つらまりブログ

つらまったりもしたけれど、私は元気です。

空気男が子ネコ僕らにくれた

8月6日の日記。


朝は繋ぎっぱなしにしてたスカイプからの彼氏の声で起きたような気がする。今日1日の予定(午前中は互いに家で作業して、集合しておやつ食べて、どこかでしばらく作業して、トイストーリー4を字幕で見て、ご飯食べて帰る)を立ててから通話は切った。

トイストーリーほどの人気作でも、子供向けだとなかなか字幕版をやっていない。子供の頃から字幕版を好んだ(聴覚処理が弱いので字幕版の方が安心できる)人間なので自身のマイノリティ性に少しつらくなった。彼氏は彼氏で字幕で見たいほうなので、時間帯がかなり限られるにもかかわらず字幕版を観ることにしてそれを中心に予定を立てたのであった。


通話してる間はそれなりに覚醒するので私は「お絵描きしたい」とかほざいていたのだが、通話を切ると覚醒度が下がってベッドの上で倒れ込んでしまった。そこからスヤスヤと2度寝。気がつくと結構やばい時間になっていた。電車を1本逃すのが確定した。そこで服にこだわりすぎず適当に決めるという偉業を達成したものの、何か髪型に凝りたくなって普段しないくくり方(といってもヘアアレンジは髪質的にも器用さ的にも壊滅的にできないほうなので、ちょっとくるりんぱしたくらいのもの)をしていたら2本目の電車を逃してしまった。馬鹿か?


死にたくなるのを筋少を聞いてごまかしながら街へ向かった。+20分ぐらいで合流。いつもこういうときは本屋で立ち読みして待っててくれる。申し訳ない。本が読めてうらやましい。


おやつ何食べようかと街をさまよい歩いて、結局前も行ったのと同じ系列のカフェに入った。まあおいしいからいいのだ。かかっていたスプレーがパステル虹色だったのでテンションが上がった。パフェの写真を撮ったら検閲された(自分が映り込むのが嫌らしい)。


そのカフェはあんまり作業できる雰囲気ではなかったので、作業向きのところを探した。少し道に迷いながら(方向感覚死滅カップル)ファミレスに入りドリンクバーとおつまみ的なものだけ頼んだ。彼氏は本を読み、私はTODOリストを片付けていった。まず1年以上先延ばししていた脱毛の予約を行い、あんまり見てないのでお金ばかり無駄にかかっている動画配信サービスを一旦解約し、そして筋少グッズを大量に買った。サンフランシスコTシャツの黒がいつのまにかもう売り切れていたのは大誤算だった…。オレンジはうーんという感じだし。再販を待つか…。脳髄柄でめちゃくちゃかわいくて、こないだ買った脳髄ネックレスとバッチリじゃん!って思ったのだけど。まあでも一番欲しかったパーカーが買えたのでとりあえず満足。ひと段落したので仕事を少ししようと思ったけど、もうすぐ映画の時間だということでほとんど進まなかった。彼氏はずっと仕事の本を読んでいた。えらいなあ。


映画館に行ったら、字幕版はなかなかこじんまりしたシアターで上映されるようだった。何やこのアルファベット前の方やんけと思っていたら全然真ん中くらいだったというくらい部屋が小さかった。そんなに字幕は人気がないのか。無理やり見せられるたくさんの映画の予告編の中に、犬が何度も生まれ変わって同じ飼い主?のもとで飼われつづける的な話があり、モンブランケーキを思い出したがいやわりと違うなと思った。まあでもそんなに面白そうではなかった。また、アナ雪2、ライオンキング、マレフィセント2が今後控えているという情報を復習することができた。いつまで異動せずにこの店にいられるかわからないけど、ここにいる限りはキャラクターグッズとの付き合いはやめられないので、今後ディズニーが何を繰り出してくるかは頭の中に入れておいた方がいいのだ。しかしうちの店舗、ディズニーストアがそう遠くない場所にあるのに、ディズニーのグッズをあえて取り扱う意味があるのだろうかといつも思う。でもそんなことはおかまいなしで本社は取り扱い商品を決めるのだ。


トイストーリー4はかなりよかった。後でご飯を食べながら感想戦になったとき、私は物語を批評的に見る気や能力がほとんどない一方、彼氏はその辺のレベルがわりと高いので彼の語る内容にほへーすごいなあとばかり思っていた。いつも物語を消費したとき、考えるべきことの正解がわからない。いや正解などあるのか?ないのか?何もわからない。それより大部分を忘れている。


印象的だったためにそれなりに覚えていることだけを書く(ネタバレ)と、この間界隈で流行って消えていったプーさんの精神病理テスト的なものよりよっぽど主要登場人物が多彩にわかりやすく病んでいて(そして物語を通してそれを克服したりして)面白かった。ちなみに、1〜3はまともに観ていないので、1〜3を踏まえて考えるとかなり間違っていたり的外れだったりする感想も持っていると思う。


まず最初に挙げるべきはフォーキーだろう。この子は一行キャラ紹介なんかで「自分のことをゴミだと思っている」とか書いてあり、完全に(ちょっと前の)私だと思っていたのでもともと感情移入期待度が高かったが、期待以上にいいキャラをしていた。自分はおもちゃじゃなくてゴミだという確固たる信念。何度もゴミ箱に入ろうとする姿などまるで投身自殺。そしてゴミ箱の中で紙くずをお布団にうれしそうに寝ていたりする。わかる…。落ち着くんだよね。いくら何かでナンバーワンになろうともそれだけで信念が簡単に書き換わったりはしない。ウッディみたいに誰か他人に長いこと働きかけてもらわないとなかなか変わらないものだ。


だがウッディのしたことはいいことだったのだろうか?キャラクターとしてのフォーキーはたしかに可愛いが、「子供が廃材から作った人形」という意味では、今はボニーのお気に入りかもしれないがそんなの保って1ヶ月であって、結局のところフォーキーはゴミなのだ。ウッディ達ならよその子に譲られていくこともできるがフォーキーに次の貰い手のあるはずがない。フォーキーには市場価値はない。それを善意で仲間に加えるのは優しい世界ではあるがちょっと残酷だ。


しかしそれにしてもフォーキーは少々アホだ。ボニーのおもちゃ達は広い世界を知ってるわけではないからかみんなどこかちょっとアホなんだけど、それでもちゃんと小さな社会を作ってうまくやっていて、そんななかでフォーキーはひとりあんまり空気が読めない。発達障害者っぽい…。この辺から私の妄想になってくるんだけど、フォーキー:それ以外=ハンドメイド:大量生産品=発達障害者:定型発達者という構図があるような気がした。やっぱりアマチュアによるハンドメイド品は商品・製品として作られた大量生産品のクオリティには勝てない。同じ「物」だけどちょっと違うのだ。でもそのわずかな違いが効いてきて物の価値を左右する。物を作ることのある者としてちょっとそれを思った。


そんなフォーキーに仲間が登場するシーンが最後にあった。フォーキーとこの子のペアグッズとかあったらほしいけどチョイ役すぎてグッズ化されないだろうな。おもちゃ達は皆一目見て「あっフォーキーの同類だ」みたいになってて、でも二人を排斥するわけではなくて、これには少し救いを感じた。こんな風に達が達として人間社会に受け入れられる日が来ればいいけどな…。


その次にいいなあと思ったのはギャビー。最初はただのサイコパスかと思ったけどそのうち明らかになるわかりやすいコンプレックスと承認欲求。この欠点さえなければ私は愛されるはず、という気持ちを拗らせすぎている。欠点がなくなってもうまくいかないシーンが1回はさまって結局は2回目のチャレンジでうまくいっていた。優しい世界だ。


私も私でさえなかったら(この器に載っているのが別人であれば)いろんな人に愛されるのになあと少し思うけど別にもうそんなに気にしてない(コンプレックスがでかい)(主語がでかい的な)。いやもうちょっと細かい部分にフォーカスすることもできる。一重瞼とデブがわりと私のコンプレックスの中核だ。それで一時は完全に醜形恐怖だったし今も多少そうなんだけど、今はそれなりに自分の中で諦めがついている。どうしようもないしょぼいクジを掴んでしまったことを直視して受け入れるのにはちょっと時間がかかったけど、でもそれが事実だから仕方がない。


しかしこないだ「カワイイは作れる!」(意訳)的なことを彼氏に言われて私の瘡蓋は深く抉り取られて塩コショウされた。この土台で可愛いが作れないことはもうわかっているので…。それよりはルックスについては妥協していると表明してくれたほうがまだいいような気がする。とか言うと怒られが発生しそう。


話をトイストーリー4に戻すと、やはり今回すごいのはウッディだ。完全に元カノに依存するメンヘラ彼氏と化している。ウッディは長いことアンディの一番のお気に入りであり、そしておもちゃ達のリーダーでもあった。しかし次の持ち主ボニーのもとで一番でいられたのは束の間、そのうちレギュラーから落とされてししまう。ウッディを長く一番だと扱ったのはアンディであってボニーではないのだが、ウッディはその辺の境界が曖昧で、混同している。持ち主との関係はすべてアンディとの関係のようなものでなければならないと思い込んでいる。しかし別人であるボニーには明らかにウッディは必要ない。フォーキーの登場によってそれを嫌というほど見せられても(しかも当のフォーキーはその一番を享受しようとしない!)、それでも持ち主のためを一途に思い続ける美しい忠誠心……のようでいて結局は自分のためなのだ。まあでもなんやかんやあって最後にはちゃんと自分で自分の人生を選択したのでよかったねという感じ。……この雑なまとめ方本当のファンの人に見られたら怒られが発生しそう。


映画を観た後はご飯を食べた。2人で同じメニューを食べた。台湾まぜそばだったのだがとてつもなく味が濃くて、一口食べるごとに、麺を食べてから最後に投入すべき白ごはんをかきこみたい衝動に抗う羽目になった。


そしてしばらく喋ったりしてから帰った。

水の奥底で光る君の忘れ物を

この間、自立支援の更新のタイミングで、コンサータを処方できるところに転院して、苦節何年か忘れたけどようやくコンサータを手に入れた。ので、使用感レポート。(化粧品か何かか?)


