つらまりブログ

つらまったりもしたけれど、私は元気です。

モルヒネの麻酔のまぼろしさ

この間、トリイ・ヘイデン「シーラという子」を貸してもらって読んだ。訳書であるもののとても読みやすく、没頭して読める本だった。すごい勢いで読んだ。脳を壊してからというものそういう本に出会えるのはわりとレアなことだ。

没頭できたのは読みやすさのためだけではなく、その名前がタイトルにも入っている子供・シーラの境遇や気持ちにかなり共感できたからでもあった。

非常にざっくりとあらすじを説明すると、主人公は特別支援学級の先生(作者=トリイ)で、彼女が受け持つクラスに手のつけられない子供(シーラ)がやってくる。シーラが異常なまでに凶暴で反抗的だった背景には虐待などの不幸な生い立ちがあった。トリイは悪戦苦闘しながらもシーラと信頼関係を築き、やがてシーラも心を開いていく…といった感じ。


この辺からネタバレ及びどす黒い長文になっていくのだけど、途中でシーラが高IQ児であることが判明する。共感ポイントその1。まだ6歳であるにもかかわらず、大人が読むような雑誌から難しい単語を吸収していたり、複雑な文法を使いこなしたり。


私もかつて8歳くらいで家にあった「本当は怖いグリム童話」とか「快楽殺人者の心理」みたいな分厚いハードカバーの本を読んで(うちの親もなかなかのブラック趣味なのでは?)まあまあ理解できた記憶がある。ただし、性的なことを言っている部分はさすがになんとなくしかわからなかったが。でもそういう単語があるんだなってことだけは覚えた。なので私のそっち方面の語彙はまず漢語から蓄えられていった。

それとか、幼稚園や学校で作文とかさせられるときに、他のみんなは主語と述語のねじれた文をよく作っていたが、私はいち早くその辺気づいていて、なぜみんな平気で無頓着にも文をねじれさせるのかとぷんすこしていたぐらいだ。


また、シーラは母親に捨てられている。そのせいで母親に愛されていないと思っている。何を思って、どういう理由で母親がシーラを捨てたのかは作中でも不明のままだが、とにかくそのせいでシーラの愛着は壊れている。そして、ひとたびトリイが自分を大事にしてくれる存在だということがわかると、今度は完全に依存してしまって、少し離れるだけで恐慌状態に陥ってしまうくらいになるのだった。共感ポイントその2。


まあ自分のケースだと表向きは円満な家庭で育ったからここまでひどくはないのだけど、やっぱり私の愛着もわりあい壊れていて、仲の良い人と会ったり長電話したりというときに、別れたり切ったりするのにものすごく抵抗がある。またじきに会える/話せるとはわかっていても、この世の終わりかというほど寂しくて死にそうになる。しかしどうやらまともな家庭で育った人にはなんでそんなに寂しがるのかさっぱり理解できないようだ。


うちの家庭にはあまり優しさや気遣いというものがない。例えば、風邪を引いて寝込んだとしたら、たしかに病院代や薬や世話自体は用意してくれるし、そこが恵まれていることは重々わかってはいるのだが、基本的にまずは怒られる。寄り添うというより突き放すような言動をしつつ、看病をしてくれる。一事が万事そのような調子なものだから、小さな責められが積み重なってボディブローのように効いてくる。割り切って仕事でやってるんじゃないんだから、土台に思いやる気持ちがあってこその看病という行動なのではないんだろうか。

一度この件については話し合ったことがあって、私が「友達はみんな風邪を引いたら優しい言葉をかけてくれるけど、うちの家族の中にそういうのがないのはなんで?」と聞いてみたら、「友達は口だけで何もしないでしょ、家族だからお金も出すし看病もする」といったようなことを言われた。

なんというか、情緒的な絆を軽視して、物質的なつながりばかりを重視しているような、変な回答だなと思った。家族というのは戦略的互恵関係であるべきなのだろうか?結局その話し合いは平行線になったので諦めた。


まあ風邪なんかたまにしか引かないからいいけれど、もっとしんどいのが、私の障害について特に心配する素振りを見せてもらえないことだ。安定している今はともかくとして(それでも疲れ果てて月に何回かは1日に20時間近く寝てしまうことを怒られているのだけど)精神科に通い始めたころに一度はっきり見てわかるレベルで潰れたことがあって、そのときは泣いてつらさや希死念慮を訴えたのに、特に何も変わらなかった。正直これは「別にお前が死んでも構わない」というメッセージだとしか受け取れない。

私の感覚では、自分の子供が病気になったとしたら、心配になって、病気のことを分かろうと必死に情報を集めたり勉強したりし始めるものではないかと思っていたが、どうもそうではないらしい。

小さい頃喘息でほぼ毎日軽い(入院しないで済むという意味で、夜寝れない程度ではあった)発作を起こしていたときも、特に気持ち的に寄り添ってもくれなかったし、勉強してくれたような様子もなかった。

急に過眠になって毎日床に倒れこんで寝ていたときも、心配するよりも叩かれて怒られた。

ある種のネグレクトだと言って差し支えないのではないかと思う。

精神的ネグレクト。


またうちの親は褒めるということもあまりしない。例えば、テストで98点を取ったとする。それを見せると、まず「どこ間違えたの」と聞かれる。うちの親にとって、98点のテストは、98%も得点できたテストではなく、2%も減点されたテストなのだった。たまに珍しく褒めたとしても、「なんだ、やったらできるんじゃん」というようないまひとつ素直でない褒め方をする。


この「やったらできるんじゃん」というのは、言った相手をすごく苦しめる言葉だと思う。この言葉を言われるたびに、そこが当然クリアするべきラインに変わる。それまでのハイスコア地点に次の回のゼロが移動するのである。

それがどういうことか、わかりやすいのかわかりにくいのかよくわからない解説を書いてみる。

あるゲームを50回行い、1回成功すれば1ポイント貰えるとする。1セット目は頑張って10回成功し、2セット目は2倍頑張って20回成功し、3セット目は3倍頑張って30回成功したとする。普通に考えれば頑張りに応じて1セット目は10ポイント、2セット目は20ポイント、3セット目は30ポイント貰えることになるはずである。しかし、2セット目や3セット目は「1セット目で10ポイント取れてたじゃん」ということでゼロを10ポイントのところまで動かされてしまい、それぞれ10ポイントや20ポイントしかもらえない。3倍の頑張り(10回が30回になった)をしてようやく2倍頑張った(10ポイントが20ポイントになった)と認めてもらえるということだ。そしてもちろん、次は「あ、20ポイント取れるんだね」とそこが次のゼロになる。そうなると、もはや10回の成功は成功ではなく、マイナス10ポイントの失敗ということになる。

おわかりいただけただろうか。要はハイスコアとの比較しかしてもらえないということだ。

そして私の場合、一番の得意分野が学校の勉強だったために、ハイスコア=限界値=100点ということとなり、こうして100点を取っても喜べずに安堵するだけ人間が爆誕したのであった。

学校では随分といろいろ言われた。90点台で喜ばないのは90点台を取れない人からするとムカつくらしい(それはそう)。でもうちでは90点はマイナス10点なんだから、そんなに喜べる結果ではないのだ。


