みがわりノート

記事タイトルの意味がわからない?二重引用符でくくってググってみてください。

冬は狐の革裘

今日は高3後期編じゃなくて号外。


異動することになった。

今までの環境は最高に好きだったけど、まあ仕方ない。


このタイミングで「ポケットに偶然入ってたんだ」って言いながら本当は用意しておいてくれた中原中也の詩集を餞に渡されたら泣くと思う。

なぜなら特撮に「じゃあな」というすごい好きなお別れの曲があって、そういう歌詞だから。

いつか誰か何かのときにやってくれないかなーと夢見ているけどまあそんな曲を知る人もなく…。


まあでもそうしてもらうためには、大丈夫だよと前を向いて歩き出さないといけない。

じゃないと呼び止めてもらえないから。

一生を闇の中で過ごすのか?

高2の夏である。

夏休みの宿題の一つとして、オープンキャンパスに行ってレポートを書けというものが出た。さてどこに行くか。

将来の夢というのも決まっておらず、志望校というほどの志望校もなく、それどころか志望する学部もなかったため(各学部が何をやるのかよくわかっていなかったので)、しばらく考え込んだ。

将来どういう仕事に就きたいんだ私は。いくら自問自答しても高等遊民になりたいという気持ちしか出てこない。

まあでもそれなりに現実と折り合いをつけて当時出した答えは「教師」だった。今にして思えば絶対向いてないしやめといてよかったんだけど、勉強の内容をうまいこと噛み砕いたり、人に何かを教えたり説明したりというようなことは好きだったので、それだけで教職に興味を持った。まあ身近だしね。


で、そうなるとまあ教育大かなあということになる。当時は心理学や教育学にも漠然とした憧れがあったので、そっちかなあという気がして選んだのだった。安直なことこの上なし。

親が買ってきた大学の選び方みたいな本をかなり鵜呑みにして考えていたけど、今思えばあの本はゴミだった。


それでまあ近場の国立の教育大にとりあえず出かけてみたのだった。あんまり好きな雰囲気ではなかった。高校にある程度感じたがっかり感みたいなもののもっと濃いやつがまとわりついていた。なんだかいわゆるキラキラフワフワしたキャンパスライフの匂いがして吐きそうになった(クソ根暗なので)(もっと人間力のある人には素敵な環境なんだと思う)。もっとこう私は凄味のようなものを欲していたのだけど、そこにはなかった。でも、大学ってまあそんなものなのかな、と思った。

体験講義を受けたが、ネタが高校で聞いたものとダダ被りしていてつまらなかった。

しかし私は生粋の受動型で、与えられた嫌なものを嫌と感じる感覚が大部分欠如していた(今はマシだが今もあやしい)ので、そこを志望することにした。(志望とは?)


それからの模試の志望校欄にはそこの名前を書いた。

頭はだいぶ壊れてきていたので勉強していても何も覚えられないし、模試本番では自信のない答案ばかり生成していたが、A判定ばっかり取れた。そもそもそこのレベルがそうめちゃくちゃ高くもないということもあったけれど、いつも手応えを成績が上回るのである。


まあでもこれはそんなに不思議なことではない。高2といえば部活の全盛期。世の中の多くの高2生は部活部活で勉強どころではない。それがいいことなのか悪いことなのかは今は置いておいて、ともかくそういう状態であったから、脳が半壊している人間でもそれまでの貯金だけでまあまあ勝てるのである。


成績がよかったからといって、受験や勉強をナメるようなことにはならなかった。そのくらいまともに勉強ができていない感覚があった。

あるタイミングできちんと勉強することができなくなっても、それまでまともに勉強していれば、たぶん普通成績は急落はしない。むしろ滑空する。失業しても貯金があればしばらく食べていけるようなものだ。

貯金を切り崩して生活している自覚はあった。でも、どうにもならなかった。


こんな状態で私は果たして大学に受かるのか?っていうかそもそもきちんと高校を卒業できるのか?とか思い悩んでいたところに、担任との進路面談があり、そこで予想外のことを言われた。

この辺で一番ハイレベルで全国的にも有名な大学も夢ではない、というのである。相当頑張れば、という留保つきだったが。私はそこの大学の入試科目を一部履修していなかったため、本当に受験するなら独学でやる必要があったのだ。そしてもちろんそれ以外の教科もかなり頑張らないといけないという意味も含まれる。

一方、二番目、三番目の大学ならかなり現実的であるとも言われた。あなたはそのぐらいの力があるしそのほうが合っているようにも思うがそれでも本当にあの教育大に行きたいのか。あそこでないといけない理由が何かあるのか。そんなようなことを聞かれた。

そんなこと言われても成績は滑空しているだけなのになあと、力があるよという話は話半分に聞いていたが、言われてみればその教育大にそんなに行きたいわけではない。問いただされてようやくそのことに気づいた。

自分は旧帝に行くような人間じゃないと信じ込んでいたけれど、合っていると言われたことで初めて興味を持った。現実的な選択肢として眼前に浮かび上がってきた。

受験勉強的にはもうかなり大詰めを迎えるはずの3年生の夏休みだったが、二番目の大学のオープンキャンパスに行くことにした。


その頃にはほとんど遊びというものをすることなく勉強ばかりしていた。遊んでいると不安になってちっとも楽しめないのである。趣味を封印し、家に引きこもって勉強した。最低限必要な息抜きのラインを下回っていたと思う。それでもぽろぽろと学んだことは頭からこぼれ落ちていった。好きだった本や漫画ももうほとんど読めなくなっていた。目が滑って頭に入ってこないのである。

なのに一回だけ、図書館で自発的に本を読んだことがあった。なんでそんなことをしたのかはもう覚えていない。そのときに読んだ本というのが、「日本人の知らない日本語」だった。昔ちょっと流行った、日本語教師の日常を綴ったコミックエッセイで、今読み返してみるとちょっと誇張や簡略化が過ぎていたりしてうーんとなる内容もあるけれども、まあ一般向けの本なのだから仕方がない。でも当時はあの本がとてもおもしろくて、珍しく続編まで一気読みしてしまったくらいだった。