その前に、今の文章に出てきた重要用語について今一度おさらいしておく。これは界隈では常識だろうけど、知らないで後でウワ-となる人を一人でも減らせたらと思うので。

まあでも重要っていうのは我々にとって重要というだけなので、健常者のみなさまは別に読み飛ばしていただいても問題ありません。そもそもこの記事を読もうと思う健常者の方が一体何人いるのかだけど。


まず「自立支援」。

簡単に言うと、年一で手続きするといつも通ってる精神科の医療費が1割負担でよくなるうえに、毎月一定額以上医療費がかかった場合に「今月はもうそれ以上払わなくていいよ!」としてもらえるというTHE社会保障みたいなありがた〜い制度で、私はもう利用して5年目ぐらいだったかと思う。2年に1回は5000円くらいかかる診断書を提出しないといけないんだけど、診断書代の分なんてすぐに浮く。私の場合だと雑に計算しただけだけど年に10万ぐらい浮いてるのかな?

これがマジでありがたすぎて、私は少ない給料から税金がバンバン取られていっても文句を言わないようにしている。ちゃんと有効利用されてんじゃん税金。ちゃんと機能してんじゃん制度。


まあ、この年一の更新手続きがADHDにはかなりつらいのだけれど…。でもこの制度が真価を発揮するのはやっぱりADHD者に対してだろう。ADHDの特効薬であるところのストラテラコンサータはとにかく薬価が高いので、真面目に3割負担で払うとおそらくたいていの人が破産する。例えばコンサータの一番少ない18mgでさえ300円ちょっとするのである。毎朝私は100円玉を3枚飲み込んでいるということになる。ガチャガチャかな?


知らなかった人はとにかく役所にコンタクトを取ろう。申請書や必要物のリストだけを見てもいまいち訳がわからない人が多いと思うけど、そんなときは原始的だけど窓口で教えてもらうのが一番早い。教えてもらうために1回、提出するために1回の計2回、役所に行く前提で予定を組むのが実は却って一番楽なんじゃないだろうか。だって、我々の大多数、電話をかけるのが死ぬほど苦手なうえに、話聞きながらメモ取れないでしょ…。


続いて「コンサータを処方できるところ」。

ADHDの二大特効薬のうち、ストラテラはどの医師でも処方できるけれども、コンサータは処方ができる医師とできない医師とがいる。そんでもって、この2種類の薬はタイプが違うので、人によっては「一方の薬は効くがもう一方の薬は全然効かない」ということがある。

それでありがちなダメルートとして、「ADHDの診断が降り、薬物療法をすることになったはいいが、処方されたストラテラが効かず、ではコンサータを、と思ったら主治医がコンサータを出せないので詰む(転院や自立支援の病院変更の手続きというのは、ADHD者にとって永久に先延ばししたくなるタスクである)」というものがある。

それを避けるため、病院を選ぶ際は、なるべくコンサータが出せる医師のいる病院にするよう気をつけることをおすすめする。


----------ここからコンサータ服用レポート----------


長くなったがようやく本題に入る。

コンサータは、私にはかなり効いた。ストラテラよりも効いた。ただちょっと予想してた効き方とは違っていたが、でもまあ良い効果が出ていると言える。


私の困り事のうち、これはADHD的な性質(実は診断は降りていなくて、グレーと言われただけなのだけど)によるものなのでは?とアタリを付けていたのはざっくり言うと大体以下のようなことだ。

①過眠(休日、20時間/日 近く寝てしまう、n度寝、縦になれない)

②目覚めが悪い(2時間ぐらいかかる)

③常に疲れていて倦怠感MAX

④過食(気になるので袋菓子を食べ残しておけない、すぐ間食が欲しくなる等)

⑤先延ばし、優先順位がおかしい、報酬系の壊れ

⑥不注意(ギリギリ健常者レベル?そんなに酷くない)

⑦多動(脳内の多動がメインで、外からはあまりわからない)


数字が若いほど困り度が強い。改めて整理してみると、ADHDの代表的な症状として有名な不注意や多動は、私の場合、あるにはあるもののそんなにめちゃくちゃ困ってはいない。この辺がグレーと言われる所以だろうか。

むしろ、世間的にはマイナーながら関係があるのではと言われている疲労や睡眠の問題のほうが、私にとってはそれが理由で結構真剣に自殺を考えるくらい、深刻だった。

過食や先延ばし癖はその中間くらい。過食もおそらく優先順位の壊れの一つのようで、食べることに直結したタスクは必ず優先順位1位に勝手に割り込んできてしまうような、そんな感覚がある。


そういった症状が、コンサータを飲むことでどう改善すると期待していたかを次に述べる。これは私の勝手な期待だよ。まだ実際の効果の話まで行ってないよ。

①休日でも1日ちゃんと活動できる、n度寝しない

②朝スッと起きれる、意識がシャキッと覚醒する

③常にある疲労がなくなる、元気になる

④食欲が減る

⑤物事に取り掛かりやすくなる、優先順位が立てられるようになる

ケアレスミスが減る

⑦頭の中が落ち着く


そんなことを期待しつつ、コンサータを処方できる医師がいる、ネットで探した病院に行ったら、いわゆるあまり話を聞かないタイプだった。話をじっくり聞くのはカウンセラーの仕事だと分担しているのかもしれない。もしくは私がコンサータを試したいから転院するのだということが紹介状に書かれていたのかもしれない。

出すべき書類(WAISの結果)が紹介状の束の中に揃ってなかったとはいえ、初診が5分くらいで終わったのは笑ってしまった。普通精神科の初診というのは30分ぐらいかかるものなのだけど。2回目にその書類を持って行ったら一発で処方が決まった。ディスクレパンシーを見ていたらしい。ディスクレパンシーだけを決め手にどうするか決めるのはあまりよくないと聞いたこともあるが、まあ私はコンサータがもらえればとりあえずそれでかまわないので…(あまりよくない姿勢)。それに私はグレーとはいえ実際かなり困っているし、ディスクレパンシーもわりと人よりえげつなくて50近くある。ディスクレが全てではない(困っていても数値に出ない場合もありそう)けど、困りのある側面をある程度客観的に数値化できてるのは確かなはず。とか思ってるけど素人知識なのであまり真に受けないで。

今まで3年間くらいお世話になった病院は、コンサータこそ出せないものの、とりあえず毎回近況を聞いてくれてその記録を取ってくれていたのだけど、それが思ったより気持ちを楽にしてくれていたことがわかった。

まあ、その点では新しいところはハズレだけど、薬をもらうだけだと割り切って通えばいい。それはまあ仕方ない。話を聞いてほしいような問題が出てきたら、別にカウンセリングでも頼めばいい。昔に比べて双極も落ち着いてきたし。とりあえずこのまま様子を見る。


そして薬をもらった翌朝、いざ服用。ちなみにまずは最低容量の18mgから。ストラテラは中止し、あと双極の薬をそのまま継続している。

コンサータは夜飲んじゃうと寝れなくなるタイプの薬なので朝に飲むよう言われた。は?この過眠人間の辞書に寝れないの文字なんかないけど?と思ったけど、次の受診で27mgに増量したときは覿面に夜眠りたくなくなってしまって、ナマ言ってすみませんでしたーとなった。

服用初日が仕事の日だったのはちょっと間違えたなと思った。なぜならもし低確率で当たるようなヤバい副作用が出てしまったら仕事を休まないといけないし、そうでなくて吐き気や頭痛といったベタで無害で苦しいだけの副作用が出たとしてもそれはそれで仕事にならない。本当は2連休とか使って試すのが一番よかったけど、2連休の少ない仕事をしているので…。


最初の効果は飲んで30分ぐらいで感じた。普通仕事の日は、2時間くらいかけて一旦起きて、朝ご飯を食べて、おふとんの呼び声に抗えずまた横になって、ギリギリの時間までうだうだ二度寝して、ギリギリになったらそのギリギリ性から生じる圧によって急いで身支度をして、ギリギリの時間に家を出るという、いかにもADHDっぽい流れをたどって出勤するのだけど、その日は一旦起きてからのおふとんの呼び声が聞こえなかった。

いつもは下腹部や股関節の辺りが猛烈にだるく重く、四肢がぼんやりとした筋肉痛のようなものに支配されて力が入らず、それが総合して強烈に身体を横にならせようとしてくる。床に縫い留められるような感覚。それが8割方消失していた。まあでもそれにしてもさすがに効くのが早いのでそのときは気のせいかもしれないと思った。でも、飲むとだいたい再現するのでこれも効き目の一つだと考えられる。効くのはやーい!