話が逸れたが、こんなのだから私の愛着は壊れている。温かさや安心や頑張りに応じた褒められをもらえずにきたのだから、当然のことかもしれない。「つらいときには、過去に受けた家族や友人や恋人からの(広い意味での)愛を思い出すと、心の支えになってくれる」というようなことを本の中でトリイ先生はシーラに言っていたが、私はその話をされた当時のシーラ同様、それを全く理解できないでいる。心の中に帰るべきところなんてものはない。過去の愛とはすでに過ぎ去ってなくなってしまったものであって、何かが残るわけではない。今現在愛を受けているかどうかが全てだ。そんな感覚がある。だから仲の良い人と過ごしたときの別れ際=愛の供給のストップがとてもさびしい。


さらに温かさの代わりに冷たく責められ続けてきたためもあってか、自己肯定感がものすごく低くなってしまった。自分はヒトだ、というのと同じくらいすごく基本的で素朴な信念として、自分はゴミだ、という気持ちを抱いている。それが邪魔して、誰かから褒めてもらえるとまずは不信感が顔を出す。心ここにあらずで聞き流してしまう。それではいけないと最近少しずつ受け取るよう努力してきたけれど、頑張って飲み込んでも吐き戻してしまう。


自己肯定感を高める、とかでググると、「自分で自分を褒めてあげましょう」みたいなアドバイスしか出てこないけれど、そんなこと想像するだけでしんどい。拷問みたいなものだ。それでいつも画面をそっと閉じる。そんなしんどいやり方でしか改善できないんだったらこのままでいいやと思ってしまう。もっとこう、足のこのツボを1日5分押し続ければ3週間で自己肯定感がアップしますみたいな、そんなあやしいダイエットの広告みたいに事が運べばいいのに。


まだまだ色々プチ毒親エピソードは山ほどあるけれど、書いていたら人生初期値の失敗具合にしんどくなってきたので今日はこの辺でやめる。

さらば目に映る総て達

今度は高3後期編です。フィナーレ。


今度こそちゃんとした目標のようなものができて、一時的に多少元気になった。そうは言っても予備校に通う元気は出ず、我も我もと予備校に通い始めるクラスメイトたちを尻目に、私は山のように来る予備校からの招待状(進学校の生徒は進学校の生徒であるというだけで大手予備校から引く手数多であり、入学金を免除するだとか、授業料を割り引くだとかの特典のついたダイレクトメールが死ぬほど送られてくる)を全部ケシポンをかけて古紙回収に出していた。


私はほとんど遊ぶことなく勉強ばかりして過ごした。その頃の楽しみはといえば、ひょんなことから仲良くなったクラスメイトの男の子との絡みだった。もちろんあまり多くはない同性の友達と普通に過ごすのも楽しかったけど。

彼とは謎にLINEだけしたり(学校ではそれぞれの同性の友達といた)、彼の趣味のサポート(彼は面倒だからと隠しているが、とある趣味で世界レベルの腕前を持っていて、大会で学校を休むことがあり、その間のノートを取っておいてあげたりした)をしたり、青春にしては微妙な青春を送った。

別にその子のことが好きだったわけではないし、結局そんなに性格も合わなかったので今では疎遠だ。でもまあ不思議な思い出の一つとして頭の片隅に転がっている。


日が短くなっていくにつれて、私は一人で過ごすことが多くなった。友達がいなくなったわけではなくて、本当にみんなして放課後は塾に行ってしまうので、あまりだべったりするような感じにならないのである。私の精神状態もかなり悪かったし。その代わりに、私は学校の自習室や図書館に引きこもって勉強した。たまに誘惑に負けて帰ったり、今日はいいやと寄り道して雑貨屋さん巡りをして帰ったり(今雑貨屋で働いているのは、このとき雑貨が好きになったことが大きい)という日もあったけど、基本的には毎日、居残って勉強して帰る生活をしていた。それでも成績は少しずつ下がっていったし、朝は起きられなかった。毎日毎日滝のように降り注ぐ課題の雨をとりあえずこなすことに精一杯で、ちゃんと身についている実感が全くなかった。どうせぽろぽろとこぼれていくんだろうと、もはや少しでも拾いに行こうという気を失いつつあった。


かなり寒くなってきた11月のある日だったと思う。「ペテン師の 最期に見る夢は 11月の森の向こうへと」という「ペテン師、新月の夜に死す!」の一節がこの思い出には絡みついている。能力と前途のある若者のふりをしている私はペテン師なのだ。オーケンはよくペテン師を歌詞に登場させる。

その頃はもう相当頭がおかしくなっていて、鬱でほとんど生きる屍のようになりながらそれでも毎日勉強はしていた。いや、勉強をサボって苦痛のない死に方をググっては、それを陶然として読み漁り、時間を忘れた。

それ以外の時間は、鬱が脳を支配していて、あんまりまともな考え事ができなくなっていた。私はわりと言語で考えるタイプなのだけれど、その思考の文章の文節ごとに、死にたいとか生きていてはいけないとかそういう鬱ワードが自動挿入されてしまい、まとまった意味のあることを考えるのに多大なエネルギーが必要になるようになってしまっていたのだ。

視界は濁った灰色で、どろりと空気は重く、ただ生きているだけで疲れ果てた。死ぬことだけが心の支えだった。でも流れに逆らう力が弱いので、そのまま流されて生きていた。

でもその日は、いつものように勉強して帰って、詳しい流れは忘れたけど、自分の部屋でベルトをベッドの柵にかけて、首を吊ろうとした。そのとき階下で母親が何か家事をしているような気配がした。親が悲しむとかはもうその頃からあまり考えていなかったけど(関係がそんなによいわけではないので)、見つかったら大騒ぎになるなあとか、途中で止められたらどうしようとか、そんなことがわーっと頭を駆け巡り、いやそんなことより死ぬのは怖い、とふと気づき、輪っかを頭から外した。

ちょっと目が覚めた感じがした。

また次の日から、何事もなかったかのように過ごした。誰も何も気づかなかったし、特に心配されるようなこともなかった。やっぱり私はまともぶることにかけては天才なのだろう。


ぬるい自殺未遂から生還したあと、あることを閃いた。何も現役で進学しなくてもいいのではないか。今年は浪人前提で受験し、一年かけてゆっくり準備し、万全の状態で「本番」に向かえばいいのではないか。なんで今までそんな簡単なことに気がつかなかったのだろう。私は久しぶりに、うきうきしたような気分となった。少し生きる気力が湧いた。

しかし後で親に聞いた話だと、私が浪人すると言い始めたころは悲壮感がすごくて心配したと言っていた。

この人たちの目は節穴なんだと思う。


たしか面談の機会があったとかで、担任に浪人することを相談した。今年も真面目に全力でやるけれど、滑り止めの私立は受けないし、本当のゴールは1年先に置く、と。担任はその決断に反対するようなことはしなかった。たぶん、現役合格が危ういくらいに私の成績が下がってきていたからだろう。普通のマーク模試や記述模試ではDとかEとかの判定を取りまくっていたし、その大学を志望する人のための特別な模試も大概ボロボロだった記憶がある。