それで、初めてはっきりと自覚的に、日本語の語彙や文法の現象をおもしろいと思った。それまではなんとなく、学校文法ってもうちょっと綺麗に整理できるよねえぐらいしか考えたことがなかったのに。

こういうことがあって、オープンキャンパスでは文学部の言語学系の研究室を見に行こうと決めた。


いざオープンキャンパスに行ってみると、なんだか雰囲気が私にとってよいような感じがした。なんともいえない象牙の塔めいた凄味のようなものがそこはかとなく漂っていて、ああ、これだ、と思った。

好きな研究室を見に行ってよい時間になり、決めていたところに行くと、とある先生が私の相手をしてくれた。が、その先生は私が人知れず悩んでいた発達障害的なコンプレックス(当時はそれが発達に起因するものだとは知らなかったが)を抉るような発言をおそらく悪意なく繰り返したので、私はぽろっと泣いてしまった。アレルギー体質でときどき涙が出るんですみたいな言い訳をした。ここに進学してもこの人には会いたくないなあとそのとき思った。実際進学してその先生の授業を取っても、その先生のことは最後まで苦手なままだった。


帰り道、方向音痴な私は駅への行き方がわからなくなっていた。高校の制服を着たまま地図の看板とにらめっこしていると、親切な学生が声をかけてくれて、道を教えてくれた。

別にたった一人の学生に親切にされただけなんだけれども、大体その人はその大学に在籍する学生なのかもわからないけど(サークルに来てる他大の人かもしれない)、昔から優しい世界の実現を願っていた私はその一件で舞い上がってしまって、一気にこの大学が好きになってしまったのだった。


本当の志望校を得て、私はまだ頑張れるような気になった。が、やっぱり家に着いたら勉強せずに寝てしまった。私の決意なんてそんなものだ。

とはいえ、その頑張れるような気は炎となって私の中で燻り続けた。同時にもう頑張れないような気もしていた。燃え尽きた後の燃え殻を無理やり燃やし続けるような、そんな精神状態が続いた。


(高3後期編に続く)

もし足がもつれても駆けてみる行けるだけ

同じ中学からその高校に行く人は私の他に1人もいなかった。進学実績に1とだけ書かれるやつである。ぼっち進学かあー、と思った。とはいえ、各中学からせいぜい数人しか来ないだろうし、クラスは7もあるのだからばらけるものだろうと軽く考えていたが、実際はもっとすごい状態だった。

伏線は前の記事にあったんだけどわかるかな。


正解は、「塾に通っていた人が圧倒的大多数すぎて、すでにかなりコミュニティが出来上がっていた」。

これは予想だにしなかった。学年の半数近くが全国的に有名な進学塾、残りのほぼ全員がローカルで幅を利かせてる進学塾に通っていて(少なくとも季節講習には参加していて)、マイナー塾出身者や私のような塾に行かなかった人間はマイノリティもマイノリティだったのだ。


今でもわりと話しかけてもらわないと話せないタイプだけど、今よりももっとコミュ障だった私は入学してしばらくぼっちだった。

話したいことって本当に思いつかない。切り出し方がわからない。頭の中が無になってしまう。真面目に何の障害なんだろうと悩んでしまうくらい。中学の頃は人と話していたけど、それは話しかけてくれるタイプの子が周りに多かっただけだった。

だから今でも自分から話しかけなきゃいけないような場面はしんどくなってしまうし、自分の話しかしないで人によっては嫌がられるような人のほうが一緒にいて居心地がいいのだ。


話が逸れた。まあなんやかんやでちょびっとくらいはクラスに馴染み、勉強も本格的に始まり、というくらいの時点で異変が起こった。

毎日学校が終わって家に帰るとすぐ制服のまま床に倒れこんで寝てしまうのである。今思えば明らかに異常だったが、親は私を怒鳴ったりひっぱたいたりして起こすだけで特に何もしなかった。

この時点でちゃんと精神科に行って薬を飲んでおけばあそこまで頭が壊れることもなかっただろうになあ。


まあそんなのだから予習復習なんてあんまりできないでいるうちに、生徒たちを恐怖のどん底に陥れることになる模擬定期テスト(数学のみ)が行われることになった。

断っておくけれど、内容は大して難しくはない。でも返却の時間はなかなかの阿鼻叫喚になった。私も確か、十数問中2点とかを取った記憶がある。


そもそも進学校というのは、今まで100点か90点台しか取ったことありませんというような人間を集めて、大学に進学できるように特訓するところだ。だから大学進学と関係ない、高校の課程を突き抜けるくらい難しいことというのは、非進学校出身者からするともしかしたらイメージと違うかもしれないが、実はそんなにやらない。数学オリンピックとか、その他何か高校の課程をはみ出して知的探究心や向上心を持つような活動は、もちろん奨励はされていたけれど、やっぱり一番の目的は大学に受かることだ。カリキュラムは高校の課程を完璧に近いレベルで極めることを念頭において組まれている。


ではどこが違うのか。それは授業のスピードである。高校3年間の課程をぎゅっと圧縮して1年とか2年で終わらせる。つまり速読CDのような勢いで授業が進む。ざっくり言えば、ハイレベルな学校ほどその圧縮率もすごい。


いくら県の中では上澄みの上澄みみたいな秀才たちといえども、通過特急のように走り去る授業の前には大多数がなす術がなかった。今まで、普通のペースの授業をさくっとこなすことしかしてこなかったのだから。今まで天井だと思っていた蓋が急に取り外され、井戸の外の大海へと放り出されたような感じがした。ちゃぷん。

私はこれから3年かけて真の限界が来るまで限界突破させられ続ける(?)のだろうと悟った。たぶん程度の差はあれ、みんな同じような悟りを開いていたはずだ。


ひとたびやることがわかれば、多くの生徒たちがその高いスペックを活かしてこの生活に順応していった。とんでもない暴れ馬だけれど、振り落とされさえしなければ目的地に最速でたどり着ける。