ただ、コンサータは12時間程度しか効き目が持続しない。したがって、朝起きて飲んで、寝る前には切れて、当然起きるときは薬効がないので、起床するのは生身でやらなきゃいけない。その起きるのが猛烈にだるい…。起きなきゃコンサータ飲めないけど、コンサータの効果がないと意識を覚醒させにくいのってかなりこの世のバグっぽい。うーん、ペットボトルにお水入れて枕元に置いておいて、コンサータも持ってきておいて、目覚めた瞬間飲めるようにしておくのもいいかもしれない。必ずしも朝食後に飲まなくてもいいみたいな感じだったはず…。


次に感じた効果は、職場に行くために外に出て、そして歩きながらイヤホンをつけて音楽を再生し始めて、あれ?と思ったことだ。

感覚がおかしい。いつも外に出たら急にもっとシャキッとしてくるはず。鬱が改善して以降は、視界を埋め尽くす人や物や家やなんやの色がもっと強烈に視覚に刺さってきて、イヤホンをつければお気に入りのメタルが聴覚に刺さってきて、気持ちが高揚してくるはずなのに。

世界が刺さらない。世界がちっとも刺さってこない。そのために意識がシャキッとしない。離人感とはまた違う。世界からもたらされる感覚刺激がなんだかちょっとマイルドになっている。

ヘンテコな副作用で急に耳や目が悪くなったのかと思ったけど、どうもそういうわけではない。看板の文字はちゃんと変わらず読めるし、人の声もちゃんと聞き取れる。むしろ、感覚刺激の処理の仕方が変わったとしか考えられない。電車の中で音楽を聴いていて、音楽を差し置いて車掌さんのアナウンスが頭に入ってきたときにそれが確信に変わった。


いろいろ条件を変えて実験してみたり、コンサータ以前の感覚を思い出したりして、どうも私は感覚過敏というか感覚刺激の処理バランスがおかしく、それによって毎日疲弊していたが、薬の助けで正常なバランスに近づいたのだろう、という結論に至った。

コンサータなしのときは、いつも画像編集アプリでコントラストとシャープネスを上げたような世界を見ていた。物の色や輪郭から強い刺激を受けていたとも言える。また、いつも中〜高音域がブーストされたような音を聞いていた。低音は比較的聞こえにくく、そのため音楽を低音>高音にするイコライザ設定を好んで使っていた。

それが、コンサータを飲むとおそらく多数派の感覚へと「補正」される。


コンサータありの時の感覚こそが多数派の感覚ではないかと推測する理由としてはこんなものもある。

私は小さい頃から「テレビや映画を視聴していると、いつも効果音やBGMばかりうるさく、セリフは音量が小さいので少し聞きとりにくい」と感じて生きてきた。しかも、私の母親も同じことを言う。

だが、私や母のような素人でも少し考えてみればわかる話だけれど、テレビ番組や映画(の音響)を作っている人たちは音のプロだ。その辺の音のバランス、聞きやすさを追求していないわけがない。つまり、おそらく、大多数の人間は、言語音のほうが非言語音よりも優先的に頭に入ってくるようになっているのであって、そういうフィルタが欠如している私や母のような人間の方が少数派なのだろう。世の中のコンテンツは多数派に合わせて作られている。

これがまたコンサータを飲むと補正されるようで、この間部屋のテレビがついていて、母がまた「効果音だけがうるさい」と言ってるときに私が「その通りだ」と思えないときがあったりした。

聴覚言語処理の弱さは遺伝的なものであって、しかも薬で軽減されうる。結構面白いエピソードではないだろうか。

またそのうちカクテルパーティ効果が働くようになるかの実験もしてみたい。


ところで、感覚刺激処理のバランスが「おかしくなってしまった」のではなく「よくなった」「補正された」である理由はもう一つある。それは、何もしてないのに身体が疲れた!的なバグっぽい疲労感(普通は寝て起きたら疲れが取れてすっきりしているものだと聞く)がマシになっていて(寝て起きて元気とまではいかないけど、先述の「朝n度寝しない」とか)、そうなった理由が感覚の変化くらいしか思い当たらないからだ。まあ、感覚刺激が苦手というかそれで消耗してしまうことについて自覚は一切なかったわけだけど、刺激で疲れるのは発達障害者あるあるだしね。


そして元の時間軸に話を戻すと、朝は二度寝せず、通勤時は感覚が変化し、と来たので、これから一体どうなってしまうんだ?まさかめちゃくちゃ仕事できるパーソンに変貌を遂げてしまうのか?タスクがみるみる減っていくのかーっ!?とか思ってたら、業務時間中はごくごく普通だった。

むしろ何かちょっとうっかりしがちになったし、テンションが高い。ふわふわ浮ついていてくるくる上滑りするような。思ったことがつるつるつるーっと口から出てきてしまうけどこれそのうち失言しないか。そういえば通勤中音楽を聴いてるときも、部屋で一人でいるときみたいに聴いてる曲を口ずさみたくなって我慢するのに苦労したりしてた。普段はそんな欲求全然抱かないのに。

いやいいことがないわけでもない。なぜかエミュレータの性能が急に上がった。1秒12コマぐらいの感じだったのが36コマぐらいになった。ぬるぬる動く感情豊かな笑顔が作りやすい(接客業)。

うーん、これ、むしろ典型的ADHDらしくなってないか?

不注意も衝動性も多動性も絶対に上がっている。こんなことってあるのだろうか。この辺は本当よくわからない。何か合理的な説明ができる方がいたら是非説明を聞いてみたいところ。まあ、ギリギリのギリで社会でやっていけるラインの上で踏みとどまってる感じがするので、これはまあn度寝防止効果とのトレードオフとして受け入れよう。


仕事が終わって帰宅するぞーって時にも、ちょっと効果を感じた。基本的に私は食べ物に手が伸ばせる状況においては空腹が我慢できない。つまり、家にいる休日とかよく間食するし、仕事帰りにコンビニに寄ってお菓子を買ってしまうとか非常によくやる。仕事中とかはふらふらするくらいお腹が空いても何とも思わないのだけど、制約が外れると全く我慢が利かない。

でもコンサータがあるといわゆるコンビニの誘惑に抵抗できる、というかそんなにそもそもの欲を感じなくなる。よく服用感レポで全然食べなくても平気!みたいなことを言う人もいるけど、私はそんな感じにはならなかった。あわよくば痩せたかった(よくない考え)のでちょっと悲しい。でも、スルピリドのせいかここ1年でえげつなく太ってしまったまま服用をやめても戻ってない分とかぐらいは落とせたらいいな。

太ってる言い訳をしたいわけではないけど、やっぱり欲の強さの違いっていうのは人それぞれあるんだろうなとは思った。だってこのくらいの感じだったら私でも全然我慢できるもん。

ここに関して実験するとしたら、食べ放題に行って適正な量だけ取るやつができるかどうかかな。いつも強迫的に多めに取ってしまうので…。


そして、夜は薬が切れたのか眠くなってすぐ寝てしまった。


そのうち休日が来た。シフト制なので2〜3日に1日休みがある。コンサータありの休日は一体どうなるのか。

今度は先延ばしが少し起こりにくくなってることに気づいた。いつもなら意識に上りもしなければ上ってもなかなか手をつけられない床に落ちてる紙くずとかを拾ってゴミ箱に入れられる。まあそれでも部屋は今日まで散らかったままなのだけど、今のところほんの少し見える床面積がマシなままかなあ。服をベッドに積んじゃって寝るところがないのはわりと変わらない。今後の課題である。


まあでも取り掛かり力は増した。これを書いては飽き書いては飽きする間にベッドの上をちょっと片付けれたりはした。ベッドの中からハンガーがどんどん出てくる。服を掛けてクローゼットになおす。

クリーニングに出していたが親が回収してきて私の部屋の入口に掛けて置いていたコートも、冬が来る前にそこから取ってクローゼットになおすことができた。いや、できたって言うほどのことじゃないのはわかってるけど、これは結構真剣にびっくりしてる。例年は先延ばしに先延ばしを重ね、存在を無視して半年ほど掛けたままにしてしまうことが多かったので。浴衣とかもよく、洗い終わってから秋冬までずっと、暖簾か?って感じで部屋の入口に掛かったままにしてたり…。ひどい。


だが、優先順位付けができないのと、過集中しやすいのには今のところ特に効いてない。それどころかこれも若干ブーストがかかっているような感じさえする。そのせいで人との約束とかで時間がないときほどアホみたいに携帯をいじってしまう。やめられない。あらゆる物事への取り掛かりやすさポイントが+3されたような感じなので、もともと手に取りやすい携帯はほんとにすぐ触ってしまう。うーん。


あとここ数日思うのが、起きるときはやっぱり超だるいということ。一旦起きてしまえば起きてられるとはいえ、起床に2時間かかるのはあんまり改善されてない。そこはまあちゃんと寝ろってことなのかな…。


脳内の多動に関してはほぼノータッチ。少し落ち着いたかなというくらいで劇的にシーンとするわけではなかったけど、元々おそらくそこまでものすごくめちゃくちゃにとっちらかってる方でもないので…。健常者平均よりはたぶんごちゃついてるだろうけど。他の人の服用レポで見かけるような、アイデアが湧き出にくくなったとか、そういうのは私はない。


効いたところ効かなかったところは大体そんな感じ。困るような副作用は私の場合特になかった。強いて言うなら、最初の方にも書いたけど、27mgに増やしたときに飲んだのが朝であっても夜眠れなくなったくらい。