気温が下がるにつれて、私たちはより多くのマークシートを塗りつぶすようになった。センター対策である。学校でも1教科1年分の問題を本番さながらに解いたりとか、さらには授業をぶちぬいて全教科1年分の問題をぶっ通しで解いたりだとか、そんなことをやるようになった。冬休みもひたすらセンターの過去問を解いた。友達とLINEでいっせーのーでで問題を解き始め、所定の制限時間後に点数を報告し合うようなこともした。1教科1年分やるのに最低でも50分かかるから、すぐに勉強時間がかさみ、1日10時間ほど机に向かっていることも多くなった。集中がなかなかもたないからと自分をベルトで椅子に縛り付けてみたこともあった。これが意外と集中できてよかった。


センター本番は、大荒れの年だった。普段の傾向と全く違う問題が出たのだ。のっけから随筆。動く点P。聞いたこともない哲学者。それに加えて集中力をかき乱す些細なツッコミどころの数々。シイゼエボオイ、エンドゼエガアル。スピンスピン。そうあの年度です。

だが私は緊張のあまり逆に動揺することなく、何かそれはそういうものとして冷静に解いていた。

自己採点の結果、結果は7割6分。もともと不安定だった数ⅡBが4割だったのが足を引っ張った。そもそも実力が大して無かったのもあるが、そのほかの教科もいまいちパッとしない。過去問ではほぼ毎回満点を取れていた得意教科の地学でなぜかミスをして9割しか取れていなかったのも残念ポイントだ。コケたと言って差し支えない結果だと思う。

志望校志望学部の去年のボーダーは8割5分。問題傾向の変化から、大手予備校のセンター自己採点集計サービスで算出された今年のボーダーは8割にまで下がったけれど、それでもかなり足りすにD判定。まあ、そんなもんだよな、と思った。

ちなみに3社分くらい自己採点集計サービスに出した(学校から出させられた)けど、1社に提出する科目のマークをミスってちゃんとした結果が返ってこなかったという不注意エピソードがある。結果見たときはセンターのほうを受け間違えたかと思って心臓止まりかけたよね…。先生も職員室で結果見て呆れてたんじゃないかな。


センターが終わってから数日して、友達3人とセンターお疲れ様会と称してお昼ご飯を食べに行った。そのときその3人の中でも一番頭が良く、噂ではこの辺で一番ハイレベルな大学にでも行けると言われているらしいという子が言ったセリフが強烈に頭に残っている。「何か、あんなに日本史とか頑張って全部覚えたのに、センターの1日で使って終わりって、もったいないよね」。

なんにも日本史を覚えていなかった私にはそんな感覚は全くなかった。なんなら私はセンター日本史はほぼほぼ勘で解いていた。このセリフに共感していた残り2人の友達たちも、私のはるかかなた上の高みに到達していたのかと思うと、その場から消えてしまいたくなった。あと1年かけて、ちゃんと勉強し直したいなあと心の底から思った。「そうだ!撮り直すんだ!人生は映画なんだ!」「君の人生を撮り直すんだ!今度はハッピーエンドだ」。「リテイク」の一節が頭に浮かんだ。


センターが終わるとすぐに前期試験の日がやってきた。私は捨て身で来ているので何も怖いものなどなかった。それにしても出来上がった答案がかなり白紙だったのでさすがに恥ずかしくなった。それでも後で返ってきた試験の結果を見てみると下にまだ100人近く人がいたので、自分のことは棚に上げてオイオイちゃんと勉強して来いよ〜と思うなどした。もちろん前期試験は落ちていた。


前期試験が終わると次は後期試験、小論文である。前期試験直後は小論文が何なのかもよくわからないレベルだったが、図書館で見つけた指南書と、先生の特訓指導に助けられた。

指南書で何をすべきかを掴むと、後は持って生まれた言語能力の高さで乗り切ることができた……と言いたいところだが、ワーキングメモリのなさと処理速度のとろさのせいで、紙に手書きで頭から順番に書いていく形で文章を書いて仕上げるのはめちゃくちゃ苦手なのである。最初は3時間でやらなきゃいけない問題を全部解くのに8時間ぐらいかかっていた。しかし、先生に何度も添削してもらううち、かかる時間が半分くらいになってきた。それでも、3時間は切れないでいるうちに、後期試験の日がやってきた。


そのとき出題された問題は、わりと私の趣味のフィールドの問題だった。いける、と思った。人一倍小高いケシカスの山を作りながらも、なんと5分残して全ての問題に答えきることができた。


とりあえず、全てが終わった。浪人すると決めたのだから始まりでもあるのだけど、とにかく今はほっとしていた。

緊張の糸がぷつんと切れた。

次の日から2週間ほど、私は狂ったように活動し始めた。もう制服を着られなくなるからたくさん服がいるなあと思って服を買いに行くことにしたところまでは覚えているけど、気がついたらいくつも店を回って何万円も服やら鞄やらを買うのに使っていた。コミュ障ゆえ苦手だった店員さんとにこやかに喋りまくり、オススメのコーディネートを聞いていた。行ったことのなかったオシャレ美容院にも行ってみた。そこでも別人のようによく喋った。

世界が輝いて見えた。楽しくて仕方なかった。

これが後々精神科で喋ったら一発で軽躁認定されて双極性障害Ⅱ型の診断が降りたエピソードである。私は文字通り狂っていたのだった。

ここまでちゃんと軽躁してたのは幸い後にも先にもこのときだけだ。


浮かれた日々を過ごしていた私だったが、ある日奈落の底に突き落とされる。合格発表の日である。

今日日いちいち現地まで出向かなくても大学の公式サイトに合格者の受験番号が出るようになっている。その日も朝のんびり起きて、発表時間をだいぶ過ぎてから何の気なしに公式サイトを見てみたのだが、なんとそこには自分の受験番号が載っていたのだった。

それを認識した瞬間、自然と涙が溢れてきた。もう私はやり直すチャンスを永久に失った、と思った。嬉し涙ではなかった。辞退しようかとさえ一瞬思った。でもそんなことができるわけがない。

ひとしきり泣いてから、親に受かってたと言いに行った。ほどなくして分厚い封筒が家に届いた。諸々の手続きまでの時間があまりに短くて、それからは大忙しになった。


結局、蓋を開けてみると、センターは合格最低点ジャスト(!)、二次は最高点に次ぐぐらいの点数となっていて、ギリギリ一桁順位で通っていた。まあ分母が数十人とかなのだけど。


4月に入ってしばらく経つと、いろんな噂が聞こえてきた。同じ大学同じ学部を志望していた友達が前期で落ちて後期で別の大学に行った。センターの後お疲れ様会をした3人のうち2人も第一志望には入れなかった。クラスの中で一番頭がいいと噂されていた男の子も結局落ちて私立に行ったという。地元の友達も複数玉砕していた。同じ高校に行くはずだったあの子が第一志望に落ちたと聞いたときは堪えた。

私より頑張っていたであろうみんなが落ちて、ろくに何も身につけられなかった私が小手先と付け焼き刃でひとり受かっていた。


蜘蛛の糸を昇った末に辿り着いた世界は、どうしようもなく残酷だった。


(おしまい)

冬は狐の革裘

今日は高3後期編じゃなくて号外。


異動することになった。

今までの環境は最高に好きだったけど、まあ仕方ない。


このタイミングで「ポケットに偶然入ってたんだ」って言いながら本当は用意しておいてくれた中原中也の詩集を餞に渡されたら泣くと思う。

なぜなら特撮に「じゃあな」というすごい好きなお別れの曲があって、そういう歌詞だから。

いつか誰か何かのときにやってくれないかなーと夢見ているけどまあそんな曲を知る人もなく…。


まあでもそうしてもらうためには、大丈夫だよと前を向いて歩き出さないといけない。

じゃないと呼び止めてもらえないから。

一生を闇の中で過ごすのか?