そうは言ってもカリキュラムにしがみつくのは簡単というわけではなかった。授業の前提として必要になる予習の量が並大抵ではない。復習としてテスト前には大量の課題の提出がある。過眠にやられていた私は日々予習をなんとかやるのでいっぱいいっぱいで、復習が溜まりすぎてしまい、テスト前ギリギリに徹夜する勢いで終わらせることしかできなかった。


はじめての中間テストは、70点とか60点とか、それはもう今までに取ったことのないような点を取った。みんなそうだった。しかし周りを見てみると、私の点はそうものすごく悪い点ではなかった。少し離れたところで90点台を取った生徒がみんなに騒がれている。私は生まれて初めて普通の生徒の一人になった。

私はごく自然に90点台を取った人を取り巻いて褒め称えていた。ついこの間まで言われる側で、言われることがそんなに好きではなかったのになあと妙な気分になりながら。

その後、誰からともなく「過去の栄光」という言葉が言い出され、流行した。


かつて中学時代、先生たちに「進学校は変わった子が多くてきっと居心地がいいよ」と言われ(失礼では?)、それを素直に信じていたものだけど、実際来てみると、そう大して変わった人などいないのであった。

流行の服を着て、プリクラを撮って、毎週ドラマを見て、誰々がかっこいいとはしゃぎ、といったような、勉強ができる点以外はどこにでもいる量産型のキラキラした女の子がほとんどだったので(ちなみに、男の子とはあまり喋らなかったのでよく知らない)、居心地はそれほどよくなかった。私は騙されたと思った。

まあ私の思う変わった人というのは、たとえば蝉の抜け殻を毎夏数百個単位でコレクションしているとか、割った卵の殻を捨てる前にもう一度きれいに貼り合わせて復元するのが趣味とか、そういうイメージなんだけど、そんな感じの人にリアルで出会ったことというのはない。もしかして私の描いてる変わった人像がファンタジックすぎるんだろうか。

だけど、なんだかんだで勉強が嫌いじゃないというか、勉強をネタにして面白がってやろうという精神を皆多かれ少なかれ持っているところに関してだけは、中学時代と違っていて居心地が良かった。


高校生活にもすっかり馴染んできた頃、私はあることを閃いた。夕方帰ってきて眠いなら、そのまま寝てしまって、代わりにものすごい早起きをすればいいのでは。

生粋の夜型を無理矢理朝型に変えてしまおうという作戦である。

親にも協力してもらって(晩ご飯を朝食べられるようにしておいてもらうなど)、相をずらすことに成功した。

最初のうちはこれがなかなかうまくいった。学校に行くまであと数時間しかないという圧がかかるので、自然と追い詰められて脇目も振らずその日の分の予習に励むことになる。まあでも、私は問題を解いたりするのが非常に遅かったので、しばしば間に合わずにそのまま登校せざるをえなかったりもしたのだけど。

後々学年が上がり負荷も高まってくると過眠が悪化して、早起きして二度寝に励む日が増えてしまったりもした。

でもとにかく、とりあえずは成功を収め、一時は学年で10番ぐらいの成績を取れるまでになったりしたのだった。


(高2編に続く)

蜘蛛の糸が降りてきたら

小学校の近くに住む子たちの中に、何人か公立中学に持ち上がりで進まない子がいることを人づてに聞いた。当時意識が低すぎて中学受験というものの存在を知らなかったので、あんまり事態をきちんと把握していなかったが、まあそういうことである。

水面下で(別にめちゃくちゃ隠すようなことではないかもしれないが)(ただまあ落ちたときのことを考えて言いふらさないのがよくあるパターンなのだろう)コツコツ勉強して、私立中学の対策をし、見事合格した人たち。公立ルートとはまた違うルートをたどることになった人たち。

その中には特別仲のいい子が含まれていたわけではないので、その人たちがどういう人生を歩んでいったのかは知らない。

でも後になって、大学で中学受験を経験してきた人たちと出会って、しかもそういう人が大学の中に少なくないことがわかって、「あ、あの分岐はここに繋がってたんだな」とある程度謎が解けることにはなるのだけど。


ともかく私は大多数の人と一緒に、そのまま公立の中学へ持ち上がった。

二つの小学校の校区が合体する形で中学の校区が決まっていたため、学年の半数は知らない子だった。

1週間経ち、2週間経ち、少しずつ打ち解けていく二つの小学校。

そして中間テストの日がやってくる。人生初めての本格的なテストである。中学校のテストが小学校のテストみたいに簡単なわけがない。私はこれで神童をやめ(させ)られると思った。それはプレッシャーからの解放であり、同時に特権的な地位の喪失であった。


蓋を開けてみると、全教科100点ではなかった。たしか90点台ではあった。同じ小学校出身の、私のことをわかっている人たちが点数をしきりに聞いてきたが、答えたら拍子抜けされるとそのときは思った。しかしその見込みは外れた。誰も私ほどの点数を取れていなかったのだ。

結局、私はまた君臨してしまったのであった。


通知表やテストが返されると、やはり私にプライバシーはなく、クラス内に結果を公開された。それどころか、なぜか他のクラスの生徒までが私の成績をつぶさに知っているという怪奇現象さえ起こった。


テストのたびに、私は今度こそ解放と喪失の時に違いないと自分に言い聞かせた。でも成績は特に下がらなかった。他の人たちとの差はどんどん開いた。他の人たちの成績が下がって行くことによって。もはや校内では、誰も私に追いつけなくなっていた。


学年が上がると、少しずつ高校受験へのカウントダウンが始まる。

周囲から受かる受かると言われていた、のちに母校となる公立高校のオープンスクールへ行ってみた。なんとなく好きな雰囲気だった。

違う学校も何校か見学に行ってみたけれど、そこほどしっくりくる雰囲気のところはなかった。


また、私は当時芸術系の高校や専門学校にも興味があった。でも、親と話し合って「潰しがきかない」「使い捨てられる」という(結構偏見に満ちた)アドバイスを受けたり、自分で「趣味の世界は趣味のままにしておきたい」と考えたりして、勉強のほうで行けるところまで行ってやろうと決めた。