最後に、期待した効果と、実際に飲んでみての効果を比べてまとめておいたらわかりやすいかなーと思うので、それで締めくくる。

①休日でも1日ちゃんと活動できる、n度寝しない

→これはかなり劇的に改善したと言える。一番期待していたし、一番効果があった。

②朝スッと起きれる、意識がシャキッと覚醒する

→かなり期待していたけど、そういう方向には働かなかった。朝起きるのを楽にするのはそもそも半日で薬効が切れるので原理的に難しいのかもしれない。

③常にある疲労がなくなる、元気になる

→これはまあマシかな?というくらい。体感としてはあまり何も感じない。でも体の芯から発せられるとにかく横になりたいというだるさ波はどこかに行ったし、実際起きていられている。

④食欲が減る

→期待したほどは効かなかったけど、適正値ぐらいに持って行ってくれたかなあという感じ。なかなかいい仕事をしている。

⑤物事に取り掛かりやすくなる、優先順位が立てられるようになる

→取り掛かりについてはちょっと暴走している。優先順位にはほぼ全く効いていない。

ケアレスミスが減る

→むしろ増えた。なぜ…。

⑦頭の中が落ち着く

→良くも悪くも特に効果はなかった。


以上すべて「私の場合はなんか知らんがこう効いた」であって、それ以外の情報を否定するつもりはもちろんないし、あなたも飲んだらこうなるに違いないよと言うつもりもない。

ただネット上にコンサータを飲んだ人の生の声、感覚を詳細に綴ったものがなかなか少ないよなと思ったので、誰かの参考になればと思いここまで勢いで書いた。

これで試してみようかなと思う人や、安心できる人が一人でも増えればよいのである。

美少年で探偵でS

今回はフォロワーさんたちのリクエスト(というか、ツイッターとブログどっちで読みたいアンケートの結果)(結局ブログで読みたいと言ってくれた人の方が少なかったけど)にお応えして私の性癖の話をお送りします。リアルで私のことを知ってる人にはちょっと読まれたくないなあと思いながらでも書いてしまいました。もしかしたらちょっとR-18かもしれないけど、本人は至って真面目です。


ツイッターで呟いた話の繰り返しになるけど、私は自分の内面を言語化するのが趣味なところがあり、かつ、それにかけては右に出る者がなかなかいないと思っている。幼稚園ぐらいのころ、何か親や教師等に向けて書かれた文章で、「子供は自分の気持ちや体調の悪さをうまく言えないことが多いので〜」みたいな内容のものを見るにつけ、そうか?と思っていたというエピソードがあったりするけど、今思えば自分が飛び抜けてただけみたいで、そういえば同級生たちは思い通りにならないと普通に暴れ回ったりしていた。


話が逸れた。まあそんな趣味かつ特技みたいなものを持っていながら、今まではっきりとは考察してこなかった自分の脳内の一区画がある。それは自分が明らかにマゾヒストだということだ。

しかも自分の場合かなり性的な意味に限定されていて、たとえばいわゆるマゾゲーみたいなやつは全然好きじゃない。長距離走とかもよさがわからないし、筋トレも嫌いだ。

ただ私は好きな人に安全に虐待されたいだけであって苦痛そのものは別に好きじゃない。自分でも書いてて何なんだろう…と思うけど、「安全に虐待されたい」というのが素直な気持ちだ。そしてこの気持ちはなぜか私の中では愛されとか構われとか関心の向けられと同じ引き出しの中に入っている。

なので、例えるならまるっきりモテない人の漠然とした恋人がほしい気持ちと似た感じの寂しさ、それをただ語りたい文章化したい、ただそれだけなのだ。だから本当に下ネタに走ってるというよりかは本人至って真面目なんです。本当に。


さて、初めてそれっぽい性向をぼんやりとでも認識したのは4〜5歳ぐらいの頃だ。かの「ボコ恋」(ドMのバイブル的コミックと言っても過言ではなかろう)のペス山先生もそんな感じだったようなことを描いておられたような記憶がある。まあ私は先生ほど暴力に最初から惹かれてたわけではないのだけど。今は好きだよ暴力。ボコられたいよ。

では何に惹かれてたかというと、アニメとかでよくある、主人公サイドのキャラが悪役サイドのキャラに捕まって拘束されてるシーン、あれにめちゃくちゃ胸をときめかせていた。縄でも手錠でも磔でも牢屋でもなんでもいいし、たとえネタに走ったコミカルな感じであっても妙にうっとりしてその場面を見ていた。よくそれにプラスして謎のビームとかで何らかの拷問チックなことが行われてたりするのもすごく好きだった。

だから本当に目覚めたきっかけとかは特に存在しなくて、ただただ先天的にそうだったんだろうと思う。でも、何かおかしいような気がして、あまり外には出さないできた。

たぶんLGBTとかの人の感覚って、もしかしたら私のこの感覚とある意味では似てる部分があるんじゃないかなと思う。生まれつき自分はこのようであって、そしてこれはマイノリティだという感覚。なんかちょっと変なんだけど、でも事実自分はこうなんだ、という。


他に私がマジョリティとのズレを感じるのは、雑誌やWEBでそういう話題の記事を目にしたときだ。いわゆる、女子がされるとうれしいこと5選、みたいなやつだ。いやもうあれちっともうれしくない。萎える。テンションだだ下がり。

もちろん普通にまったりイチャイチャしたいときというのもなきにしもあらずだけど、でもそれでは決して埋まらない何かをずっと抱えている。

ごく一般的ないちゃつきというのは私にとっては体操やスケートの難易度の低い技みたいなもので、全てが最高の出来栄えだったとしても大した点数にならない。やっぱり難易度の高い技で固めていかないと満点への道は開かれないのだ。

そうかといってただ難易度セレクトだけ良きに計らってもらえたらいいのかというとそういうわけでもなくて、やっぱりそこはお互いが心から楽しくないと…という気持ちも強いので、ナチュラルボーンSな人でないと嫌だ。ていうか無理してSぶってもらうのは正直申し訳ない。無理してもらうくらいなら私はさみしいままでいい。

それに加えて、これは私のすごくめんどくさいところではあるんだけど、平常時は別にごく普通の感性で、むしろ優しく穏やかなくらいで、でも(私が被虐によってしか寂しさを埋められないように)加虐的なやりかたでしか人を愛せない、っていう人がいい。これは理想だ。でもそんな人いるんだろうか。たまたま出会ってたまたま好きになった人がたまたま生粋のサディストだったりしたらいいのに。ロマンティック願望はないほうだけど、ある意味では夢見がちもいいところだ。ただし非常に倒錯している。


先に述べた「安全に虐待されたい」というのもなかなかのパワーワードを錬成してしまったものだなあと自分でも思うけれど、「ほどよく人権を侵害されたい」というのもまた素直な気持ちコレクションの一つだ。いい感じに自由を奪われたり適度に尊厳を蹂躙されたり、したい。わがままの極みなんだけどちょうどいい程度というのがポイントで、やっぱりやたらめったら虐待されるのはちょっと違うというかそれは本当の虐待だ。犯罪だ。あくまでこういうのはお遊びであって、でもだからこそある意味では本気で来てほしい。死んだり痕が残ったりすることのないようにはしてほしいけど、手加減はされたくない。想像だけど、この加減ってやっぱり生まれつきSの人にしかわからないんじゃないかと思う。

ジェットコースターで例えればこういう性癖のない人にも想像しやすいだろうか。ああいう絶叫系というのは、本当に高所から生身で突き落とされてしまうのなら成立しない。機械の定期点検をし、乗るときもバーを下ろし、しかしそこそこの高さから急降下することで、安全な恐怖を味わう。これが微妙な高さだったりすると楽しくない(私は絶叫系が苦手なので想像だけど)し、また異常に高いところから落とされるのだとそれはまた本当に死んでしまう。とかね。


つまり私は誰かにちょうどいい感じの遊園地を作ってほしいのだ。そしてそこで夜が明けるまではしゃぎまわっていたい(「Guru」より)。

そうすればこのどうしようもないさみしさもいつか埋まるような気がしてならない。

愛を撃ち殺せ!

ランダムに言われる複数の数字を一時的に記憶して、言われたのと同じ順番で、あるいは逆の順番に直して言ってみせる、ということがあなたはどのぐらい得意だろうか。私は死ぬほど苦手だ。


これらはWAIS-Ⅲで実際行われるテストで、それぞれ順唱、逆唱と名前が付いている。これらのテストの結果は、作動記憶(ワーキングメモリ)のIQを測る手がかりの一つとして使われるようだ。

その作動記憶のIQが、私は自分の中でそれはもう著しく低い。天と地というか成層圏マリアナ海溝かというくらい差がある。一番高い言語理解は2Eを軽く超え、(自分でも信じられないことに)控えめに言って天才の域なのに、一番低い作動記憶は凡人にも若干劣るくらいなのだ。細かい数値は過去の記事を参照していただくとして、まあとりあえず数値にして50近くの差がある。15あれば発達障害の疑い濃厚と言われるそうなのに、私はこれでもうまくやっているそうなのでADHDに関してはグレー止まりだ。何かPDD-NOS的なことも言われたには言われたけど、それは今のDSMではASDスペクトラムに入るとウィキペディア先生が言っていた。私はどこにアイデンティティを置いたらいいのだ。こまった。


脱線した。


この困り方に対してグレーっていうのはちょっとひどい気がしている。そりゃあ典型例みたいな人よりはたしかにミスも少ないし、外からはうまいことやっているように見えるかもしれないが、それはひとえに私が大人しくて出しゃばらない性質を持っているためにやらかしても表面化しないだけであって、ライフはすでにかなり限界までハッキングしているし、内面のほうもボロボロだ。心の折れたエンジェルだ。とか言ってると世界への恨み節が無限生成されそうなのでこの辺でやめておくが、とにかくディスクレパンシー巨大パーソンはまあ生きづらい。