高2の夏である。

夏休みの宿題の一つとして、オープンキャンパスに行ってレポートを書けというものが出た。さてどこに行くか。

将来の夢というのも決まっておらず、志望校というほどの志望校もなく、それどころか志望する学部もなかったため(各学部が何をやるのかよくわかっていなかったので)、しばらく考え込んだ。

将来どういう仕事に就きたいんだ私は。いくら自問自答しても高等遊民になりたいという気持ちしか出てこない。

まあでもそれなりに現実と折り合いをつけて当時出した答えは「教師」だった。今にして思えば絶対向いてないしやめといてよかったんだけど、勉強の内容をうまいこと噛み砕いたり、人に何かを教えたり説明したりというようなことは好きだったので、それだけで教職に興味を持った。まあ身近だしね。


で、そうなるとまあ教育大かなあということになる。当時は心理学や教育学にも漠然とした憧れがあったので、そっちかなあという気がして選んだのだった。安直なことこの上なし。

親が買ってきた大学の選び方みたいな本をかなり鵜呑みにして考えていたけど、今思えばあの本はゴミだった。


それでまあ近場の国立の教育大にとりあえず出かけてみたのだった。あんまり好きな雰囲気ではなかった。高校にある程度感じたがっかり感みたいなもののもっと濃いやつがまとわりついていた。なんだかいわゆるキラキラフワフワしたキャンパスライフの匂いがして吐きそうになった(クソ根暗なので)(もっと人間力のある人には素敵な環境なんだと思う)。もっとこう私は凄味のようなものを欲していたのだけど、そこにはなかった。でも、大学ってまあそんなものなのかな、と思った。

体験講義を受けたが、ネタが高校で聞いたものとダダ被りしていてつまらなかった。

しかし私は生粋の受動型で、与えられた嫌なものを嫌と感じる感覚が大部分欠如していた(今はマシだが今もあやしい)ので、そこを志望することにした。(志望とは?)


それからの模試の志望校欄にはそこの名前を書いた。

頭はだいぶ壊れてきていたので勉強していても何も覚えられないし、模試本番では自信のない答案ばかり生成していたが、A判定ばっかり取れた。そもそもそこのレベルがそうめちゃくちゃ高くもないということもあったけれど、いつも手応えを成績が上回るのである。


まあでもこれはそんなに不思議なことではない。高2といえば部活の全盛期。世の中の多くの高2生は部活部活で勉強どころではない。それがいいことなのか悪いことなのかは今は置いておいて、ともかくそういう状態であったから、脳が半壊している人間でもそれまでの貯金だけでまあまあ勝てるのである。


成績がよかったからといって、受験や勉強をナメるようなことにはならなかった。そのくらいまともに勉強ができていない感覚があった。

あるタイミングできちんと勉強することができなくなっても、それまでまともに勉強していれば、たぶん普通成績は急落はしない。むしろ滑空する。失業しても貯金があればしばらく食べていけるようなものだ。

貯金を切り崩して生活している自覚はあった。でも、どうにもならなかった。


こんな状態で私は果たして大学に受かるのか?っていうかそもそもきちんと高校を卒業できるのか?とか思い悩んでいたところに、担任との進路面談があり、そこで予想外のことを言われた。

この辺で一番ハイレベルで全国的にも有名な大学も夢ではない、というのである。相当頑張れば、という留保つきだったが。私はそこの大学の入試科目を一部履修していなかったため、本当に受験するなら独学でやる必要があったのだ。そしてもちろんそれ以外の教科もかなり頑張らないといけないという意味も含まれる。

一方、二番目、三番目の大学ならかなり現実的であるとも言われた。あなたはそのぐらいの力があるしそのほうが合っているようにも思うがそれでも本当にあの教育大に行きたいのか。あそこでないといけない理由が何かあるのか。そんなようなことを聞かれた。

そんなこと言われても成績は滑空しているだけなのになあと、力があるよという話は話半分に聞いていたが、言われてみればその教育大にそんなに行きたいわけではない。問いただされてようやくそのことに気づいた。

自分は旧帝に行くような人間じゃないと信じ込んでいたけれど、合っていると言われたことで初めて興味を持った。現実的な選択肢として眼前に浮かび上がってきた。

受験勉強的にはもうかなり大詰めを迎えるはずの3年生の夏休みだったが、二番目の大学のオープンキャンパスに行くことにした。


その頃にはほとんど遊びというものをすることなく勉強ばかりしていた。遊んでいると不安になってちっとも楽しめないのである。趣味を封印し、家に引きこもって勉強した。最低限必要な息抜きのラインを下回っていたと思う。それでもぽろぽろと学んだことは頭からこぼれ落ちていった。好きだった本や漫画ももうほとんど読めなくなっていた。目が滑って頭に入ってこないのである。

なのに一回だけ、図書館で自発的に本を読んだことがあった。なんでそんなことをしたのかはもう覚えていない。そのときに読んだ本というのが、「日本人の知らない日本語」だった。昔ちょっと流行った、日本語教師の日常を綴ったコミックエッセイで、今読み返してみるとちょっと誇張や簡略化が過ぎていたりしてうーんとなる内容もあるけれども、まあ一般向けの本なのだから仕方がない。でも当時はあの本がとてもおもしろくて、珍しく続編まで一気読みしてしまったくらいだった。

それで、初めてはっきりと自覚的に、日本語の語彙や文法の現象をおもしろいと思った。それまではなんとなく、学校文法ってもうちょっと綺麗に整理できるよねえぐらいしか考えたことがなかったのに。

こういうことがあって、オープンキャンパスでは文学部の言語学系の研究室を見に行こうと決めた。


いざオープンキャンパスに行ってみると、なんだか雰囲気が私にとってよいような感じがした。なんともいえない象牙の塔めいた凄味のようなものがそこはかとなく漂っていて、ああ、これだ、と思った。

好きな研究室を見に行ってよい時間になり、決めていたところに行くと、とある先生が私の相手をしてくれた。が、その先生は私が人知れず悩んでいた発達障害的なコンプレックス(当時はそれが発達に起因するものだとは知らなかったが)を抉るような発言をおそらく悪意なく繰り返したので、私はぽろっと泣いてしまった。アレルギー体質でときどき涙が出るんですみたいな言い訳をした。ここに進学してもこの人には会いたくないなあとそのとき思った。実際進学してその先生の授業を取っても、その先生のことは最後まで苦手なままだった。