志望校が決まり、模試を受けてみた。校外の神童たちとやりあわないといけない場で、生まれて初めてうわ全然書けなかったという手応えを感じた。今度こそ、今度こそ化けの皮が剥がれるときがきたかと思った。井の中の蛙のはずなんだ。

蓋を開けてみると、平凡な神童なのでさすがに名前までは載らなかったものの、偏差値は70オーバーだった。ググりまくって、偏差値の意味をおぼろげながら理解した。

信じられなかったが、今度こそ言い逃れはできなかった。完全にできる側にいると言って差し支えなかった。


そのとき地面が崩れ落ちていくような絶望感を味わった。

私ごときのレベルでそんな上位に入れちゃうんだ。上には上がいることはもちろんわかっているけれど、それでも、死ぬほど雑な言い方をすれば、人間の限界ってその程度なんだ。

おこがましくも、旅行先の田舎で天然プラネタリウムを見て広大な宇宙に想いを馳せたときよりも強く、人間ってちっぽけな存在なんだなと感じた。 まあ今ではその絶望感がある意味では正しくてある意味では間違っていることがわかるけれど。


模試の成績も、回を重ねても大して変わらなかった。受験が差し迫り、他の生徒たちがこぞって塾に通い始めても、私はそこまでする体力がなくて、みんなが行く塾には行かなかった。

それでも、誰にもひっくり返すことはできなかった。


こう書くと完全に独力で勉強ができていたように思われてしまうかもしれないが、実は英語教室には通っていた。一番仲の良かった友達の誘いで、私はその子が小さい頃から通う英語教室に、中1から通いはじめたのだった。

そこの先生は本当にいい先生で、また人間的にもいい人で、私の人生におけるぶっちぎりNo.1の恩人である。もう亡くなってしまったけれど。

ここの教室で英語にみっちり触れていたおかげで、英語の成績も安定していたのはもちろん、ある日人生を変える一大イベントが起こる。少しずつコップに溜まっていっていた水が最後の一滴でついに溢れるように、英文法のおもしろさが突然わかったのだ。連鎖的に現代文の文法も古文の文法もおもしろがれるようになった。つまり大学で言語学をやろうということになったのも、楽しい卒業研究ができたのも、元を辿ればこの人のおかげなのである。


ところで、うちの中学校はまあ荒れていた。授業に真面目に取り組まない生徒たち、くしゃくしゃになって落ちたプリントの山、ちょくちょく割れるガラス。一部の生徒は頻繁に警察のお世話になっていた。

授業の進みは遅れ、ある先生は泣き、ある先生はブチ切れ、病んで辞めていった先生もたしか中にはいた。


そんな中私は真面目にすることしか知らなかったので、毎日黙って教科書を読み、先生の話を聞いて、ノートに書きつけた。

居酒屋並みに騒がしい教室の中で、私はぼんやりと、ここから脱出したい、と思った。

その思いは日に日に増していった。


中3になると、ときどき進路に関する授業というのが行われる。学歴と収入の関係だとか、そんなことが語られる回があった。何も一流大と二流大ではどうだとかいう話ではなくて、高卒以上と中卒では職にありつけるかどうかが全然違うとか、正社員とフリーターでは生涯年収が全然違うというような、もっと基本的な話だ。ヤンキーどもののさばるこの学校で、なんとかそいつらにもうちょっとくらい勉強してもらって、無事高校に入ってもらいたいという先生たちの思惑が透けて見えた。しかし当のヤンキーどもは親父の知り合いが自分の店で雇ってくれるって言ってるからなどと嘯きちっとも真面目に聞いていなかったようだった。逆に真面目すぎる私はしっかりと話を聞き、なるほどこれが世界の真理かと思い、徐々に残酷な現実に気づいていくのだった。

たとえば、この学校には行く高校がないと言われている者や高校に行く気がないと宣う者がちらほらいる。そいつらはその言葉通りならば高卒にはなれない。ならば働き口はまず見つからず、待っているのは緩慢な死……。

突如、目の前に無数の分かれ道が広がっているイメージが思い浮かんだ。それは私たちの輝かしい未来といったほんわかしたものではなく、もっと殺伐とした、恐ろしい気配のするものだった。


中3の受験もかなり近づいてきたころ、私は筋少にハマった。詳しい馴れ初めはここでは省略するが、一言で言うと「この人あたしをわかってる あたしの心を歌ってる 恋したわ」(「ノゾミのなくならない世界」)である。

中でも「蜘蛛の糸」は私の中学時代を象徴する曲だ。いやまあ友達はいたけど。

蜘蛛の糸が降りてきたら 僕は誰よりも早く昇ろう 僕の姿消えた時 みんな初めて僕に気付くのさ」

蜘蛛の糸を昇っていつの日にか見おろしてやる 蜘蛛の糸を昇っていつの日にか燃やしてやる」

荒れ果てた環境から脱出したかった。そして幸いにも私にはそうできる能力がある。ついでに環境を荒らしている張本人たちのことが嫌いだった。

高みを目指すようにして勉強にのめり込んだ。ついでに自分で教材を作っては友達にも分けてあげて友達の成績まで上げたりなんてこともしていた。


「タチムカウ 〜狂い咲く人間の証明〜」もよく聴いた。この曲の歌詞は全文引用したくなってしまうのでもし興味があればググってほしい。

要約すると怯えながら捨て身で何かに立ち向かう曲。怯えながらというのがポイント。私は結局いつまでも確固たる自信を持てなかった。いつ化けの皮が剥がれるのかずっとビクビクしていた。

担任の先生との進路面談で、先生は、あまりにも言うまでもないので、言うことがバカバカしいなあと思っているかのように、ちょっと苦笑いしながら「どこでも行けますね」と言った。