定型パーソンは、言語理解・作動記憶に関して言えば、たいていそれなりに詳しい辞書とそれなりに広い作業机を頭の中に持っている(ようなものだと私は理解している)。

それが私は日国大とクッショブルなのだ。いや日国大の見出し語全てが理解語彙だとは言わないけれど、物の例えとして。

それにしてもこれらの両方が名前だけ聞いてパッとわかる層というのは一体どこなのだろうか。とりあえず不釣り合いだということが伝わればいいのだけど。持っている言語的な知識量に対してあまりにも作業台が狭いのだ。ネコちゃんのおでこだ。


わかりやすいところで言うと、暗算ができない。2桁同士の掛け算なんてのは絶対にダメで、繰り上がりがあるやつだと足し算もあやしい。数字を頭の中に置いとけないのだ。一つ入れると一つ忘れる。ロケット鉛筆。心太。その他にも神経衰弱は激弱だし、脳トレゲームなんかによくある瞬間記憶ゲームとかも壊滅的だ。


学校の授業につきものの板書もダメだった。文節ごとに黒板を見直さないと頭の中から文字がすぐにシューっと蒸発してしまう。それでチラチラチラチラ何回も見るはめになるのだが、そうすると書くのに人一倍時間がかかり、途中で黒板から文字が消されてしまうのであった。

もちろん仕事をするようになった今でも話を聞きながらメモを取るのは苦手だ。どんどん飛んでくる仕事の指示というのは、荷物を限界を超えてどんどん持たされて、それでも飽き足らず上に積み上げられて、ぽろぽろ落としていくような、そんな感覚にさせられる。

とはいえ、後述するが私は中長期的な記憶力もやってしまっているので、あとで見返せるように必死でメモを取るしか選択肢がないのだけれど。


聴覚的な処理能力が低い(ADHD傾向のある人はそうらしい)のも相まって電話を受けるのも苦手だ。言い慣れた名乗りや挨拶を口から出しているうちに相手の社名や氏名を忘れてしまう。消毒用アルコールよりすぐ蒸発する。いわゆる事務職や電話番と呼ばれる仕事は絶対に私には務まらない。


だんだんわかってきていただけただろうか。では脳内作業台が狭いことによって起こる一番致命的な苦手ってなーんだ。いや個人差はあるかもだけど。正解は「頭の中で物事が組み立てられない」でしたー。文章とか順番とか段取りとか。


文章。こんなブログを書くくらいなんだから文章を書くのは好きで得意なんだろうと思われているかもしれない。それはある面では正解だがある面では間違っている。

私はスマホやPCなどの、削除や挿入やコピペによる順番入れ替え等々が容易なテキスト入力ツールがないと思い通りの文章が書けない。真の言語能力を発揮するにはそういうツールが不可欠だという風に言うこともできる。

一方紙で頭からだーっと一続きに文章を書いたり、口頭で話したりというのはかなり難しい。言葉選びと話の組み立てを同時に頭の中でやってなおかつそれを保持しておくだけの作業スペースがない。それで入試小論文もかなり苦労したのだ。リニアに話を作っていこうとすると、言いたいことの1/3〜1/5くらいしか伝えられないような非常にもどかしい感覚がある。

なのに世の中(というかうちの会社が入社時にくれた社会人マナーブック的なブツ)(そんな高そうなものを大手人材会社とかから買ってる暇があったら給料を上げてほしい…)は「会って話しましょう、電話しましょう、メールじゃ話は伝わらないよ」だ。そんなメールなら使うのやめちまえ。

私に言わせれば、多くの人の書き言葉能力が話し言葉能力に比べてあまりにも低すぎるせいで話せば伝わる話もメールだと伝わらないというだけであって(実際社内外を問わず仕事で付き合いのある人に、何が言いたいのかよくわからないメールを送ってくる人は意外と少なくない)、メールというツール自体に欠陥があるかのように語るのはやめていただきたい……と思ったが、まあ世の多数派がそうなんだったら仕方がない。ただ私の喋りはめちゃくちゃわかりにくいぞ。覚悟しやがれ。


順番(私のやっている仕事でいうと、店舗の什器をAからBに動かし、BにあったものはCに動かし、Cにあったものは二つにバラしてDとEに持ってきて…というような話)の組み立てや、段取りがダメなことについては、エクセルの表を思い浮かべていただくとわかりやすいかもしれない。情報量の多い表を「拡大縮小せずに印刷」した感じ。数セルずつしか一枚に乗らず、どの紙を見てもなんの表なのかさっぱりわからない。一枚に入るように縮小したらしたで文字が小さすぎて読めず、あの例の紙切れを睨め付けているプーさんの画像みたいになってしまう。工程表、タイムテーブル、チェックリスト、スケジュール、その辺のものはみんなそうだ。


ただありがたいことに先人たちは紙やPCやエクセルを発明してくれた。それにうまいことまとめるスキルは、必要に迫られたためかわりあい高いのではないかと思っている。

少なくとも、就活してた頃に、受けた企業とその進捗や各種提出物の締め切りを管理するために作った表を友達(この子は要領がよくワーメモがかなりありそうだった)に見せたら、よくこんなわかりやすくまとめられるなーとびっくりされたことはあったりした。これはワーメモなしがこの世界を生き抜くために身につけざるを得なかった悲しい技だよ。


一部をクローズアップして見るより全体を見るのが苦手なのもたぶんやっぱりワーメモなしのせいで、右を見たら左のことを忘れてしまうというか、いろんなところに満遍なく目を配りそれを覚えておいて関連付けて考える、みたいなことが絶望的にダメで、管理職には向いてないんだろうなあ、管理職候補生みたいな感じで入社してもうたけどなあ、どないしよ、といった感じだ。


冒頭に述べた順唱や逆唱だと、順唱のほうは5〜6個くらいまでいけるかもだけど、逆唱になるとたしか4個くらいでダメになったような記憶がある。あんなシンプルで落ち着いた環境で行われるテストででもマジで3つのことしか覚えられない。もうちょっとガヤガヤした日常生活だと1つ2つのことでもすぐ何処かに行ってしまって二度と帰ってこない。

しかしうちの母親はそんな私に頻繁に口癖のように「幼稚園児でも3つのことは覚えられるのに」という言葉をかけてきた。私が自分は頭が悪いんだという素朴な信念を持っているのはおそらくこの辺にも起因する。自己肯定感もかなり下げたと思う。幼児だろうが大人だろうがワーメモなしはワーメモなしなんだということがわかった今でも私はその言葉に呪われている。


ワーメモなしパーソンは中長期的な記憶力には優れる傾向があるという話をどこかで読んだような気がする。気のせいかもしれない。ソースはない。まあでも私もかつてはそうであった。中長期的な記憶力はかなりよかった。


昔は同じ本を何度も読んで、その中で印象的なセリフなんかは暗唱して話のネタにすることだってできたし、だいたい本のどの辺りに書いてあるかだって覚えていた。今では読み終わった本に何が書いてあったか、どんな人が出てきたか思い出せない。主人公の名前すらろくに覚えていないし、そもそも本を読むのにすごくエネルギーがいるようになった。映画も、漫画も。そういうものに触れるのが好きな気持ちは残っているのに、観ても読んでも内容を思い出せない。人と語り合えない。人から「こんな場面あったよね」と言われて「え?あったっけ?」となる始末である。


勉強したことも何回か集中して繰り返せばすぐに覚えられた。出し入れ自由だった。でもあるときから頭に入らなくなった。それが記銘力の低下なのか、記憶を取り出す力の低下なのかはわからない。そのものを見れば「あ、見たことあるやつだ」という思い出し方はできるが、自分の意思では取り出せない。

人と遊んだことも、人と話したことも、すべてぽろぽろと指の隙間からこぼれていく。

その不可逆的な変化が起こった時期が、ちょうどものすごい鬱と希死念慮に苦しめられていた時期と一致する。

私は医師でも脳科学者でもなんでもないが、鬱や希死念慮は脳を破壊するのではないか、という仮説を立てている。繰り返し途方もない回数憂鬱な気持ちを抱き死について思いを巡らせることは、脳神経に簡単には治らない傷をつけるのではないか?