帰り道、方向音痴な私は駅への行き方がわからなくなっていた。高校の制服を着たまま地図の看板とにらめっこしていると、親切な学生が声をかけてくれて、道を教えてくれた。

別にたった一人の学生に親切にされただけなんだけれども、大体その人はその大学に在籍する学生なのかもわからないけど(サークルに来てる他大の人かもしれない)、昔から優しい世界の実現を願っていた私はその一件で舞い上がってしまって、一気にこの大学が好きになってしまったのだった。


本当の志望校を得て、私はまだ頑張れるような気になった。が、やっぱり家に着いたら勉強せずに寝てしまった。私の決意なんてそんなものだ。

とはいえ、その頑張れるような気は炎となって私の中で燻り続けた。同時にもう頑張れないような気もしていた。燃え尽きた後の燃え殻を無理やり燃やし続けるような、そんな精神状態が続いた。


(高3後期編に続く)

もし足がもつれても駆けてみる行けるだけ

同じ中学からその高校に行く人は私の他に1人もいなかった。進学実績に1とだけ書かれるやつである。ぼっち進学かあー、と思った。とはいえ、各中学からせいぜい数人しか来ないだろうし、クラスは7もあるのだからばらけるものだろうと軽く考えていたが、実際はもっとすごい状態だった。

伏線は前の記事にあったんだけどわかるかな。


正解は、「塾に通っていた人が圧倒的大多数すぎて、すでにかなりコミュニティが出来上がっていた」。

これは予想だにしなかった。学年の半数近くが全国的に有名な進学塾、残りのほぼ全員がローカルで幅を利かせてる進学塾に通っていて(少なくとも季節講習には参加していて)、マイナー塾出身者や私のような塾に行かなかった人間はマイノリティもマイノリティだったのだ。


今でもわりと話しかけてもらわないと話せないタイプだけど、今よりももっとコミュ障だった私は入学してしばらくぼっちだった。

話したいことって本当に思いつかない。切り出し方がわからない。頭の中が無になってしまう。真面目に何の障害なんだろうと悩んでしまうくらい。中学の頃は人と話していたけど、それは話しかけてくれるタイプの子が周りに多かっただけだった。

だから今でも自分から話しかけなきゃいけないような場面はしんどくなってしまうし、自分の話しかしないで人によっては嫌がられるような人のほうが一緒にいて居心地がいいのだ。


話が逸れた。まあなんやかんやでちょびっとくらいはクラスに馴染み、勉強も本格的に始まり、というくらいの時点で異変が起こった。

毎日学校が終わって家に帰るとすぐ制服のまま床に倒れこんで寝てしまうのである。今思えば明らかに異常だったが、親は私を怒鳴ったりひっぱたいたりして起こすだけで特に何もしなかった。

この時点でちゃんと精神科に行って薬を飲んでおけばあそこまで頭が壊れることもなかっただろうになあ。


まあそんなのだから予習復習なんてあんまりできないでいるうちに、生徒たちを恐怖のどん底に陥れることになる模擬定期テスト(数学のみ)が行われることになった。

断っておくけれど、内容は大して難しくはない。でも返却の時間はなかなかの阿鼻叫喚になった。私も確か、十数問中2点とかを取った記憶がある。


そもそも進学校というのは、今まで100点か90点台しか取ったことありませんというような人間を集めて、大学に進学できるように特訓するところだ。だから大学進学と関係ない、高校の課程を突き抜けるくらい難しいことというのは、非進学校出身者からするともしかしたらイメージと違うかもしれないが、実はそんなにやらない。数学オリンピックとか、その他何か高校の課程をはみ出して知的探究心や向上心を持つような活動は、もちろん奨励はされていたけれど、やっぱり一番の目的は大学に受かることだ。カリキュラムは高校の課程を完璧に近いレベルで極めることを念頭において組まれている。


ではどこが違うのか。それは授業のスピードである。高校3年間の課程をぎゅっと圧縮して1年とか2年で終わらせる。つまり速読CDのような勢いで授業が進む。ざっくり言えば、ハイレベルな学校ほどその圧縮率もすごい。


いくら県の中では上澄みの上澄みみたいな秀才たちといえども、通過特急のように走り去る授業の前には大多数がなす術がなかった。今まで、普通のペースの授業をさくっとこなすことしかしてこなかったのだから。今まで天井だと思っていた蓋が急に取り外され、井戸の外の大海へと放り出されたような感じがした。ちゃぷん。

私はこれから3年かけて真の限界が来るまで限界突破させられ続ける(?)のだろうと悟った。たぶん程度の差はあれ、みんな同じような悟りを開いていたはずだ。


ひとたびやることがわかれば、多くの生徒たちがその高いスペックを活かしてこの生活に順応していった。とんでもない暴れ馬だけれど、振り落とされさえしなければ目的地に最速でたどり着ける。


そうは言ってもカリキュラムにしがみつくのは簡単というわけではなかった。授業の前提として必要になる予習の量が並大抵ではない。復習としてテスト前には大量の課題の提出がある。過眠にやられていた私は日々予習をなんとかやるのでいっぱいいっぱいで、復習が溜まりすぎてしまい、テスト前ギリギリに徹夜する勢いで終わらせることしかできなかった。


はじめての中間テストは、70点とか60点とか、それはもう今までに取ったことのないような点を取った。みんなそうだった。しかし周りを見てみると、私の点はそうものすごく悪い点ではなかった。少し離れたところで90点台を取った生徒がみんなに騒がれている。私は生まれて初めて普通の生徒の一人になった。

私はごく自然に90点台を取った人を取り巻いて褒め称えていた。ついこの間まで言われる側で、言われることがそんなに好きではなかったのになあと妙な気分になりながら。

その後、誰からともなく「過去の栄光」という言葉が言い出され、流行した。


かつて中学時代、先生たちに「進学校は変わった子が多くてきっと居心地がいいよ」と言われ(失礼では?)、それを素直に信じていたものだけど、実際来てみると、そう大して変わった人などいないのであった。

流行の服を着て、プリクラを撮って、毎週ドラマを見て、誰々がかっこいいとはしゃぎ、といったような、勉強ができる点以外はどこにでもいる量産型のキラキラした女の子がほとんどだったので(ちなみに、男の子とはあまり喋らなかったのでよく知らない)、居心地はそれほどよくなかった。私は騙されたと思った。

まあ私の思う変わった人というのは、たとえば蝉の抜け殻を毎夏数百個単位でコレクションしているとか、割った卵の殻を捨てる前にもう一度きれいに貼り合わせて復元するのが趣味とか、そういうイメージなんだけど、そんな感じの人にリアルで出会ったことというのはない。もしかして私の描いてる変わった人像がファンタジックすぎるんだろうか。

だけど、なんだかんだで勉強が嫌いじゃないというか、勉強をネタにして面白がってやろうという精神を皆多かれ少なかれ持っているところに関してだけは、中学時代と違っていて居心地が良かった。


