろうか…と思っていたが、まあなんとか見つけた。いつもしていた眼鏡をしていなかったので確証は持てなかったが(ひどい)。全員がそれぞれいろんな個性的な衣装を着ていたので追いかけやすかった。


その友達はASDなので、おそらく自分の動きとか客観的に見るの結構苦手なんじゃないかなと思うけれど(やはり普段の動きとか見てると僅かにぎこちない)(私も死ぬほど客観視苦手だし動くの下手だけど)、しっかりと歌って踊って演者の一員として舞台を盛り上げていて、すごいと思った。


団体の活動理念も優しいし、劇のテーマも優しいし、観客が今日来た理由もたぶん優しい気持ちからだし、友達はめちゃくちゃ頑張ったことが一目見てわかったし、なんて優しい空間なんだここはと思うと目が潤んでしまった(※開幕から5分)のだけど、さすがに今泣くのはどうなんだろうと思って耐えた。


まあ正直、劇のレベルとしてはそんなにめちゃくちゃ高いわけではないと思う。あんまり劇とか観なくて全然目が肥えていない私でもちょっとわかってしまうくらい。でも相当な短期間で1から作られたものだということを考えると普通に完成度高いし、なによりも点数をつけられないような「よさ」があった。

基本的には集団でパフォーマンスを繰り広げながら話が進んでいくのだけど、なかには長台詞が与えられていたり、ソロ歌唱を披露したりする人も何人かいて、そういう人達は結構上手かった。友達を含めた「それ以外の大勢」が、単なる有象無象ではなく個として躍動していたのが「よさ」の源かもしれない。


私はわりとADHD的で気が散りやすいせいなのか、店員という仕事柄なのか、美術館に行っては作品だけじゃなく照明の当たり加減を見、お店に行っては商品だけじゃなく什器の使い方を見、などしてしまう。そんな感じでチョイ役やバックダンサーのような人たちも結構気になって見てしまうほうだ。

だから今日ソリストがスポットライトを浴びて熱唱してるときも忙しなく舞台の奥の方とか端の方にも視線をやってしまったりしたのだけど、そのときにつまらないと思うようなことがなかった。情報量が多いというか。昨今の全員がシンデレラの学芸会なんかよりずっと、全員が主役を張っていた。


ただ少し疑問に思ったのは、多様性をテーマにしているにもかかわらず、マイノリティへの配慮が見られなかったことだ。色がキーとなる物語なのに、色覚マイノリティが観たら訳がわからなくなるであろう配色だったし、異性愛を前提としたような表現ばかりが目についた。それはさすがに浅すぎるような…。

まあ、元々の話は結構昔に作られたものらしいので仕方ないのかもしれない。それにあらゆるマイノリティへの配慮って原理的に不可能だし。比較的メジャーなマイノリティグループに対して配慮して見せて配慮した気になるよりかはマシだろうか。

劇を作り上げる中でどんな議論がなされたのか少し気になる。


とか考えてたらそんなに長い劇ではなかったので終わってしまった。最後にパァンと音が鳴りいわゆる銀テと呼ばれるキラキラと輝くものが打ち上げられた。それらは勢いに乗ってふわふわと空中を漂い、勢いを失ったところでそのうちの一本がスッと私の懐に飛び込んできた。記念品だ。

銀テとは言ったが今回放たれた分には色のついたものもあって、私のもとに降ってきたやつは青かった。

友達の衣装もちょうど青かった。


閉幕後、人でごった返す中友達を無事見つけ出し声を掛けた。客席から見てたときは特定できていてその衣装を覚えていたのだけど、近くで見たらメイクのせいなのか通常時の3割増くらいでイケメンになっていて(髪型と髪色もいつもと違ったかも)一瞬ずっと違う人を目で追っていたのかと思ってしまった(若干失礼なのでは?)。


ゆっくり考えて、なおかつ書き出したならこのくらい思うことはあったのだけど、私は考えたことをすぐに忘れてしまう悲しきワーメモなしだし、致命的に話すのが下手なので、よかったよ!!!としか言えなかった。せめて髪型そっちの方が似合ってるとか言えばよかったんだけど。

仕方がないのでラインした。

ひとでのスープで 食事にしようね

やりたいことがわからない話。


「やりたいことがわからない」と言っても、別に自分探しとか、進路希望調査的な意味ではない。むしろ今まで、好きなことを好きなように勉強してきて、それとは全然関係ないけど好きな仕事に就いて、とやってきた。その経歴を履歴書のような形式で表にまとめて人に読んでもらうとすると、至極真面目真っ当なレールの上を走る人生(ただし途中で一回なかなかの鋭角にカーブしている)だと思われるかもしれない。しかし、中身のメンタリティとしては、良く言えば自由、悪く言えばふらふらしている、いわゆる夢追い人のような人種とそんなに差はない。たまたま真面目っぽいものが好きだっただけだ。プライベートだって、鬱がアレしてしばらくできなかったりもしたが、まあまあ趣味に生きてるタイプだし、そういう意味では好きな物事と興味のない物事はわりとはっきり自分でわかっていて、そして好きな物事に囲まれていないとたちまち死んでしまうような質だ。