友達たちがかつて観た映画の感想なんかで盛り上がっているのにひとつも話に入れないのは(しかもその映画は私も観ているのに!)とても惨めだ。漫画や映画や小説のような、文化的なものがもともと好きなだけに、私は自分が何のために生きているのか、時々わからなくなる。


私がさっき書いたような仮説を立てているのにはもう一つ根拠がある。神経保護作用のあるおくすりを飲み続けてしばらくすると、その辺の認知機能や意欲にほんの少しだけ改善が見られたことだ。

昔は本の読みすぎで寝れないくらい本の虫だったのが、いつしか本を開けば即脳がシャットダウンして起きていられないようになり、今ではおくすりのおかげでとりあえず寝ずに本を読めるくらいには回復した。でも最初の状態に戻ることは果たしてできるのだろうか?最初の状態にも戻れないのに生きている意味はあるのだろうか。


覆水盆に返らずと言うが壊れた脳もなかなか元に戻らない。

急に過眠が出たぐらいの段階で精神科に行っていれば私はもっと楽しく勉強ができ、もっと面白く本が読めたのだろうか。

脳が壊れそうな兆候のある人は早くつべこべ言わずに精神科に行っておくすりを飲んでほしい。

なんかいつもこの結論ばっかりだな。

二人で一人の人狼天使

今回はエミュレート(外モード)とネイティブモード(家モード)についてまとめようと思う。あと私が勝手に圧システムと呼んでいるものについても触れるつもり。


エミュレートというのはTwitter(の私のいる界隈)ではある程度通用する用語だと思ってるし、実際発達障害パーソンあるある(ない人もいる)だと思うのだけど、案外詳しく書いた記事とかが見つからない。ので、書く。

ちなみに、私はあえて「発達障害」と書いている。これは自分がADHDグレーゾーン、かつ特定不能発達障害というぼんやりした診断を受けているためである。加えて、ASD傾向も診断未満だけれどなくはない(ASDの知識やASD向けライフハックが自己の理解やコントロールのために実際に役に立っている)という微妙な位置にいるので、この辺をふわっとまとめて指したいのである。ただしLDさんのことは私はよくわからない。まあとにかくそんな風に言葉を使います。


さて、エミュレートというのは、本来はパソコンのプログラム上で仮想のファミコンを作って動かすとかそういうことを指す用語であるらしい(ふんわりとした理解)のだが、それを転用した言葉である。つまり、定型発達者にとっては無意識にできてしまうようなことを頭でいちいち全て考えて行うとか、意識的に定型発達者のような振る舞いをして見せるとか、そういうことを指す。

人によっては人格のレベルから演算して近似してたりもするみたいだけど、私のエミュレータはいわゆる中国語の部屋みたいなもので、「中の人はその意味をよくわかってないけど、こうすればいいというのはわかるので、とりあえず外から観測するとおかしくない受け答えをしている」というレベルのことをやっている。この例えでいうと、人格のレベルからエミュレートしてる人というのは、「中の人は中国語を学習して身につけたので、一応は理解できるけど、母語のようにスッと入ってこない」というような感じと言えるだろうか。どちらにしても、自分で意識的に言動などを調整して定型発達者のふりをし、社会に適応するための一つのスキルなのだ。


私はまともぶることにかけては天才なので、このエミュレートモードが、外出したり、外の人と接するときに自動でオンになる。モードが切り替わるのだ。しかし自動とはいってもほぼ全ての振る舞いを意識的に調整している。どういうことかというと、周りがAT車ばかりの中で私一人が「MT免許を持った人が乗り込んだMT車」になっているような、そんなイメージだ。ちゃんと動いているけど、調整は全て手動で、でもとりあえず調整ができる人が乗り込んできてくれる。操作は手慣れたもので、滅多にエンストなど起こしはしないが、そうはいっても人の手でやっているので、稀にはエンスト(=コミュニケーション事故)を起こすし、どこまで慣れてもATより負荷がかかる。


そう、負荷がかかるのだ。いくら自動でオンになるといっても、エミュレートをやり続けるのはかなり疲れるよう(オンの間は疲れを感じないのでようとしか言えない)で、家に帰るとまた自動でモードが切り替わってオフになる。MT車に今度はMTを運転できない人が乗ってくる。つまり動けない。

動けないというのは比喩ではなく、本当に疲れ果てていてなかなか何もする気にならないのだ。外だとちょっとした雑用なんか率先してやろうと心がけるが、家の中では家事はできる限り親に丸投げしてしまっている。外だと人の御用聞きをして奉仕するような仕事(小売業)をしてそれが特に苦にもなっていないが、家の中だと親に何か頼まれたりするとものすごくストレスで、なかなか言うことが聞けない。

二重人格かってほどエミュレータのオンオフで人が違うのだ。


エミュレートせずに生きている人にとっては、それは親だから特別なんじゃないかとか、外でそんなことをしている反動が来てるんじゃないかとか、そう思うかもしれない。もしくは、キャラを作ったりするくらい誰でもあるだろうに、何を大げさなと思うかもしれない。


でもこれは明らかに反動ではない。外で例えあらゆる仕事を怠けたとしても、余った体力を家に持ち帰って使うというようなことができないからだ。実際主観的な感覚としては、体力ゲージが2種類あって、家の中と外で勝手に切り替わるというような感じがする。外だとHP3000くらいあるものが、家の中だと5ぐらいしかない。たとえ体力満タンで家に帰ったとしても、2995のHPはどこかに消え去り、強制的にHP5にされるのだ。


まあでも、親だから特別っていうのはそうかもしれない。でも、単身赴任中の父親に家で接するのと、単身赴任先のアパートで接するのとでは、感じるストレスがかなり違う、というのはある。

同じことを同じ人に言われるのでも、家の中か外かで感じるストレスの量が違うというのは、キャラ作りでは説明がつかないのではないだろうか。

しかも、キャラを作っているように見える外モードのときのほうが、ストレスを感じにくく、情緒も安定していて、実に健全なのだ。これは痩せ我慢でもなんでもない。我慢するべきイライラをそもそもほぼ全く感じていないのだから。たまには感じるけど。

一方キャラを作るというと、普通、なんでもない風を装いながらも、実は無理をしていて、心の中ではストレスになっていたりする、というものではないだろうか。


とにかく、無理せず自然な切り替わりに任せていると、こんな風になるのだ。あたかも自分というMT車を運転するドライバーが二人いて、場面に応じて交代するかのように。

こういう交代制になっているのは、かなり小さい頃からだったように思う。そうはいっても、外モードの人(?)も昔からここまで運転がうまかったわけではない。どう頑張っても壊滅的に運転できないドライバーと、今はまだダメだが練習すれば運転できそうなドライバーがいて、後者が自ずと外モードを担当するようになったというか…。

たぶんおそらく、エミュレータは意識的に育てようとしないとあんまり育たない。パターン学習と練習が必要なのだ。社会にうまく適応できてない発達障害者には、多かれ少なかれ、社会が要求する程度までエミュレート精度を上げられていないという問題があるような気がしている。もちろん障害の程度や性格等々は人それぞれなので、100のエミュレートをするのに50の努力で済む人と5000の努力が必要な人とがいたりはするだろうけど、小さい頃にエミュレートの必要性に気づいて努力を重ねてこれれば、生存確率は上がるだろう。それが療育のもたらす効果なんじゃないかと勝手に思っている。療育受けたことないけど。

あと、自分のエミュレータの精度を上げるという方向ではなく、要求されるエミュレート精度が低いコミュニティに身を置くというやり方で生き残る方法もあるだろう。


私がエミュレータの必要性に気づいたのは高校に入学したくらいのときだった。その頃、ある日ふと、周りが挨拶をしたり、何かしてもらったらお礼を言ったり、話を聞くときに相槌を打ったりしているといったようなことに気づいたのだ。

私が発達障害者だということを本当の意味でわかっていない人がこれを読むとショックを受けるかもしれないけど、私は正直、その辺の社会的なやりとりは、いまだにあまり意味がわかっていない。なんでそうするのか、よくわからないでやっている。どうしても必要だという感覚がちょっと薄い。

とにかく、自然にはそれをできない自分と、どうも自然にそれをしているらしい周囲とのギャップに、ある日はたと気づいた。

その日から猛烈な努力が始まった(といっても障害が重い人よりはよほど努力量が少ないと思う)。タイミングを見計らって完璧に模倣する。擬態する。意識的に体を動かし続ける。相手を観察し、大量のインプットからパターンを抽出し、適切なリアクションを徹底的に頭に叩き込む。リアクションがワンパターンになりすぎないようにいくつかバリエーションを用意し、乱数を発生させて(本当に発生させているわけではないがそういう感覚なのだ)あえてノイズを加え人間らしい振る舞いへと微調整する。

ここまで頑張っても能力を超えていてできないことはある。たとえば視線絡みのこと。視線の検知とかはかなり弱い。視線を合わせるのも気を抜くとすぐ忘れる。まあそれでも、よく聞き上手だと言ってもらえる程度には、相槌を打つのがうまくなった。本当に、なんで打ってるのかよくわからないで、ただ表層をなぞるように打ってるだけなのだけど…。

でもそういう感じで、人間のふりをするのはだいぶうまくなった。人間のふりをしているといっても信じてもらえないくらいに。まあ、ふりといっても、自分ではわざとオフにすることはできないのだけれど。


話がだいぶずれたけど、一方で家モード、ネイティブモードはどんな感じかというと、最初の方にも少し書いたように、基本的には常に疲れ果てていて、ほとんど何もする気になれない。無理をやめると寝たきりになる、基本姿勢が横族というやつだ。

そうかといって、本当に何も家の中で成していないのかというとそういうわけではない。まあ1日に20時間寝たりはするけれど、それでも趣味に興じたり、やらなければいけないことをこなしたり、外出の準備をしたり、といったことをすることもある。なんだ動けるんじゃないかと言われそうだけど、何もなしでは動けないのは本当だ。これら家の中でできることには、私の意識を乗っ取るだけの魅力か、あるいは何もしたくなさに勝つだけの圧があるのだ。


魅力はわかりやすいから置いておいて、圧とは何か。

たぶん、外からの要求や要請といったものかなあと思う。外の要素のあるものに、私は敏感に反応する。外モードがいくらか乗り移ったような状態になるのだ。

たとえば、私にとって外出は相当困難なことの一つだ。外に出てしまえば外モードになるので何でもできるのだけど、身支度を始めてから家のドアを開けるまでのところがとてつもなく難しくしんどい。ではなぜ仕事を続けたり、友達と遊んだりできているのかというと、それは家の外に属するものから外出が要求されているからだ。具体的に言うと、雇用契約とか、友達との約束だとか。その圧力が所定の時刻に近づくにつれ強まっていくので、あるタイミングで抵抗感のほうが屈服し、晴れて身体は動きだせるといった具合だ。