高校生活にもすっかり馴染んできた頃、私はあることを閃いた。夕方帰ってきて眠いなら、そのまま寝てしまって、代わりにものすごい早起きをすればいいのでは。

生粋の夜型を無理矢理朝型に変えてしまおうという作戦である。

親にも協力してもらって(晩ご飯を朝食べられるようにしておいてもらうなど)、相をずらすことに成功した。

最初のうちはこれがなかなかうまくいった。学校に行くまであと数時間しかないという圧がかかるので、自然と追い詰められて脇目も振らずその日の分の予習に励むことになる。まあでも、私は問題を解いたりするのが非常に遅かったので、しばしば間に合わずにそのまま登校せざるをえなかったりもしたのだけど。

後々学年が上がり負荷も高まってくると過眠が悪化して、早起きして二度寝に励む日が増えてしまったりもした。

でもとにかく、とりあえずは成功を収め、一時は学年で10番ぐらいの成績を取れるまでになったりしたのだった。


(高2編に続く)

蜘蛛の糸が降りてきたら

小学校の近くに住む子たちの中に、何人か公立中学に持ち上がりで進まない子がいることを人づてに聞いた。当時意識が低すぎて中学受験というものの存在を知らなかったので、あんまり事態をきちんと把握していなかったが、まあそういうことである。

水面下で(別にめちゃくちゃ隠すようなことではないかもしれないが)(ただまあ落ちたときのことを考えて言いふらさないのがよくあるパターンなのだろう)コツコツ勉強して、私立中学の対策をし、見事合格した人たち。公立ルートとはまた違うルートをたどることになった人たち。

その中には特別仲のいい子が含まれていたわけではないので、その人たちがどういう人生を歩んでいったのかは知らない。

でも後になって、大学で中学受験を経験してきた人たちと出会って、しかもそういう人が大学の中に少なくないことがわかって、「あ、あの分岐はここに繋がってたんだな」とある程度謎が解けることにはなるのだけど。


ともかく私は大多数の人と一緒に、そのまま公立の中学へ持ち上がった。

二つの小学校の校区が合体する形で中学の校区が決まっていたため、学年の半数は知らない子だった。

1週間経ち、2週間経ち、少しずつ打ち解けていく二つの小学校。

そして中間テストの日がやってくる。人生初めての本格的なテストである。中学校のテストが小学校のテストみたいに簡単なわけがない。私はこれで神童をやめ(させ)られると思った。それはプレッシャーからの解放であり、同時に特権的な地位の喪失であった。


蓋を開けてみると、全教科100点ではなかった。たしか90点台ではあった。同じ小学校出身の、私のことをわかっている人たちが点数をしきりに聞いてきたが、答えたら拍子抜けされるとそのときは思った。しかしその見込みは外れた。誰も私ほどの点数を取れていなかったのだ。

結局、私はまた君臨してしまったのであった。


通知表やテストが返されると、やはり私にプライバシーはなく、クラス内に結果を公開された。それどころか、なぜか他のクラスの生徒までが私の成績をつぶさに知っているという怪奇現象さえ起こった。


テストのたびに、私は今度こそ解放と喪失の時に違いないと自分に言い聞かせた。でも成績は特に下がらなかった。他の人たちとの差はどんどん開いた。他の人たちの成績が下がって行くことによって。もはや校内では、誰も私に追いつけなくなっていた。


学年が上がると、少しずつ高校受験へのカウントダウンが始まる。

周囲から受かる受かると言われていた、のちに母校となる公立高校のオープンスクールへ行ってみた。なんとなく好きな雰囲気だった。

違う学校も何校か見学に行ってみたけれど、そこほどしっくりくる雰囲気のところはなかった。


また、私は当時芸術系の高校や専門学校にも興味があった。でも、親と話し合って「潰しがきかない」「使い捨てられる」という(結構偏見に満ちた)アドバイスを受けたり、自分で「趣味の世界は趣味のままにしておきたい」と考えたりして、勉強のほうで行けるところまで行ってやろうと決めた。


志望校が決まり、模試を受けてみた。校外の神童たちとやりあわないといけない場で、生まれて初めてうわ全然書けなかったという手応えを感じた。今度こそ、今度こそ化けの皮が剥がれるときがきたかと思った。井の中の蛙のはずなんだ。

蓋を開けてみると、平凡な神童なのでさすがに名前までは載らなかったものの、偏差値は70オーバーだった。ググりまくって、偏差値の意味をおぼろげながら理解した。

信じられなかったが、今度こそ言い逃れはできなかった。完全にできる側にいると言って差し支えなかった。


そのとき地面が崩れ落ちていくような絶望感を味わった。

私ごときのレベルでそんな上位に入れちゃうんだ。上には上がいることはもちろんわかっているけれど、それでも、死ぬほど雑な言い方をすれば、人間の限界ってその程度なんだ。

おこがましくも、旅行先の田舎で天然プラネタリウムを見て広大な宇宙に想いを馳せたときよりも強く、人間ってちっぽけな存在なんだなと感じた。 まあ今ではその絶望感がある意味では正しくてある意味では間違っていることがわかるけれど。


模試の成績も、回を重ねても大して変わらなかった。受験が差し迫り、他の生徒たちがこぞって塾に通い始めても、私はそこまでする体力がなくて、みんなが行く塾には行かなかった。

それでも、誰にもひっくり返すことはできなかった。


こう書くと完全に独力で勉強ができていたように思われてしまうかもしれないが、実は英語教室には通っていた。一番仲の良かった友達の誘いで、私はその子が小さい頃から通う英語教室に、中1から通いはじめたのだった。

そこの先生は本当にいい先生で、また人間的にもいい人で、私の人生におけるぶっちぎりNo.1の恩人である。もう亡くなってしまったけれど。

ここの教室で英語にみっちり触れていたおかげで、英語の成績も安定していたのはもちろん、ある日人生を変える一大イベントが起こる。少しずつコップに溜まっていっていた水が最後の一滴でついに溢れるように、英文法のおもしろさが突然わかったのだ。連鎖的に現代文の文法も古文の文法もおもしろがれるようになった。つまり大学で言語学をやろうということになったのも、楽しい卒業研究ができたのも、元を辿ればこの人のおかげなのである。


ところで、うちの中学校はまあ荒れていた。授業に真面目に取り組まない生徒たち、くしゃくしゃになって落ちたプリントの山、ちょくちょく割れるガラス。一部の生徒は頻繁に警察のお世話になっていた。

授業の進みは遅れ、ある先生は泣き、ある先生はブチ切れ、病んで辞めていった先生もたしか中にはいた。


そんな中私は真面目にすることしか知らなかったので、毎日黙って教科書を読み、先生の話を聞いて、ノートに書きつけた。

居酒屋並みに騒がしい教室の中で、私はぼんやりと、ここから脱出したい、と思った。

その思いは日に日に増していった。


中3になると、ときどき進路に関する授業というのが行われる。学歴と収入の関係だとか、そんなことが語られる回があった。何も一流大と二流大ではどうだとかいう話ではなくて、高卒以上と中卒では職にありつけるかどうかが全然違うとか、正社員とフリーターでは生涯年収が全然違うというような、もっと基本的な話だ。ヤンキーどもののさばるこの学校で、なんとかそいつらにもうちょっとくらい勉強してもらって、無事高校に入ってもらいたいという先生たちの思惑が透けて見えた。しかし当のヤンキーどもは親父の知り合いが自分の店で雇ってくれるって言ってるからなどと嘯きちっとも真面目に聞いていなかったようだった。逆に真面目すぎる私はしっかりと話を聞き、なるほどこれが世界の真理かと思い、徐々に残酷な現実に気づいていくのだった。