内申点に直結する通知表の数字はほぼほぼ最高評価だった。

それでも私は怯えていた。


あるとき、ヤンキー系の生徒たちとつるんでいるけれど、3年になってめちゃくちゃ勉強を頑張り始め、ぐんと成績を上げてきた女の子が、私の苦手な数学で100点を取って私に勝った。

私だって別にそれまで常になにもかも一位を取ってきたわけではない。誰かに点数で負けたことはいっぱいある。でもそのときなぜか「あ、負けた」と思った。

私はその子に100点おめでとうと声を掛けた。初めてライバルができた。


その女の子は、私と同じ高校を受けるか、もう1ランク落とすか、かなり迷っているようだった。

最終的に、彼女は私と同じ高校を受けることに決めた。孤独な戦いに戦友ができて、うれしかった。


受験当日朝は「221B戦記」を聴いて家を出た。これも全文引用以下略。

会場に着いてみると、門のそばで塾の応援団が列をなして自分のところの生徒たちに激励の言葉をかけていた。私には誰も言葉をかけてくれなかった。どこにも所属していないのだからそりゃそうだ。

でもこの状況に立ち向かうしかなかったのであった。


手応えはまずまずだったが、やはり苦手な数学に不安が残った。戦友の女の子と、休み時間ごとに励ましあった。彼女は数学と英語に自信がないと言っていた。


合格発表の日、一緒には見に行かなかった。そうしてほしいと向こうから言われていたためだ。

結果的にはそれでよかった。私だけが合格していた。

その日家に帰ってから、一人で泣いた。


うちの県の内申点の制度は、最初は成績が悪かったが直前に頑張って成績を上げた人と、最初からずっと成績が良かった人とでは、後者の方を高く評価するようなシステムになっている。

私は後者で、彼女は前者だった。


合格者登校の日か入学式の日か忘れたけれど、そのどっちかの日に登壇した先生が話をした。

「合格おめでとうございます」と言ったそのすぐ後に、大学入試を目指してだか見据えてだか、そんな話を入れてきたものだから、私はとんでもないところに来てしまったと思った。


毎年の恒例行事として、配られた教科書を全部読むというのにチャレンジしてみたが、生まれて初めてそれを途中で断念した。

質、量ともに中学校の比ではなかった。一瞬3年分の教科書かと思ったが全然そんなことはなかった。

急に自分の部屋の中が、ほとんど水で満たされたような感覚がした。上のほうの数センチの空間でしか息継ぎができないような、そんな余裕のない息苦しい感じに襲われた。


ここまで必死にやってきて、しかも客観的に見て成功を収めたにもかかわらず、私は中学の3年間のうちに漠然とした自殺願望を抱きはじめ、それが徐々に形を持つようになっていた。

受験も終わって、考えていた死ぬべき時が来たけれど、思ったより忙しくてつい流されてしまった。なんやかんやでそんなにまだ具体的に死ぬことを考えていなかったのもある。

結局、次の3年間はつらく苦しい3年間になるだろうから死んだつもりで頑張ろうというよくわからない決意をした。


私のメンタルは徐々に壊れ始めていた。


(高校生編に続く)

221B戦記

小学校にも行っていない小さな頃から、親戚やご近所など周りの大人に褒められるといえば「お利口さん」か「絵が上手」のどちらかだった。その傾向は大人になった今も変わらない。

後者は言葉通りそのままなんだけど、前者に関しては大人しくて聞き分けがよく、言語能力が高かったからだと解釈している。本当三つ子の魂百までというか、ヒトにはそれぞれ個性があるものだなあと思う。

容姿や性格を褒められたことがほとんどないのがコンプレックスだったりするけど、まあその話はまた今度。


今回まとめたいなあと思っているのは受験にまつわる話なんだけど、それに際して私の子供時代から順を追って語っていきたい。

いわゆる低学歴/高学歴の世界、社会階層、文化資本、その辺とも多少絡みのある話になるかもしれない。

またよくあるサクセスストーリーではなく、“十で神童十五で才子二十歳過ぎればただの人”ストーリーとして私の経験はそれなりに面白いんじゃないかとも思う。


だいたい、かつて神童だった人ならものすごく共感してくれると思うけど、世の中はなんやかんやで神童に全然優しくない。むしろ我々は虐げられていると言っても過言ではない。

見よ種々の子供向けアニメの登場人物を。セーラームーンやどれみちゃんやプリキュアといった魔法少女モノだと、たいていアホだけど明るく元気というのが主人公で、頭脳派キャラは脇を固める準主人公的な立ち位置にしか収まった試しがない。ドラえもんだとさらにひどい。0点の代名詞のび太くんが主人公に据えてあると思ったら、かたや秀才の代名詞出木杉くんは準レギュラー程度にしか出てこない。

今より被害妄想っ気の強かった幼少期の私は、アニメというのはどうしてこうも無神経に人の気持ちを考えず、勉強ができる子の人格を否定してくるのだろうと思っていた。たまには100点しか取らない主人公を描いてくれたっていいじゃんと思っていた。じゃないと今ひとつ感情移入しにくい。まあそれでも毎週見てたんだけど。

まあとにかくお前は主人公になどならせてやらない、ピンクじゃなくって青でも着ておけというメッセージをアニメから受け続けて、多少いじけていた幼稚園や小学校時代の話から入りたい。 

なお今では青色は大好きだ。


幼稚園の頃の記憶はもうあんまりないけれど、強烈に覚えているエピソードはどれもこれも言葉にまつわるものばかりだ。(まあIQが全てではないとはいえ)大人になって測ってみたIQを見ればそれも納得の結果である。


当時からひらがなカタカナはもちろんのこと、常用漢字程度なら読めたので(一体いつ覚えたんだろう)、園便りや連絡帳の内容を読んでだいたい把握していた。図書の時間に貸し出される絵本は当然自分で読んでいた。みんなそういうものだと思っていた。

