さらば目に映る総て達

今度は高3後期編です。フィナーレ。


今度こそちゃんとした目標のようなものができて、一時的に多少元気になった。そうは言っても予備校に通う元気は出ず、我も我もと予備校に通い始めるクラスメイトたちを尻目に、私は山のように来る予備校からの招待状(進学校の生徒は進学校の生徒であるというだけで大手予備校から引く手数多であり、入学金を免除するだとか、授業料を割り引くだとかの特典のついたダイレクトメールが死ぬほど送られてくる)を全部ケシポンをかけて古紙回収に出していた。


私はほとんど遊ぶことなく勉強ばかりして過ごした。その頃の楽しみはといえば、ひょんなことから仲良くなったクラスメイトの男の子との絡みだった。もちろんあまり多くはない同性の友達と普通に過ごすのも楽しかったけど。

彼とは謎にLINEだけしたり(学校ではそれぞれの同性の友達といた)、彼の趣味のサポート(彼は面倒だからと隠しているが、とある趣味で世界レベルの腕前を持っていて、大会で学校を休むことがあり、その間のノートを取っておいてあげたりした)をしたり、青春にしては微妙な青春を送った。

別にその子のことが好きだったわけではないし、結局そんなに性格も合わなかったので今では疎遠だ。でもまあ不思議な思い出の一つとして頭の片隅に転がっている。


日が短くなっていくにつれて、私は一人で過ごすことが多くなった。友達がいなくなったわけではなくて、本当にみんなして放課後は塾に行ってしまうので、あまりだべったりするような感じにならないのである。私の精神状態もかなり悪かったし。その代わりに、私は学校の自習室や図書館に引きこもって勉強した。たまに誘惑に負けて帰ったり、今日はいいやと寄り道して雑貨屋さん巡りをして帰ったり(今雑貨屋で働いているのは、このとき雑貨が好きになったことが大きい)という日もあったけど、基本的には毎日、居残って勉強して帰る生活をしていた。それでも成績は少しずつ下がっていったし、朝は起きられなかった。毎日毎日滝のように降り注ぐ課題の雨をとりあえずこなすことに精一杯で、ちゃんと身についている実感が全くなかった。どうせぽろぽろとこぼれていくんだろうと、もはや少しでも拾いに行こうという気を失いつつあった。


かなり寒くなってきた11月のある日だったと思う。「ペテン師の 最期に見る夢は 11月の森の向こうへと」という「ペテン師、新月の夜に死す!」の一節がこの思い出には絡みついている。能力と前途のある若者のふりをしている私はペテン師なのだ。オーケンはよくペテン師を歌詞に登場させる。

その頃はもう相当頭がおかしくなっていて、鬱でほとんど生きる屍のようになりながらそれでも毎日勉強はしていた。いや、勉強をサボって苦痛のない死に方をググっては、それを陶然として読み漁り、時間を忘れた。

それ以外の時間は、鬱が脳を支配していて、あんまりまともな考え事ができなくなっていた。私はわりと言語で考えるタイプなのだけれど、その思考の文章の文節ごとに、死にたいとか生きていてはいけないとかそういう鬱ワードが自動挿入されてしまい、まとまった意味のあることを考えるのに多大なエネルギーが必要になるようになってしまっていたのだ。

視界は濁った灰色で、どろりと空気は重く、ただ生きているだけで疲れ果てた。死ぬことだけが心の支えだった。でも流れに逆らう力が弱いので、そのまま流されて生きていた。

でもその日は、いつものように勉強して帰って、詳しい流れは忘れたけど、自分の部屋でベルトをベッドの柵にかけて、首を吊ろうとした。そのとき階下で母親が何か家事をしているような気配がした。親が悲しむとかはもうその頃からあまり考えていなかったけど(関係がそんなによいわけではないので)、見つかったら大騒ぎになるなあとか、途中で止められたらどうしようとか、そんなことがわーっと頭を駆け巡り、いやそんなことより死ぬのは怖い、とふと気づき、輪っかを頭から外した。

ちょっと目が覚めた感じがした。

また次の日から、何事もなかったかのように過ごした。誰も何も気づかなかったし、特に心配されるようなこともなかった。やっぱり私はまともぶることにかけては天才なのだろう。