たとえば、この学校には行く高校がないと言われている者や高校に行く気がないと宣う者がちらほらいる。そいつらはその言葉通りならば高卒にはなれない。ならば働き口はまず見つからず、待っているのは緩慢な死……。

突如、目の前に無数の分かれ道が広がっているイメージが思い浮かんだ。それは私たちの輝かしい未来といったほんわかしたものではなく、もっと殺伐とした、恐ろしい気配のするものだった。


中3の受験もかなり近づいてきたころ、私は筋少にハマった。詳しい馴れ初めはここでは省略するが、一言で言うと「この人あたしをわかってる あたしの心を歌ってる 恋したわ」(「ノゾミのなくならない世界」)である。

中でも「蜘蛛の糸」は私の中学時代を象徴する曲だ。いやまあ友達はいたけど。

蜘蛛の糸が降りてきたら 僕は誰よりも早く昇ろう 僕の姿消えた時 みんな初めて僕に気付くのさ」

蜘蛛の糸を昇っていつの日にか見おろしてやる 蜘蛛の糸を昇っていつの日にか燃やしてやる」

荒れ果てた環境から脱出したかった。そして幸いにも私にはそうできる能力がある。ついでに環境を荒らしている張本人たちのことが嫌いだった。

高みを目指すようにして勉強にのめり込んだ。ついでに自分で教材を作っては友達にも分けてあげて友達の成績まで上げたりなんてこともしていた。


「タチムカウ 〜狂い咲く人間の証明〜」もよく聴いた。この曲の歌詞は全文引用したくなってしまうのでもし興味があればググってほしい。

要約すると怯えながら捨て身で何かに立ち向かう曲。怯えながらというのがポイント。私は結局いつまでも確固たる自信を持てなかった。いつ化けの皮が剥がれるのかずっとビクビクしていた。

担任の先生との進路面談で、先生は、あまりにも言うまでもないので、言うことがバカバカしいなあと思っているかのように、ちょっと苦笑いしながら「どこでも行けますね」と言った。

内申点に直結する通知表の数字はほぼほぼ最高評価だった。

それでも私は怯えていた。


あるとき、ヤンキー系の生徒たちとつるんでいるけれど、3年になってめちゃくちゃ勉強を頑張り始め、ぐんと成績を上げてきた女の子が、私の苦手な数学で100点を取って私に勝った。

私だって別にそれまで常になにもかも一位を取ってきたわけではない。誰かに点数で負けたことはいっぱいある。でもそのときなぜか「あ、負けた」と思った。

私はその子に100点おめでとうと声を掛けた。初めてライバルができた。


その女の子は、私と同じ高校を受けるか、もう1ランク落とすか、かなり迷っているようだった。

最終的に、彼女は私と同じ高校を受けることに決めた。孤独な戦いに戦友ができて、うれしかった。


受験当日朝は「221B戦記」を聴いて家を出た。これも全文引用以下略。

会場に着いてみると、門のそばで塾の応援団が列をなして自分のところの生徒たちに激励の言葉をかけていた。私には誰も言葉をかけてくれなかった。どこにも所属していないのだからそりゃそうだ。

でもこの状況に立ち向かうしかなかったのであった。


手応えはまずまずだったが、やはり苦手な数学に不安が残った。戦友の女の子と、休み時間ごとに励ましあった。彼女は数学と英語に自信がないと言っていた。


合格発表の日、一緒には見に行かなかった。そうしてほしいと向こうから言われていたためだ。

結果的にはそれでよかった。私だけが合格していた。

その日家に帰ってから、一人で泣いた。


うちの県の内申点の制度は、最初は成績が悪かったが直前に頑張って成績を上げた人と、最初からずっと成績が良かった人とでは、後者の方を高く評価するようなシステムになっている。

私は後者で、彼女は前者だった。


合格者登校の日か入学式の日か忘れたけれど、そのどっちかの日に登壇した先生が話をした。

「合格おめでとうございます」と言ったそのすぐ後に、大学入試を目指してだか見据えてだか、そんな話を入れてきたものだから、私はとんでもないところに来てしまったと思った。


毎年の恒例行事として、配られた教科書を全部読むというのにチャレンジしてみたが、生まれて初めてそれを途中で断念した。

質、量ともに中学校の比ではなかった。一瞬3年分の教科書かと思ったが全然そんなことはなかった。

急に自分の部屋の中が、ほとんど水で満たされたような感覚がした。上のほうの数センチの空間でしか息継ぎができないような、そんな余裕のない息苦しい感じに襲われた。


ここまで必死にやってきて、しかも客観的に見て成功を収めたにもかかわらず、私は中学の3年間のうちに漠然とした自殺願望を抱きはじめ、それが徐々に形を持つようになっていた。

受験も終わって、考えていた死ぬべき時が来たけれど、思ったより忙しくてつい流されてしまった。なんやかんやでそんなにまだ具体的に死ぬことを考えていなかったのもある。

結局、次の3年間はつらく苦しい3年間になるだろうから死んだつもりで頑張ろうというよくわからない決意をした。


私のメンタルは徐々に壊れ始めていた。


(高校生編に続く)

221B戦記

小学校にも行っていない小さな頃から、親戚やご近所など周りの大人に褒められるといえば「お利口さん」か「絵が上手」のどちらかだった。その傾向は大人になった今も変わらない。

後者は言葉通りそのままなんだけど、前者に関しては大人しくて聞き分けがよく、言語能力が高かったからだと解釈している。本当三つ子の魂百までというか、ヒトにはそれぞれ個性があるものだなあと思う。

容姿や性格を褒められたことがほとんどないのがコンプレックスだったりするけど、まあその話はまた今度。


今回まとめたいなあと思っているのは受験にまつわる話なんだけど、それに際して私の子供時代から順を追って語っていきたい。

いわゆる低学歴/高学歴の世界、社会階層、文化資本、その辺とも多少絡みのある話になるかもしれない。

またよくあるサクセスストーリーではなく、“十で神童十五で才子二十歳過ぎればただの人”ストーリーとして私の経験はそれなりに面白いんじゃないかとも思う。


だいたい、かつて神童だった人ならものすごく共感してくれると思うけど、世の中はなんやかんやで神童に全然優しくない。むしろ我々は虐げられていると言っても過言ではない。

見よ種々の子供向けアニメの登場人物を。セーラームーンやどれみちゃんやプリキュアといった魔法少女モノだと、たいていアホだけど明るく元気というのが主人公で、頭脳派キャラは脇を固める準主人公的な立ち位置にしか収まった試しがない。ドラえもんだとさらにひどい。0点の代名詞のび太くんが主人公に据えてあると思ったら、かたや秀才の代名詞出木杉くんは準レギュラー程度にしか出てこない。