ではどういう場面において「やりたいことがわからない」のかというと、それは他者との関係の中で自分がどうしたいかというのがまるでさっぱり見当がつかないことが頻繁にあるのである。

上に書いたような、進学や就職、あるいは趣味、好みといったものは、究極的には自分一人で決めて自分一人でその責任を引き受けるタイプのものだ。たとえば友達と一緒だからという理由だけで進学先を決めるようなことは普通推奨されない。入試の面接でそんな志望理由を語ったら落とされることだろう。そういう、一人で選択決定する方面のことなら、やりたいことはかなり明確で、むしろそういうのがわからない人の気持ちがわからない。少なくとも消去法で決めるくらいのことはできる。

しかし、他者が絡むと途端に何がしたいのかわからなくなる。どこへ遊びに行くか、どの店で食事するか、何を話題として話すのか、その人との関係をどうしていきたいのか、そういうようなことがさっぱりわからなくなる。


「わからない」と言うと、もっと自分に正直になっていいとか、勇気を出して本音をさらけ出してみようとか、そんなアドバイスを受けることがあるが、少なくとも私の場合においてはそれは的外れで、このわからなさは、もっとつるりとして何のとっかかりもないわからなさなのだ。「無」と言ってもいい。

普段の脳内というのは、例えるとごちゃごちゃしつつも色々な知識や経験や記憶やなんかがそれなりに整理されて突っ込まれている、一面に広がる無数の引き出し群だ。昔の薬屋さんのアレみたいなやつ。脳内多動がわりかしあるので、常にどこかで内容物がガタガタと暴れたり、何かがドロドロと蠢いたり、勝手に開いたり閉まったりしている。そんな引き出しを前に、開けて中身を見て考えてやっぱり違うと戻したり、あっちの中身とこっちの中身を見比べたり、思いつくまま床にお店を広げたりしていたはずが、「で、あなたはどうしたいの?」の一声で、ほとんどの場合、茫漠とした宇宙空間のような場所にいきなりテレポートさせられる。

静謐。見渡す限りの真空で、つまり思考の材料、ヒント、とっかかり、糸口となりうるものが何もない。一体私はどうしたいというのだろう。キョロキョロと辺りを見回すけれど、使い慣れた引き出しとその中身はどこにもない。「なんでもいいよ」と言われても、投げ返すべき物体がここには一つも落ちていない。便宜的に宇宙と呼んではいるけれど星も暗黒物質もない。

別の言い方をすれば、どう転んでも負ける手札を場に出せずにいつまでも躊躇しているのではない。いつもいつのまにか持っていたはずの手札を全て失くしてしまうのだ。出せるカードがなくてまごついている間に、大抵は別の人がそのゲームをかっさらっていってしまうので、そうしたら私は安心してその人に負けることができる。ひたすら自分の話を聞いてほしいとか、人をリードする方が好きだとか、そういったこちらに手札を出す機会すらなかなか与えないようなタイプの人とは、居心地良く安心して関わることができる。そういう人に構われるのは大好きだ。だって好き好んで宇宙空間に吹っ飛ばされているわけではないし、できればこの世界にとどまれるほうがいいもの。

私の「わからなさ」は、そういう意味でのわからなさだ。


「いや、日常の些事について優柔不断なのであって、進路のような大きな選択はできるというだけなのでは?」という風に思われるかもしれない。たしかに自分が優柔不断でないと言えば嘘になるが、一人で入るカフェや、ショッピングの行き先といったものは、まあ普通に常識的なレベルの検討時間で決められる。というか「こうしたい」というなんとなくの希望のようなものが自然と湧き上がってくるので、基本的にはそれに従って、あとは予算や立地などの条件を鑑みて現実的な行動に落とし込んで行くだけだ。

他の人は、他者との関係の中ででもこのように希望が湧き上がってくるものなのだろうか。それを開示したり、場合によってはしなかったりしながら、折衝しているものなのだろうか。驚くべきことだ。

希望湧き上がり機能が部分的に欠如しているらしい私は、いつも宇宙から自分以外の人のことをぼんやりと眺めている。たぶんそのときの自分の目玉はガラス玉のように虚ろなことだろう。中に何もないので。


どうしたら宇宙に吹っ飛ばずに済むんだろう。考えてはみるものの満足な答えが出たことはまだない。

本当にぶっちゃけたことを言うと、吹っ飛んでしまうこと前提で考えるなら、ただただ一人で過ごすか、ひたすら人に構われるかだけしているほうが、楽で楽しくて不安を感じなくていい。

でもそういう風に開き直りきれない自分もいて、この状態って何かよくないんじゃないか、何か欠けてるんじゃないかと自分を責めることもよくある。ただ改善の糸口は何もなくて、そこにはつるりとした虚無があるだけなのだった。


いわゆる受動型ASDの頭の中のリアルな動きというか、いつも感じている感覚って、こういうものなのではないだろうか。ADHD併発者だと引き出しガタガタのくだりも加えてわかってもらえそうな気がする。正式にクロの診断を受けたわけではないが、受動型の特徴にもADHDの特徴にもそれなりに当てはまりまくっている身としては、他の同じようなタイプの人に、こういう感覚があるか、共感できるかを聞いてみたい。