一方で、「休日に一人でふらっと特に意味もなく出かける」というのが私にとっては困難を極める一大難事業となる。圧が全くないので、何もしたくなさをゼロから克服してやらなければならない。基本的にそれは無理で、それをしようとしていつの間にか出かけられないくらい夜も更けていたという話は枚挙に暇がない。


他にも、お風呂の問題がある。私はお風呂がもともとかなり嫌いで、温泉旅館とかも全くよさがわからない。そうかといって、社会で生活する上で不潔にしているわけにはいかない。つまり外の世界から入浴することを要求されているということになる。こういう場合はとりあえず動ける。


空腹を満たすにも、なるべく食材を加工せずにそのまま食べるとか、すでに調理加工された食品を食べるとか、家の中ではそんなことしかできない。料理の出来上がるのをじっと待つのはとてもしんどく、生煮えでつまみ食いとかをよくしてしまう。この辺はやっぱりADHDグレーっぽくて、報酬系壊れてんなと思う。待てない。

外の人の要求があると途端に待てるから、人が並んでいる順番待ちとかは全然平気なんだけどね。


他にもネイティブモードだと、かなり感情の上下が激しく、人の目をあまり見ず、片付けがダメで、話し言葉に抑揚がない。ほんとダメ人間だなと思う。

ただ、苦痛に耐えて自殺する勇気がない限り、それでも生きていかざるをえない(「踊るダメ人間」)。

あの歌詞はなかなか真理をついていると思う。自分のダメさのあまり、全てぶっ壊すことを夢見たりするかもしれないけど、所詮なかなかそんなことってできなくて、そして社会は本当に厳しく、我々は(ある面では)少数派であるという厳然たる事実が存在し、結局はそれでも自分でなんとかやっていくしかないのであって、できなければ死ぬ(これには社会的な死も含む)、それだけなんだと思う。やっていく or DIE。

それをいつ悟り受け入れることができるか、なのかもしれない。

誰も彼も君を理解は不可能

久しぶりのブログ更新。

ここのところ急にメンタルがダメになって気分が落ち込んでしまった。理由らしい理由はない。色々と些細なことが重なって、ああ自分仕事できないなあと思ったのは確かにきっかけではあるけれども、理由ではない。


仕事(接客業)中はちゃんと笑顔になれるしわりと気分も安定している(ただし注意力はどうも落ちた気がする)のだけど仕事が終わると一気にダメになる。虚空を見つめたまま電車に揺られたり、目に涙を溜めたまま屍のようになって歩いていたり。


駅に電車が入ってくるときはその引力に抗うのにものすごいエネルギーを使う。気力を振り絞っていないと飛び込んでしまいそうになる。

自殺衝動の波はあまりにも強大で、好きな人や物の存在でそれに歯止めがかかるようなことはない。誰が悲しもうが正直どうだってよくて、そんなことより死にたくなる。二度と会えなくても触れられなくても別にかまわない。好きな気持ちが、意識そのものが消えるわけだし。死は全てを解決する。

一筋残った苦痛を恐れる気持ちがかろうじて身体を生に繋ぎ止めている。苦痛を感じるのは生き続けるより嫌だ。


苦痛なく死ぬ権利が早く認められてほしい。

今のところは安楽死というのは海外でばかり行われているようだし、しかも身体的苦痛が著しいような年老いた人に限られることが多く、なおかつ精神障害者は死なせてもらえない決まりになっていたりして、画期的なニュースが舞い込んできたと思いきやはい解散解散となることも少なくない。


精神的苦痛は苦痛ではないのだろうか。苦痛として認めてもらえないのだろうか。

今まで生きてきて何億回も押し寄せてきた津波のような死にたい衝動を、制度という形でそのまま肯定してもらうことはできないのだろうか。

私は今薬で死にたみをごまかして生きているけど、やっぱりたまに目が覚めるというか酔いが覚めるというか、気分がストンと落ちてふと我に返る瞬間がある。

憂鬱で死にたい自分が本当の自分であり慣れ親しんだ感覚であり、生きたいと思う自分はどこか偽物っぽい(薬の効果のただなかにいるときはそれを忘れてしまうのだけれど)。自分を偽らないと生きていけない。そうまでして生きなきゃいけないのだろうか。なぜ?


生がそんなにいいものなのかどうか、私には甚だ疑問である。誰かの自殺を止めることがいいことであるように語られる風潮が許せない。生を押し付けるのはやめてほしい。あなたが生きたいからって別の誰かが生きたいとは限らないのだ。世の中全体があまりにも生ハラスメントだ。


まあ、飛び込みや飛び降りを筆頭に、自殺は迷惑だから、だから止めるんだと言われればそれは確かにそうだ。でも、世の中にちゃんと死ぬための権利や制度がまともに整ってないからそんなことになるのではないのか。死にたいと思ったときに活用できる制度が、誰かが話を聞いてくれて引き止めてくれる電話ぐらいしかないというのは人権蹂躙も甚だしいのではないか。なぜ引き止められなくてはならないのか。引き止められたい人はそれでいいだろう。救われると思う。でも全員がそう思うわけじゃない。むしろ死ぬ手助けを求めているという人はそんなに少ないのだろうか。制度から無視されて仕方ないくらい少ないのだろうか。


でも普通に考えて、自分の人生のことを自分で決められないっていうのは、人権を尊重しましょうっていう昨今の世の中の流れには逆らっているんじゃないだろうか。今の状況は、まるで始めたテレビゲームを一度始めたんだからっていつまでもやめさせてもらえないような、そんなおかしな状況に見える。続ける自由もやめる自由もあるはずだ。

しかもテレビゲームなら自分の意思で始めるけれど、人生に関しては始めてほしいと頼んでもいない。なおさらやめる権利が保障されてしかるべきなのではないか。

もちろん生きたい人の生きる権利はどこまでも保障されるべきだと思う。でもそれと同じくらいの強さで、死にたい人の死ぬ権利を保障してほしい。


ところで自殺はなるべくならしたくない。失敗してより悪い状態で生きなければならなくなるかもしれないし、ほぼ確実に苦痛が伴うからだ。

死にたい衝動に負けてしまったらそんな不確実で苦痛を伴う手段であっても死ぬことを試みるかもしれないけれど、本当は一切の苦痛なく確実に事切れられるのを求めている。

致死量の麻酔を注射するとかが多分一番いいのだけど、医者じゃないので麻酔なんか手に入らないし注射する技術もない。やはり時代は安楽死センターだ。

ちゃんと街中に公的な安楽死センターが建っていればわざわざ電車に飛び込んで痛い思いをしたりはしない。センターに駆け込んで全てから解放されてそれで終わりなのに。


生きたい人は生きて、死にたい人は自由に死ねる。

そんな社会がいつの日か来ることを心から願っている。そういう社会の方がきっとよりよい社会なんじゃないかと思う。

ツアーファイナル、僕らは同じ夢を見た

先日生まれて初めてのライブというものに参戦してきた。ついに、ついについについに、私の信仰対象を、筋肉少女帯を、生でこの目で見ることができた。

ニューアルバム「ザ・シサ」をひっさげた、結成30周年記念のツアーin大阪。筋少が結成30年ならば14歳でハマって今24歳の私のファン歴は10年である。ついさっきまで15歳でハマったように記憶してたけどハマったきっかけを振り返ってみるとたぶん14歳だわ…。


というのも、ハマったきっかけというのがアニメのOPなのである。当時の私はちゃんとオタクをやっていて(今はサブカル女にジョブチェンジしつつある)、当時ハマっていた「さよなら絶望先生」のアニメ第2期(=2008年)が始まる前くらいに第1期を後追いで観て、続けて始まった第2期も観て、その両方のOP(「人として軸がぶれている」&「空想ルンバ」)に心を撃ち抜かれて、オーケンそして筋肉少女帯および特撮の存在を芋づる式に知り、どっぷりハマっていったのであった。

軸ぶれはAメロのギターとベースの感じからして好きだし、屈折した歌詞がどうしようもなくグッときたし、2番の「誰からも支えられてないからさ」のところ(のピアノ)が最高にいい。

空想ルンバはBメロの歌詞が至高。「トキハナツ」とか「タチムカウ」とか、あと「蜘蛛の糸」とかにも通じる、目にもの見せてやる的メンタリティが魂に刺さった。あ、「林檎もぎれビーム!」の「あいつらにだ!」も追加。この絶望先生OP三部作は本当によい…。

話が逸れたけど、まあそんなこんなで筋少に辿り着いてからというもの、常に私の傍らには筋少の曲があった。しんどいことがあれば爆音で聴いて心の支えにし、いいことがあれば爆音で聴いてテンションを上げた。基本的に爆音だった。


そんな私の筋少への思い入れ、おわかりいただけただろうか。じゃあなんで今までずっとライブに行かなかったのかというと、ちょっと怖いような気がしてたのと、なんとなく自分が行っていいような気がしなかったからだ。

比較的激しめのサウンドのバンドだから、見た目も中身も激しい感じの人ばっか来るのかなとか、息の長いバンドだから古参の方々がめちゃ幅利かせてるのかなとか、記憶力がアレで歌詞を覚えきれてないけど睨まれないかなとか、私あんまりはしゃげるタイプじゃないけど周りのテンションについてけるかなとか、というかそもそもライブやライブハウスというものにどこかアングラな雰囲気を感じていて、立ち入って大丈夫なのかなとか、そんなことばかり考えてた。行ってみたら、優しそうなお兄様お姉様方と少数の同年代がいるだけで、全部杞憂だったんだけど。

