つらまりブログ

つらまったりもしたけれど、私は元気です。

生も死も、全てペテン

昨日は久々に上司からの結構でかい怒られが発生したため自殺の機運が高まったが、なんとか死なずに家に辿り着いた。


私の対鬱気分安定に一番効力を発揮しているおくすりであるところのスルピリドを、副作用がきついため現在やめていく方向で断(た)っているので、何か気分が落ち込むようなインシデントが起こったとき下支えになってくれるようなものがなくて些細なことで簡単に心が折れる。いやまあたぶんスルピリド飲んでたとしても死にたくなってたけれど。


私は職場で精神障害を限定公開しているので、当の上司も私のメンタルの弱さは知っているはずなのだけど、あんまり何か配慮してくれている気配はない。大丈夫そうに見せることにかけては私は天才的な才能を持っているから、それに騙されているのかも。まさかちょろっと言っただけで真剣に死ぬことを検討し始めるとは絶対に思っていないだろう。

まあ特別扱いを望んではいけないのかも。


昨日怒られによるしにたみ発作が起こったとき、私がこの衝動に負けたら一般的に考えて彼はたぶんこの先一生引きずるのかもしれないなと思って、なんだか可哀想なような、申し訳ないような、そんな気分になった。


そりゃあ今回の発作の直接の原因は上司だけど、元はといえば私がちゃんとしてなかったのがもっとそもそもの原因なので、私的には自分で原因を作って自分で死んでいくだけなのだけど、外から見るとそうは見えまい。


いや、上司に限らずたぶん周りの人たちになんらかのダメージを与えるのだろう。基本的に私が死にたくなるときというのは自己嫌悪の極致に達するか、生の苦痛に絶望するかしたときのどちらかであって、他人が原因の一端になることなどなく、自分の中で完結しているのだけど、おそらくそれはわかってもらえない。


私は自己肯定感が低いので、素朴な感覚としては、言うてもそのうち私のことなんて全員きれいさっぱり忘れてしまうだろうと信じているけれど、実際はたぶんそうではないのだろう。

私の自己肯定感の低さは筋金入りで、色々エピソードとか考えてることとかあるんだけど、この話題に関しては、一時期、ドナーカードを作る→自殺する→全身の臓器を提供する→こんな私でも世の中の役に立てる!とかわりと本気で思っていたというのがある。まあ、現実的には自殺で死ぬと色々時間がかかってしまってうまいこと使えないようなのだけど。つらい。


あと、私は自分が死んだ場合にその身体を丁寧に扱ってほしいという願望がない。というかむしろ損壊してもらって構わないくらい。

悲惨な事件なんかで遺体がバラバラにとかいう話を聞いても、生きたまま解体されるのは絶対に嫌だけど、死んでるんだったら別に私はいいけど…としか思えない。

まあでも遺族からしたらショックということなのだろう。私も知ってる人の遺体が損壊されてるのを見たらかなりショックを受けるだろう。……やっぱり私はかなり自己中心的なのかも。

この辺の話は一度ツイッターであまり人間味のない人たち(悪口)と話して、ほのぼのいい人キャラの私がそういう人間味のないことを言うんだと少し盛り上がった記憶がある。

あ、献体に登録すればいいのかな。


話が逸れた。

やっぱり一般的なことを考えると、人が一人自殺するということは、周囲に大騒ぎを引き起こすはずで、でもその実現可能性があまりに大きすぎて…というか私こそが引き金であって私が耐えればそれは起こらない、しかし安全装置があまりにもゆるゆるで、それが恐ろしい。私一人だけが平穏な日常を脅かすものの存在を知っているというか、私自身がその存在なのだった。


そのくらいしにたみ発作の衝動は強く、簡単に流されそうになる。いつも首の皮一枚で保っているにすぎない。紙一重で回避できているにすぎない。

都会の長い電車は巨大な蛇の王バジリスクで、ホームに入ってくる先頭車両の睨みを受けるとしばしば反射的に発作が起こる。いつのまにか電車は私の中で自殺の象徴になってしまっている気がする。仕方がないので足を動かさないように意識しながら目を逸らす。気をしっかり持っておかないと吸い込まれてしまう。


死ぬことが良いとか悪いとか説かれても、そこにたしかに衝動が勝手に発生するのだからとりあえず仕方がない。自分にはどうしようもない。

理詰めの説得にしてもハッピーポエムにしても、よくある引き止めフレーズで心に響いて衝動を消してくれたものというのは今の所存在しない。むしろああいうのに接してしまうと誰もわかってくれないという気持ちになるためかイライラしてしまうぐらいだ。


そういうよくある言葉を避けて、ネットの海に潜って私と同じ感じの希死念慮を持っている人を探していたとき、「性格としての希死念慮」というどこかの大学で書かれた短い論文?を見た。それが今のところ一番私の感覚にフィットする。今は元のサイトがなくなってしまったようだけれど、転載している人がいたように思う。


ここまで多分他の人から見るとものすごい暗くてどす黒い闇に見えるだろう話を書き散らかしてしまっているけれど、私の素朴な感覚では別にそんな大したことじゃなくて、もっとこう日常的でカジュアルなエッセイのつもりなのだ。


死にたがっておいて意外に思われるかもしれないけれど、実は私はたいていいつも幸せを噛みしめている。毎日結構充実しているし、自分の人生に対する満足感のようなものがある。矛盾するようだけど、憂鬱と幸福感は同居する。100万円あげてハワイにでも飛ばせば鬱は治ると誰かが言っていたけど、幸福度を上げてもあんまり関係ないと思う。効く人には効くのかもしれないけど。


私にとって生きることそのものの苦痛は想定される全ての幸福を凌駕する。


この人生はもうダメだ。基礎苦痛ポイントが高すぎる。希死念慮が消えるには別の人間として生まれる必要がある。それは人生がいい方向に変わるのとは違う。そもそもこの人生はすでにめちゃくちゃ順調なのだ。もう良くする余地がない。

ただ一つ選べるなら、生まれてきたくなかった。


こんな風に希死念慮についてならいくらでも語れるくらい死にたがりな私だけど、死に伴う苦痛は受けたくなくて、そのことがなんとかストッパーの役目を果たしているところがある。

他者へ迷惑をかけることの重大さも、他者との繋がりも、現世の幸せも、衝動の前にはほとんど無力で、ただ苦痛は嫌というそれだけが、いつも衝動に抗う最初で最後の砦だった。


なので安楽死というのは希望の光だ。でも海外でしか認可されてなかったり、あとこれがムカつくんだけど、メンヘラは適用してもらえなかったりする。問診や既往歴などで弾かれるようだ。想定される適用層は不治の病で身体がしんどいみたいな人らしい。精神の苦痛は苦痛ではないのだろうか。というか私とかは精神の問題で身体もしんどいけどそれでもダメかな。精神障害って治らないし。いつも安楽死のニュースを見ては、精神の健康が条件に含まれており、はい解散解散となってしまう。


誰にでも死ぬ権利が、自分の人生を自分の手で苦痛なく終わらせる権利が認められていいはずだと思うけれど、なんで生に繋がれていなければいけないんだろう。

安楽死基本的人権として認められるその日が来るのをずっと待っている。


ちなみに服薬以後一晩寝ると発作は収まるようになったので実は今はそんなに切迫した死にたさはない。結局なんだかんだ言って死ぬの(に付随する苦痛)は怖いから、外的要因で死ぬまで、苦しみながら生きるんだと思う。

とりあえず普段よく考えることを文字起こししてみただけだからあまり心配しないでほしい。

いつも通り、この文章がいつか同じことを考えている人の救いになれたらそれでいい。