今より被害妄想っ気の強かった幼少期の私は、アニメというのはどうしてこうも無神経に人の気持ちを考えず、勉強ができる子の人格を否定してくるのだろうと思っていた。たまには100点しか取らない主人公を描いてくれたっていいじゃんと思っていた。じゃないと今ひとつ感情移入しにくい。まあそれでも毎週見てたんだけど。

まあとにかくお前は主人公になどならせてやらない、ピンクじゃなくって青でも着ておけというメッセージをアニメから受け続けて、多少いじけていた幼稚園や小学校時代の話から入りたい。 

なお今では青色は大好きだ。


幼稚園の頃の記憶はもうあんまりないけれど、強烈に覚えているエピソードはどれもこれも言葉にまつわるものばかりだ。(まあIQが全てではないとはいえ)大人になって測ってみたIQを見ればそれも納得の結果である。


当時からひらがなカタカナはもちろんのこと、常用漢字程度なら読めたので(一体いつ覚えたんだろう)、園便りや連絡帳の内容を読んでだいたい把握していた。図書の時間に貸し出される絵本は当然自分で読んでいた。みんなそういうものだと思っていた。

が、ある日先生が図書の時間にみんなを集めて言った。「いつもお母さんお父さんに絵本を読んでもらっていると思うけど、今日はみなさんがお母さんお父さんに絵本を読んであげましょう」。私は驚き戸惑った。あれは読んでもらわないといけないものだったのか。そんなまどろっこしいことしてもらいたくないんだけど…。

そして、いつもの本棚と違う本棚が開けられた。そこから取り出され、配られたのは赤ちゃん向けの絵本だった。先生たちは私たちが字を読めないと思っている。

とても悲しくなった。


こんなこともあった。

なんでそうなったのかは忘れたけれど、私が年中のとき、年長のよく知らない子が私につきっきりで絵本を読んでくれることになった。

しかしその読むのの遅いこと遅いこと。言葉の体をなしていない。私は目で勝手に先に文章を追い、年長の子がたどたどしく一生懸命読み上げるのをイライラしながらじっと待ち、早くページをめくりたいと切望し、めくった瞬間に続きを読んでしまい、また読み上げられるのを我慢強く待つというとんだ焦らしプレイをさせられた。

なんでこの子はこんなに読めないんだろう。

やっぱり悲しくなった。


とうの昔に読み書きできるひらがなカタカナを無になりながら練習し、知っている英単語ばかりをリピートし(唯一rectangleは知らなかった)、極め付けは、卒園記念にもらった学習漢字辞典を通しで読んでみたら知ってる漢字しかなかったことだ。いや、蚕だけ知らなくて衝撃を受けたんだった。


幼稚園を卒業すると、地元の公立小学校に入学した。学校とついているのだからさぞや難しいことをさせられるのだろうと思っていた。なんとなく勝手に幼稚園にいたよりも賢い子がいっぱいいるのだろうと思っていた。


教科書をもらったその日に全部読んでみた。だいたいわかった。

授業が始まると点線をなぞらされた。文字ですらなかった。

さすがに何回か点線をなぞるとひらがなの授業になった。またかと思った。

隣の席の子を見た。その子は苦戦していた。


むしろレベルは下がっていた。


そんな風に始まった小学校生活だけど、私は骨の髄まで真面目なのでただただ真面目に取り組んでいた。ただ真面目さのわりに忘れ物が多かった(ADHD的)。


いつのまにか私は神童として君臨していたようだった。公立なので別に言うてわりと平凡な神童(?)なのだけれど、それでも校内では全然君臨できた。


2年生ぐらいだったかな。ある日私は宿題を持ち帰り忘れたので、近所の同級生の子の家を訪問し、プリントを写させてもらうことにした。

そのときその家のお母さんが笑いながら言った一言が忘れられない。「まりあちゃんかしこいから5年生の勉強ぐらいまでできるんじゃない?」何を根拠にそんなことを言うんだろう、変なことを言う人だなと思った。

でもたぶん、今ならわかるけれど、大多数の子供というのはもうちょっとアホっぽいもので、与える印象として私は見るからに賢そうだったんだろう。たぶん。

低学年の頃はまあとにかく自覚がなかったのである。


ところで、大学生ぐらいになってから親戚(市の教育委員会に勤めている人がいる)から聞いた話だけど、私が小学校に通っていた頃にそこで校長をしていた人とその親戚の人が話すことがあって、「親戚の子が、あなたが校長をしていたころの○○小学校に通っていた」と話題に出したらしい。そうしたら、あーあの子ねと覚えられていたらしい。いやお世辞でしょとその話を聞いたときには思ったが、どうも話を聞いていくと本当に覚えてもらっていたようだった。校長先生との絡みなんて特になかったはずなのだけれど、全体を見ている人からしたら、やはり外れ値の子は目立ったのかもしれない。


ただ中にいて自分を見ているかぎりは、自分が外れ値であることには全く気づいていなかった。学年が上がるにつれて、なんとなーくわかってきたのは、私は勉強ができる側の人間だということだけだ。

公立の小学校のテストなんて、なんやかんやでわりとたくさんの人が100点や90点を取れるものだ。そんなに歴然とした差がつくわけでもなく、漠然とできる側とできない側に分かれるだけだ。


当時、学校から離れた地域には傾向としてヤンキー色の濃い家庭や貧困層が多く、学校周辺地域はでかいマンションや旧家があり、比較的お金持ちで教育に力を入れている家庭が多かった。


私は学校から離れた側の地域の中で、そこそこ経済力もあり、ヤンキー色のない家に生まれていた。傾向の中の例外である。そんなものだから近所には友達が少なく、学校の近く=家から離れたところに気が合う友達が多かった。


そして、学校の近くに住む友達たちは、みんなだいたいできる側にいた。でもその中でも、なぜか私は誰からも崇められた。もしかしたら当時を知る人に言わせると別にそんなことなかったのかもしれないけれど、自分としてはそう感じていた。


高学年ともなれば塾に通い始める子も出る中、私は家庭学習らしい家庭学習をろくにしないにもかかわらず、そういう勉強ガチ勢と同等かそれ以上の成績を修めていた。今思えば、ガチ勢の子たちからすれば理不尽の極みなのでは。


6年間通知表にはほとんど傷がなく、それゆえに通知表配布の時間には私にはプライバシーがあまりなかった。通知表見せて見せて攻撃を全方位から受けるのである。私は別にみんなと仲良くできるようなタイプではなかった。クラスには友達もいれば別に友達ではない子もいる。仲のいい子なら別に見せてもいいけれど、普段話さないどころか下に見てくる(私はお察しの通りスクールカーストが低い)くらいの子が、寄ってたかって私の通知表を見てありがたがっているのはよくわからない光景だったし、結局6年間うまいリアクションの取り方がわからなかった。


小学校卒業が目前に迫ったある日、もう話の内容は何も覚えていないけれど、階段を下りながら、当時仲の良かった子と高校の話をした。昔から意識の低い私は、その時初めて学区一番の進学校である公立高校の名前を知ったのだった。私には縁遠い世界なんだと思った。後にそこが母校になるとはこの時予想だにしなかった。


(中学校編に続く)