また、触れたことのないものは「存在しないのと一緒」、つまり(普段通る道についてではなく)人生における無意味オブジェクト(ツイッター文脈)になってしまう節が私にはある。漫画(中学生まで読んだことがなかった)やドラマ(今もまともに観たことがない)、映画(大学生まで映画館に行ったことがなかった)、テーマパーク(初めてユニバに行ったのは大学時代、ディズニーに至ってはついこの間)等々、常識欠落レベルでいろんなものに触れてきていなかった。やってみたらハマるものもあったのにね。

それに、興味が湧いたとしても、何か自分で自分の好きなことを選び取ることにやっぱりどうしても変な罪悪感があって、なかなかそこに飛び込むことができなかった。おそらく、親から与えられたものではないものを摂取することに対する抵抗感だったのだと思う。私の親は「自由にやらせてあげてるよ」という顔をしながら実は相当に支配的なところがあって、そこがすごくしんどいのだけれど、どうしても顔色を窺ってしまって、反抗期もろくになかった。でも今ようやく少しずつ穏やかに反抗している。うるせーよババアみたいな形ではなく、興味の湧いたことに素直に飛び込んでみるという形で。

進学先や就職先を決めたときよりも、今回ライブに行ったときのほうが、自分の人生を自分でコントロールできているような感覚がした。

私も人生楽しんでいいんだなって最近はちょっと思えるようになった。


QUATTROの入ってるビルの麓に着いたら、なにやらパーリーピーポーな方々が列をなしていたので、内心めちゃくちゃ動揺しながら列に並んでみたのだけど、結局そこは全然関係ない別のイベントの列だった。後からやってきた筋少ファンの知らないお兄さんとともにそれを知り一緒に正しい物販列へ。お兄さんは私に先どうぞって言ってくれた。優しい世界、優しい筋少ファンだ…。お兄さんその節はありがとうございました。

物販の場所にいざ着いてみると、ゾンビリバー缶バッジしか買う気なかったのに不思議な力にやられてしこたま買ってしまった。マフラータオルとフェイスタオルとリストバンドと缶バッジ。冷静に計算したら予算(500円)の10倍買ってた。でも最近グッズのセンスがやたらと向上してきたのでほしいものが多いんだよね…。


会場入りすると、わりと真ん中後ろくらいの整理番号だったにもかかわらず、え?近くない?大丈夫?となるステージとの距離感(1F席)。

ライブが始まって本物のメンバーが出てきてからも、あまりにも普通に姿が見えちゃうので、なんだか現実という感じがせず立体投影の動画でも見てるような心地がした。未だに夢か幻かみたいな感じがする。


MCはひたすらおもしろい。オーケンが喋るとみんなが笑う。だんだんネジが外れてきて世迷言を言い始めたり、人のいいお兄ちゃんに戻ったりとテンションが忙しい。ふーみんのことをひらパー兄さんって言ってたの枚方が身近な私としては地味にツボにクリーンヒットした。

なんか今日は終始「ボヘミアン・ラプソディ」の話ばっかりしてた。筋少が映画化したら今夜こそが映画の山場!発言を心にもないおためごかしと自分で言っちゃうオーケン。山場じゃなくてもいいから冗談抜きで映画化してほしい…。10回観に行くのに。

あと、来年じゃなくて今年の紅白にねじ込んでやろうぜ!とか始球式とか。笑いすぎてほっぺたが痛くなった。舞台上でわちゃわちゃするおっちゃんたちがかわいすぎる。国の特別天然記念物に指定すべき。


では曲ごとの感想行きます。やっとです。どんだけスクロールしても終わらない記事になりそうだなあ。


「オカルト」:「セレブレーション」をバックに入場してきたと思ったらまずはオカルト。結構好きな曲。CDまんまの声で(そりゃそう)感動した。オーディエンスがちゃんと拳を振り上げるべきところで振り上げる(そりゃそう)のでまたも感動した。何かここにいる人たちは全員この曲をちゃんと聴き込んで来てるんだ(そりゃそう)ということに胸が熱くなった。そして生まれて初めてこんなに大勢の人の中で浮いてないというものすごい安心感。ああ さよなら人類 献杯


「暴いておやりよドルバッキー」:2曲めからいきなり昔の曲やってくれてあっそういう感じなんだ!?とブチ上がるテンション。そりゃさすがにザ・シサだけしかやってくれないことはないと思ってたけども。いい意味で予想を裏切られた。バッキーバッキードルバッキー。最後の「ニャー!」が楽しい。


「I, 頭屋」:MCが30周年の話になったからだったかな?このあとなるんだっけか?(順番の記憶がガバガバ) サビの「まあだだよ」が楽しい。


「衝撃のアウトサイダー・アート」:ザ・シサの中で一番楽しみにしてた曲。最初のコーラスをちゃんと覚えれててよかった…。


ネクスト・ジェネレーション」:そんなには気になってなかった曲だけど、ライブで聴いて意外と音数多っ!好き!と思った曲。「向日葵」のくだりのライトアップが黄色系だったところは狙ってやってるんだよねとワクワクした。恐るべし遺伝子。


マリリン・モンロー・リターンズ」:うまいことMCから繋がるの巻。若干歌詞覚えてなくて焦った。最後らへんのリターンズ!が楽しい。


「ゾンビリバー」:これもかなり楽しみにしてたので楽しかった(語彙力)。超絶技巧が生で聴けて嬉しい。セリフ部分の掛け合いもよい。ロイロイロイヤボート!


「イワンのばか」:「イワンのー?」「ばかー!」新曲が嫌なわけじゃないけど、新曲もいいんだけど、でもやっぱり昔の曲ってのはテンションが上がる。リアルタイム世代じゃないけどね。


「人間のバラード」:筋少でやったことのない曲をオーケンが弾き語りでやるというのでざわめく会場。曲名が発表されるとどよめく客席。初参戦でもわかるくらいのレア曲を堪能できた。私疾走感フェチだから基本的にバラードってのんびりしてて苦手なんだけどオーケンの歌うバラードは大丈夫。


「夜歩く」インストゥルメンタルバージョン:楽器隊が衣装替えして出てきた。超絶技巧が生で聴けて嬉しいその2。私インストゥルメンタルもすっごい苦手なんだけど筋少の弾くインストゥルメンタルは大丈夫。


「なぜ人を殺しちゃいけないのだろうか?」:この辺で確かオーケンが衣装替えして出てきた。そんなには気になってなかったけど以下略その2。「Q!」と「Answer!」の回数を覚えられない。人が殺されるとめんどくさい!


「宇宙の法則」:キラキラソング。うつくしい。ちょっと穏やかな曲が続く。リズムが変わるところでノリがよくわからず若干変な感じになってしまうオーディエンス。


「ツアーファイナル」:ライブのシメに聴ける日をずっと夢見てきたけれど、いやまさか中間の曲として出してくるとは。それは予想外だった。

この曲は初めて聴いた時から、「純白のライトに後ろからカッと照らされた状態でステージに立って歌い上げるオーケン」のイメージがすごくあって、今回のライブでのツアーファイナルはまさにそのイメージ通りそのまんまだったから本当に涙出そうになった。


「バトル野郎」:熱い曲が続きます。フリが決まってるぽくて戸惑う新参。でも楽しい。この曲長らくあんまり聴いてなかったけどやっぱりいいなー。よさを再発見。


「再殺部隊」:ふーみんがアコギに持ち替えたから何が起こるんだろうと思って固唾を飲んで見守ってたら再殺部隊始まって鳥肌立った。DEATH!HEAVEN!LIVE!

この曲もいつか生で聴きたい曲リスト上位の曲だったからほんとーーによかった。オーケンが途中の長セリフで堂々とカンペを持ち出し、なおかつその上で噛みたおすのでふふってなった。


「釈迦」:ラストソング。超楽しいー。いつか生で以下略その2。フィーリングのまま叫んだり折り畳んだりしてたらそれで大体合ってた。シャララシャカシャカ!


「機械」:筋少コール巻き起こってからのアンコールその1。めちゃくちゃ焦らすやんと思ったらお着替えタイムだった。憧れの特攻服姿のオーケンが拝めて幸せだった。いつか生で以下略その3。


「ディオネア・フューチャー」:アンコールその2。真のラストソング。いつか生で以下略その4。「無意識!電波!メッセージ!脳!wi-fi!」が楽しい。ちょっと歌詞忘れてた。覚え直します。


とにかく新曲と昔の曲のバランスが絶妙だった。中でも後半の流れは神懸かってた。死ぬまでに絶対生で聴きたい曲第1位(無論「小さな恋のメロディ」)は残念ながらやってくれなかったけど、いつか生で以下略がいっぱい聴けたから、私今日多幸感でラリって死ぬのでは…?と思った。途中で卒倒しなかったのが奇跡だよ。


でも、さんざんこの日1日叫んでみて思ったけど、というか普段からカラオケに行ってて薄々思ってたけど、やっぱり基本筋少にはおっさんコーラスだよなー。自分の、女子の声で合いの手入れてもどうもいまひとつ。いや楽しいのは楽しいけど、やっぱり野太い声の方が明らかにサマになるんだよね…。

私はおっさんになりたい。ライブとカラオケの間だけ。切実に。テクマクマヤコン テクマクマヤコン おっさんにな〜れ。(何歳?)