ぬるい自殺未遂から生還したあと、あることを閃いた。何も現役で進学しなくてもいいのではないか。今年は浪人前提で受験し、一年かけてゆっくり準備し、万全の状態で「本番」に向かえばいいのではないか。なんで今までそんな簡単なことに気がつかなかったのだろう。私は久しぶりに、うきうきしたような気分となった。少し生きる気力が湧いた。

しかし後で親に聞いた話だと、私が浪人すると言い始めたころは悲壮感がすごくて心配したと言っていた。

この人たちの目は節穴なんだと思う。


たしか面談の機会があったとかで、担任に浪人することを相談した。今年も真面目に全力でやるけれど、滑り止めの私立は受けないし、本当のゴールは1年先に置く、と。担任はその決断に反対するようなことはしなかった。たぶん、現役合格が危ういくらいに私の成績が下がってきていたからだろう。普通のマーク模試や記述模試ではDとかEとかの判定を取りまくっていたし、その大学を志望する人のための特別な模試も大概ボロボロだった記憶がある。


気温が下がるにつれて、私たちはより多くのマークシートを塗りつぶすようになった。センター対策である。学校でも1教科1年分の問題を本番さながらに解いたりとか、さらには授業をぶちぬいて全教科1年分の問題をぶっ通しで解いたりだとか、そんなことをやるようになった。冬休みもひたすらセンターの過去問を解いた。友達とLINEでいっせーのーでで問題を解き始め、所定の制限時間後に点数を報告し合うようなこともした。1教科1年分やるのに最低でも50分かかるから、すぐに勉強時間がかさみ、1日10時間ほど机に向かっていることも多くなった。集中がなかなかもたないからと自分をベルトで椅子に縛り付けてみたこともあった。これが意外と集中できてよかった。


センター本番は、大荒れの年だった。普段の傾向と全く違う問題が出たのだ。のっけから随筆。動く点P。聞いたこともない哲学者。それに加えて集中力をかき乱す些細なツッコミどころの数々。シイゼエボオイ、エンドゼエガアル。スピンスピン。そうあの年度です。

だが私は緊張のあまり逆に動揺することなく、何かそれはそういうものとして冷静に解いていた。

自己採点の結果、結果は7割6分。もともと不安定だった数ⅡBが4割だったのが足を引っ張った。そもそも実力が大して無かったのもあるが、そのほかの教科もいまいちパッとしない。過去問ではほぼ毎回満点を取れていた得意教科の地学でなぜかミスをして9割しか取れていなかったのも残念ポイントだ。コケたと言って差し支えない結果だと思う。

志望校志望学部の去年のボーダーは8割5分。問題傾向の変化から、大手予備校のセンター自己採点集計サービスで算出された今年のボーダーは8割にまで下がったけれど、それでもかなり足りすにD判定。まあ、そんなもんだよな、と思った。

ちなみに3社分くらい自己採点集計サービスに出した(学校から出させられた)けど、1社に提出する科目のマークをミスってちゃんとした結果が返ってこなかったという不注意エピソードがある。結果見たときはセンターのほうを受け間違えたかと思って心臓止まりかけたよね…。先生も職員室で結果見て呆れてたんじゃないかな。


センターが終わってから数日して、友達3人とセンターお疲れ様会と称してお昼ご飯を食べに行った。そのときその3人の中でも一番頭が良く、噂ではこの辺で一番ハイレベルな大学にでも行けると言われているらしいという子が言ったセリフが強烈に頭に残っている。「何か、あんなに日本史とか頑張って全部覚えたのに、センターの1日で使って終わりって、もったいないよね」。

なんにも日本史を覚えていなかった私にはそんな感覚は全くなかった。なんなら私はセンター日本史はほぼほぼ勘で解いていた。このセリフに共感していた残り2人の友達たちも、私のはるかかなた上の高みに到達していたのかと思うと、その場から消えてしまいたくなった。あと1年かけて、ちゃんと勉強し直したいなあと心の底から思った。「そうだ!撮り直すんだ!人生は映画なんだ!」「君の人生を撮り直すんだ!今度はハッピーエンドだ」。「リテイク」の一節が頭に浮かんだ。