が、ある日先生が図書の時間にみんなを集めて言った。「いつもお母さんお父さんに絵本を読んでもらっていると思うけど、今日はみなさんがお母さんお父さんに絵本を読んであげましょう」。私は驚き戸惑った。あれは読んでもらわないといけないものだったのか。そんなまどろっこしいことしてもらいたくないんだけど…。

そして、いつもの本棚と違う本棚が開けられた。そこから取り出され、配られたのは赤ちゃん向けの絵本だった。先生たちは私たちが字を読めないと思っている。

とても悲しくなった。


こんなこともあった。

なんでそうなったのかは忘れたけれど、私が年中のとき、年長のよく知らない子が私につきっきりで絵本を読んでくれることになった。

しかしその読むのの遅いこと遅いこと。言葉の体をなしていない。私は目で勝手に先に文章を追い、年長の子がたどたどしく一生懸命読み上げるのをイライラしながらじっと待ち、早くページをめくりたいと切望し、めくった瞬間に続きを読んでしまい、また読み上げられるのを我慢強く待つというとんだ焦らしプレイをさせられた。

なんでこの子はこんなに読めないんだろう。

やっぱり悲しくなった。


とうの昔に読み書きできるひらがなカタカナを無になりながら練習し、知っている英単語ばかりをリピートし(唯一rectangleは知らなかった)、極め付けは、卒園記念にもらった学習漢字辞典を通しで読んでみたら知ってる漢字しかなかったことだ。いや、蚕だけ知らなくて衝撃を受けたんだった。


幼稚園を卒業すると、地元の公立小学校に入学した。学校とついているのだからさぞや難しいことをさせられるのだろうと思っていた。なんとなく勝手に幼稚園にいたよりも賢い子がいっぱいいるのだろうと思っていた。


教科書をもらったその日に全部読んでみた。だいたいわかった。

授業が始まると点線をなぞらされた。文字ですらなかった。

さすがに何回か点線をなぞるとひらがなの授業になった。またかと思った。

隣の席の子を見た。その子は苦戦していた。


むしろレベルは下がっていた。


そんな風に始まった小学校生活だけど、私は骨の髄まで真面目なのでただただ真面目に取り組んでいた。ただ真面目さのわりに忘れ物が多かった(ADHD的)。


いつのまにか私は神童として君臨していたようだった。公立なので別に言うてわりと平凡な神童(?)なのだけれど、それでも校内では全然君臨できた。


2年生ぐらいだったかな。ある日私は宿題を持ち帰り忘れたので、近所の同級生の子の家を訪問し、プリントを写させてもらうことにした。

そのときその家のお母さんが笑いながら言った一言が忘れられない。「まりあちゃんかしこいから5年生の勉強ぐらいまでできるんじゃない?」何を根拠にそんなことを言うんだろう、変なことを言う人だなと思った。

でもたぶん、今ならわかるけれど、大多数の子供というのはもうちょっとアホっぽいもので、与える印象として私は見るからに賢そうだったんだろう。たぶん。

低学年の頃はまあとにかく自覚がなかったのである。


ところで、大学生ぐらいになってから親戚(市の教育委員会に勤めている人がいる)から聞いた話だけど、私が小学校に通っていた頃にそこで校長をしていた人とその親戚の人が話すことがあって、「親戚の子が、あなたが校長をしていたころの○○小学校に通っていた」と話題に出したらしい。そうしたら、あーあの子ねと覚えられていたらしい。いやお世辞でしょとその話を聞いたときには思ったが、どうも話を聞いていくと本当に覚えてもらっていたようだった。校長先生との絡みなんて特になかったはずなのだけれど、全体を見ている人からしたら、やはり外れ値の子は目立ったのかもしれない。


ただ中にいて自分を見ているかぎりは、自分が外れ値であることには全く気づいていなかった。学年が上がるにつれて、なんとなーくわかってきたのは、私は勉強ができる側の人間だということだけだ。

公立の小学校のテストなんて、なんやかんやでわりとたくさんの人が100点や90点を取れるものだ。そんなに歴然とした差がつくわけでもなく、漠然とできる側とできない側に分かれるだけだ。


当時、学校から離れた地域には傾向としてヤンキー色の濃い家庭や貧困層が多く、学校周辺地域はでかいマンションや旧家があり、比較的お金持ちで教育に力を入れている家庭が多かった。


私は学校から離れた側の地域の中で、そこそこ経済力もあり、ヤンキー色のない家に生まれていた。傾向の中の例外である。そんなものだから近所には友達が少なく、学校の近く=家から離れたところに気が合う友達が多かった。


そして、学校の近くに住む友達たちは、みんなだいたいできる側にいた。でもその中でも、なぜか私は誰からも崇められた。もしかしたら当時を知る人に言わせると別にそんなことなかったのかもしれないけれど、自分としてはそう感じていた。


高学年ともなれば塾に通い始める子も出る中、私は家庭学習らしい家庭学習をろくにしないにもかかわらず、そういう勉強ガチ勢と同等かそれ以上の成績を修めていた。今思えば、ガチ勢の子たちからすれば理不尽の極みなのでは。


6年間通知表にはほとんど傷がなく、それゆえに通知表配布の時間には私にはプライバシーがあまりなかった。通知表見せて見せて攻撃を全方位から受けるのである。私は別にみんなと仲良くできるようなタイプではなかった。クラスには友達もいれば別に友達ではない子もいる。仲のいい子なら別に見せてもいいけれど、普段話さないどころか下に見てくる(私はお察しの通りスクールカーストが低い)くらいの子が、寄ってたかって私の通知表を見てありがたがっているのはよくわからない光景だったし、結局6年間うまいリアクションの取り方がわからなかった。


小学校卒業が目前に迫ったある日、もう話の内容は何も覚えていないけれど、階段を下りながら、当時仲の良かった子と高校の話をした。昔から意識の低い私は、その時初めて学区一番の進学校である公立高校の名前を知ったのだった。私には縁遠い世界なんだと思った。後にそこが母校になるとはこの時予想だにしなかった。


(中学校編に続く)


生も死も、全てペテン

昨日は久々に上司からの結構でかい怒られが発生したため自殺の機運が高まったが、なんとか死なずに家に辿り着いた。


私の対鬱気分安定に一番効力を発揮しているおくすりであるところのスルピリドを、副作用がきついため現在やめていく方向で断(た)っているので、何か気分が落ち込むようなインシデントが起こったとき下支えになってくれるようなものがなくて些細なことで簡単に心が折れる。いやまあたぶんスルピリド飲んでたとしても死にたくなってたけれど。


私は職場で精神障害を限定公開しているので、当の上司も私のメンタルの弱さは知っているはずなのだけど、あんまり何か配慮してくれている気配はない。大丈夫そうに見せることにかけては私は天才的な才能を持っているから、それに騙されているのかも。まさかちょろっと言っただけで真剣に死ぬことを検討し始めるとは絶対に思っていないだろう。

まあ特別扱いを望んではいけないのかも。


昨日怒られによるしにたみ発作が起こったとき、私がこの衝動に負けたら一般的に考えて彼はたぶんこの先一生引きずるのかもしれないなと思って、なんだか可哀想なような、申し訳ないような、そんな気分になった。


そりゃあ今回の発作の直接の原因は上司だけど、元はといえば私がちゃんとしてなかったのがもっとそもそもの原因なので、私的には自分で原因を作って自分で死んでいくだけなのだけど、外から見るとそうは見えまい。


いや、上司に限らずたぶん周りの人たちになんらかのダメージを与えるのだろう。基本的に私が死にたくなるときというのは自己嫌悪の極致に達するか、生の苦痛に絶望するかしたときのどちらかであって、他人が原因の一端になることなどなく、自分の中で完結しているのだけど、おそらくそれはわかってもらえない。


私は自己肯定感が低いので、素朴な感覚としては、言うてもそのうち私のことなんて全員きれいさっぱり忘れてしまうだろうと信じているけれど、実際はたぶんそうではないのだろう。

私の自己肯定感の低さは筋金入りで、色々エピソードとか考えてることとかあるんだけど、この話題に関しては、一時期、ドナーカードを作る→自殺する→全身の臓器を提供する→こんな私でも世の中の役に立てる!とかわりと本気で思っていたというのがある。まあ、現実的には自殺で死ぬと色々時間がかかってしまってうまいこと使えないようなのだけど。つらい。


あと、私は自分が死んだ場合にその身体を丁寧に扱ってほしいという願望がない。というかむしろ損壊してもらって構わないくらい。

悲惨な事件なんかで遺体がバラバラにとかいう話を聞いても、生きたまま解体されるのは絶対に嫌だけど、死んでるんだったら別に私はいいけど…としか思えない。

まあでも遺族からしたらショックということなのだろう。私も知ってる人の遺体が損壊されてるのを見たらかなりショックを受けるだろう。……やっぱり私はかなり自己中心的なのかも。

この辺の話は一度ツイッターであまり人間味のない人たち(悪口)と話して、ほのぼのいい人キャラの私がそういう人間味のないことを言うんだと少し盛り上がった記憶がある。

あ、献体に登録すればいいのかな。


話が逸れた。

やっぱり一般的なことを考えると、人が一人自殺するということは、周囲に大騒ぎを引き起こすはずで、でもその実現可能性があまりに大きすぎて…というか私こそが引き金であって私が耐えればそれは起こらない、しかし安全装置があまりにもゆるゆるで、それが恐ろしい。私一人だけが平穏な日常を脅かすものの存在を知っているというか、私自身がその存在なのだった。


そのくらいしにたみ発作の衝動は強く、簡単に流されそうになる。いつも首の皮一枚で保っているにすぎない。紙一重で回避できているにすぎない。

都会の長い電車は巨大な蛇の王バジリスクで、ホームに入ってくる先頭車両の睨みを受けるとしばしば反射的に発作が起こる。いつのまにか電車は私の中で自殺の象徴になってしまっている気がする。仕方がないので足を動かさないように意識しながら目を逸らす。気をしっかり持っておかないと吸い込まれてしまう。


死ぬことが良いとか悪いとか説かれても、そこにたしかに衝動が勝手に発生するのだからとりあえず仕方がない。自分にはどうしようもない。

理詰めの説得にしてもハッピーポエムにしても、よくある引き止めフレーズで心に響いて衝動を消してくれたものというのは今の所存在しない。むしろああいうのに接してしまうと誰もわかってくれないという気持ちになるためかイライラしてしまうぐらいだ。


そういうよくある言葉を避けて、ネットの海に潜って私と同じ感じの希死念慮を持っている人を探していたとき、「性格としての希死念慮」というどこかの大学で書かれた短い論文?を見た。それが今のところ一番私の感覚にフィットする。今は元のサイトがなくなってしまったようだけれど、転載している人がいたように思う。


ここまで多分他の人から見るとものすごい暗くてどす黒い闇に見えるだろう話を書き散らかしてしまっているけれど、私の素朴な感覚では別にそんな大したことじゃなくて、もっとこう日常的でカジュアルなエッセイのつもりなのだ。


死にたがっておいて意外に思われるかもしれないけれど、実は私はたいていいつも幸せを噛みしめている。毎日結構充実しているし、自分の人生に対する満足感のようなものがある。矛盾するようだけど、憂鬱と幸福感は同居する。100万円あげてハワイにでも飛ばせば鬱は治ると誰かが言っていたけど、幸福度を上げてもあんまり関係ないと思う。効く人には効くのかもしれないけど。


私にとって生きることそのものの苦痛は想定される全ての幸福を凌駕する。


この人生はもうダメだ。基礎苦痛ポイントが高すぎる。希死念慮が消えるには別の人間として生まれる必要がある。それは人生がいい方向に変わるのとは違う。そもそもこの人生はすでにめちゃくちゃ順調なのだ。もう良くする余地がない。