センターが終わるとすぐに前期試験の日がやってきた。私は捨て身で来ているので何も怖いものなどなかった。それにしても出来上がった答案がかなり白紙だったのでさすがに恥ずかしくなった。それでも後で返ってきた試験の結果を見てみると下にまだ100人近く人がいたので、自分のことは棚に上げてオイオイちゃんと勉強して来いよ〜と思うなどした。もちろん前期試験は落ちていた。


前期試験が終わると次は後期試験、小論文である。前期試験直後は小論文が何なのかもよくわからないレベルだったが、図書館で見つけた指南書と、先生の特訓指導に助けられた。

指南書で何をすべきかを掴むと、後は持って生まれた言語能力の高さで乗り切ることができた……と言いたいところだが、ワーキングメモリのなさと処理速度のとろさのせいで、紙に手書きで頭から順番に書いていく形で文章を書いて仕上げるのはめちゃくちゃ苦手なのである。最初は3時間でやらなきゃいけない問題を全部解くのに8時間ぐらいかかっていた。しかし、先生に何度も添削してもらううち、かかる時間が半分くらいになってきた。それでも、3時間は切れないでいるうちに、後期試験の日がやってきた。


そのとき出題された問題は、わりと私の趣味のフィールドの問題だった。いける、と思った。人一倍小高いケシカスの山を作りながらも、なんと5分残して全ての問題に答えきることができた。


とりあえず、全てが終わった。浪人すると決めたのだから始まりでもあるのだけど、とにかく今はほっとしていた。

緊張の糸がぷつんと切れた。

次の日から2週間ほど、私は狂ったように活動し始めた。もう制服を着られなくなるからたくさん服がいるなあと思って服を買いに行くことにしたところまでは覚えているけど、気がついたらいくつも店を回って何万円も服やら鞄やらを買うのに使っていた。コミュ障ゆえ苦手だった店員さんとにこやかに喋りまくり、オススメのコーディネートを聞いていた。行ったことのなかったオシャレ美容院にも行ってみた。そこでも別人のようによく喋った。

世界が輝いて見えた。楽しくて仕方なかった。

これが後々精神科で喋ったら一発で軽躁認定されて双極性障害Ⅱ型の診断が降りたエピソードである。私は文字通り狂っていたのだった。

ここまでちゃんと軽躁してたのは幸い後にも先にもこのときだけだ。


浮かれた日々を過ごしていた私だったが、ある日奈落の底に突き落とされる。合格発表の日である。

今日日いちいち現地まで出向かなくても大学の公式サイトに合格者の受験番号が出るようになっている。その日も朝のんびり起きて、発表時間をだいぶ過ぎてから何の気なしに公式サイトを見てみたのだが、なんとそこには自分の受験番号が載っていたのだった。

それを認識した瞬間、自然と涙が溢れてきた。もう私はやり直すチャンスを永久に失った、と思った。嬉し涙ではなかった。辞退しようかとさえ一瞬思った。でもそんなことができるわけがない。

ひとしきり泣いてから、親に受かってたと言いに行った。ほどなくして分厚い封筒が家に届いた。諸々の手続きまでの時間があまりに短くて、それからは大忙しになった。


結局、蓋を開けてみると、センターは合格最低点ジャスト(!)、二次は最高点に次ぐぐらいの点数となっていて、ギリギリ一桁順位で通っていた。まあ分母が数十人とかなのだけど。


4月に入ってしばらく経つと、いろんな噂が聞こえてきた。同じ大学同じ学部を志望していた友達が前期で落ちて後期で別の大学に行った。センターの後お疲れ様会をした3人のうち2人も第一志望には入れなかった。クラスの中で一番頭がいいと噂されていた男の子も結局落ちて私立に行ったという。地元の友達も複数玉砕していた。同じ高校に行くはずだったあの子が第一志望に落ちたと聞いたときは堪えた。

私より頑張っていたであろうみんなが落ちて、ろくに何も身につけられなかった私が小手先と付け焼き刃でひとり受かっていた。


蜘蛛の糸を昇った末に辿り着いた世界は、どうしようもなく残酷だった。


(おしまい)