ただ一つ選べるなら、生まれてきたくなかった。


こんな風に希死念慮についてならいくらでも語れるくらい死にたがりな私だけど、死に伴う苦痛は受けたくなくて、そのことがなんとかストッパーの役目を果たしているところがある。

他者へ迷惑をかけることの重大さも、他者との繋がりも、現世の幸せも、衝動の前にはほとんど無力で、ただ苦痛は嫌というそれだけが、いつも衝動に抗う最初で最後の砦だった。


なので安楽死というのは希望の光だ。でも海外でしか認可されてなかったり、あとこれがムカつくんだけど、メンヘラは適用してもらえなかったりする。問診や既往歴などで弾かれるようだ。想定される適用層は不治の病で身体がしんどいみたいな人らしい。精神の苦痛は苦痛ではないのだろうか。というか私とかは精神の問題で身体もしんどいけどそれでもダメかな。精神障害って治らないし。いつも安楽死のニュースを見ては、精神の健康が条件に含まれており、はい解散解散となってしまう。


誰にでも死ぬ権利が、自分の人生を自分の手で苦痛なく終わらせる権利が認められていいはずだと思うけれど、なんで生に繋がれていなければいけないんだろう。

安楽死基本的人権として認められるその日が来るのをずっと待っている。


ちなみに服薬以後一晩寝ると発作は収まるようになったので実は今はそんなに切迫した死にたさはない。結局なんだかんだ言って死ぬの(に付随する苦痛)は怖いから、外的要因で死ぬまで、苦しみながら生きるんだと思う。

とりあえず普段よく考えることを文字起こししてみただけだからあまり心配しないでほしい。

いつも通り、この文章がいつか同じことを考えている人の救いになれたらそれでいい。

君はケーキが食べたいね

この間病院に行き損ねたので、ここ2〜3日生身(おくすりなし)で外に出ている…。どこまでプラセボとか精神的な依存なのかはわからないけど、やっぱり飲んだ日と飲まない日では疲労感が段違いだ。普段はもっとマイルドになった疲労だけ感じているけど、生身だともっとピリッとした刺激的な疲れが全身を支配するのだ(疲労ソムリエ)。


そう今日のテーマは疲労。私は小さい頃から疲労感に悩まされてきた。慢性疲労症候群とはまたちょっと違うようだけどとにかく毎日しんどい。そうかといって血液検査では何も出ない。子供は元気なものだという一般論をよく聞いたので、これが元気な状態なんだと信じ込んでいたけど、やっぱりしんどいものはしんどい。

服薬しているとかなり薄まる(それでも-5000が-50になるくらいでプラスにはなかなかならない)。でも疲労というのは度数のきついお酒のようなもので、水やソーダで割ったところでわりと酔う。それを毎日ストレートでがぶ飲みさせられていた服薬以前の人生は一体なんだったのだろう。それ以外の状態を知らないというのは恐ろしいもので、自分は元気なはずだと思ってほぼ皆勤で学生時代を終えたけれど、今生身でもう一回やれと言われたら絶対に無理だ。


どこかで読んだが、発達障害者は疲れやすいんだそうだ。このおそらくは異常な疲労感の正体はそれじゃないかと睨んでいる。

あと主治医は易疲労性の鬱と何かの診断書に書いていた。それもあるだろうなあ。


しかも今はまだ若いからまだ一生の中で相対的に元気なはずで、これから歳をとるとどうなることかといつも戦慄している。周りの年上の人たちはみんな若い頃のように無理がきかないと言う。若いとき無理がきいたというのは私にしたら羨ましい話だ。

発達障害者は経年劣化はそんなにないという経験談を聞いたことがあるからそれだけが一縷の希望だ。

でもどちらにしても私の一生から疲労が消えてなくなることはないんだと思うと絶望していつも死にたくなる。わりと本気で。


まず朝起きるとくたくたに疲れている。体が動かない。それを気合いで起きて、倒れそうになりながら身支度をする。

で、家を出るとなぜか疲労感がわりと減る。なくならないけど。

これが私の意味のわからないところで、無意識レベルでまともぶろうとしてしまうのか、外に出るとわりと何もかも大丈夫になってしまうのである。この外モードのことも、誰かの参考になるかもしれないからまた書きたいなあ。


まあでも服薬期間が長くなるにつれて、ひとたび生身になると歩くのもしんどいぐらいになってしまうのは少し困るな。別にそれを薬漬けだと焦ったりするような私ではないけど(主治医も私も、薬をちょこっと一生飲み続けるだけでQOLが全然違うなら飲んだほうがいいという意見)、おくすりなしでは生きられないんだなあとぼんやりと思う。


そして外で活動してる間はわりと何しても平気で、家に帰ってきたときに一気に本日活動分の元気を一括請求される感じ。なので糸が切れたようにダメになる。そして眠る。

翌朝起きたときは借金まみれ。いつも気合いだけで無理やり返済して、また活動を始める。

毎日がそんな感じ。だるくて、重くて、しんどい。


だから休みの日で予定がなかったり、あっても一人で出かけるような予定だったりすると、疲れに負けて昏々と眠り続けたり、朝出かけようと思ってたのが数時間遅れて夕方になってしまったりする。


鬱がひどくてなかなか気合いが自由にならず動けなかった頃は(起きられなかったり、起きてても身支度する元気がなかったりで)ひどい遅刻魔だったし、今も結構時間ギリギリだったり遅れたりしちゃうことあるけど、実はそれですらも相当無理して頑張ってる結果ではある。他者との約束という圧がなければそもそも第一外出速度に達せないのだ。


解せないのは、1日眠り続けた日でも、翌朝またやはりぐったりと疲れた状態からスタートするところ。

私の元気袋には穴が空いているのだろうか。どこからか元気が漏れてしまっているのだろうか。

ぽろぽろ。


ネットの海の中にはこれをあるある話だと思って受け取ってくれる人がいると信じてこの文章を送り出す。